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パンダと地上げと錬金術と[2018年/成都編/中国の高度成長を旅する#18]

巨大化した航空業界

 北京空港に昔の面影はまったくなかった。ターミナルは新しくて大きく、端から端まで約三キロもある。こんなに大きいのなら、ここまでに使った高速鉄道の駅(上海虹橋駅、北京南駅、天津駅、于家堡駅)すべてをあわせても、今の北京空港の方が大きいかも知れない。
 中国は全国各地にすごい勢いで空港を作ったり、拡張したりしている。一九九二年当時、約七〇しかなかった空港が今や約二五〇もある。しかも今後、さらにその倍になる計画だ。空港の増加に合わせてフライト数は増え、航空会社も細分化している。一九九二年当時、国際線一社、国内線五社の六社体制だったのが、今やなんと五九社。その内訳だが、国際線や国内線を扱う広範囲を飛ぶキャリアはもちろん、地域に特化したローカルキャリアや、経費を圧縮し低価格を実現したLCC(ローコストキャリア)まである。
 航空会社の数や便の増加は、出発前、北京~成都間のフライトを予約したことで実感していた。その区間をtrip.comで検索したとき、飛んでいるキャリアの数は七社、直行便だけで一日に約四〇本もあったのだ。

 離陸二時間前、空港に到着した私は、中国国際航空のカウンターでチェックインして荷物を預けた。片道運賃はエコノミーで約三万一〇〇〇円と最安値よりも価格が倍近くする便。ケチらずにこれを選んだのは、外に比べるとスケジュール的に最も便利だったからだ。


 時間が来て乗り込んでみる。機内は通路が二つある二席四席二席のレイアウトで、ほぼ満席だった。乗客が富裕層ばかりかというと、そうでもなかった。三〇代から四〇代という最も活発な世代で、サラリーマンもいれば二〇代のごく普通の女性もいたりした。中国の一般人がそれだけお金持ちになったということ、それだけたくさん飛行機に乗るということを証明しているのかもしれない。
 着席して座席の前にあるポケットから安全のしおりを取り出して確認する。機体名として、エアバスのA330-300と記されていた。この機体の定員は二八五名とやや小ぶりである。機体は新しく、シートの背面には一人一人にモニターが取り付けられていた。映画を見たり、飛行ルートを確認したりすることができるようだ。背面ディスプレイがついているとき、私はいつもやるように、飛行ルート画面に固定して、離陸を待った。
 飛行機は定刻に離陸した。北京滞在中、李さんからの連絡を待っていたが、連絡はなかった。離陸することで、そのことが淋しく感じられた。もはや再会することはないのだろうか。
 安定飛行に入るとキャビン・アテンダント(CA)がサービスを開始した。CAは中国語だと空中小姐、空姐となる。空姐たちはメイクはキツイし、柔らかな笑顔を浮かべたりはしない。しかしサービスは国際線並み。乗り込んですぐに飲み物のサービスをしてくれたし、機内食もそのクラス同様のものを出してくれた。機内で私は、高速鉄道の車内同様、取材メモづくりに励んで過ごした。サービスが快適なので、そこそこはかどった。

つんつんしたCA

美味しそうな機内食

 約三時間後、飛行機はほぼ定刻通り、成都に到着した。スマートフォンや旅行アプリの広告の貼られている通路を抜けて、荷物が流れてくるコンベアが並ぶ一帯へとやってきた。目の当たりにしたコンベアは、二〇ほどはあるだろうか。すべてを見渡せないぐらいに並んでいた。そのことから、北京空港と同様、この空港がすさまじい規模で拡張されていることがわかった。成都の空港には国際線も飛んでいて、アメリカや日本、東南アジアのほか、出稼ぎ労働者が利用するのだろうか。日本からの直行便がなさそうな、中東やアフリカへの定期便も就航している。ターミナルビルの床面積は一三万八〇〇〇平方メートルもあって、当時の八倍近くもある。
 やはり九二年当時、使用した関西にある伊丹空港とははっきり明暗を分けてしまった。伊丹は関西国際空港が開港した後は、国際線の定期便が廃止され、ほぼ国内専用の空港になってしまい、九二年当時に比べると規模が縮小してしまったのだ。

 タクシー乗り場には数百人の人が荷物を持って並んでいた。タクシーの数がものすごく多く横四列にわたって、どんどんと人を吸い込んで行く。ざっと見ただけで五〇台以上はあるだろうか。しかも後ろから次々にタクシーがやってくる。
 番が回ってきてタクシーに乗り込む。百度地図のアプリで表示していた行き先を運転手に見せた。すると、彼は私のスマホを手に取って確認すると、乗車席のスマホホルダーに固定し、それをナビ代わりとした。

 空港から街の中心部まで、タクシーは高速道路を進んでいった。外にはずいぶん曇った景色が眼に入った。離陸前、嶋田くんから、「成都は、今、大雨です 外に出るのが難しいぐらいに」と、スマホにメッセージが入ったことがあった。ちょうどそのとき、北京は快晴だっただけに、そんなバカなと思った。ところが実際、成都に着陸すると、見事な曇天だった。「蜀犬は曇天に吠える」ということわざ通り、そして二六年前と同じ天気だった。

 その間ずっとビルというビルが続いていて、畑などは一切ない。以前は、のどかな田園風景が空港の周りに広がっていたのだが、とっくに開発し尽くされたという感じ。二〇階建て以上の高層アパートやビジネスビルが立ち並んでいる上海や北京、天津といった沿岸部が突出して経済発展しているのだと思っていたが、中国の発展はすでに内陸部の街にまで進出していることがよくわかった。
 高速を出た後は信号があったり、やや渋滞していたりしたが、概してスムーズ。街の中心部にあるその大学のキャンパスの東門までは約二〇キロ、時間にして約三〇分だった。これは私が二六年前にリムジンバスを使って中心部まで来たときよりも時間はかかった。車が多くなって、やや渋滞するようになったということが原因なのだろうか。

愛すべき過剰な男

 嶋田くんとは大学の門の前で待ち合わせ、迷った末に、なんとか会うことができた。
「はるばる成都までお疲れさまです。お待ちしておりました」
 嶋田くんはそう言って、近づいてきた。メガネをかけた細マッチョの彼は、知的だけど、アクティブな雰囲気を持つ男性だった。顔写真は持っていたし、ウィーチャットやメールで日常的にやりとりしているので、やっと会えたという感じはまったくしなかった。
 彼はその大学で観光学を学んでいる三〇代の大学院生。日本でサラリーマンをした後、語学留学のため昆明で一年過ごし、その後は仕事で沿岸部の大都市や重慶を経て成都にやってきた。本人が「ノンフィクションマニア」と自負するだけあり、彼の読書量は半端ない。Amazonのベスト500レビュアーになっているほどだ。そんな彼なので私の代表作はだいたい読んでくれているとのことだった。
「西牟田さんの取材に同行できるなんてこんな光栄なことはありませんよ」
 そんな物書き冥利に尽きることを話してくれる。だからといって彼が私の旅の追っかけをするだけの単なるミーハーかというとそんなことはない。
「○○のほうがいいんじゃないですか」とか、「○と×どっちにしますか」とか。そのときどきでバシッと私に意見したり、選択を迫ってきたり、といったシビアな態度で接してくるのだ。旅先でも毎朝ジョギングを欠かさない、身体を鍛えるのが大好きな読書家で勉強家――そんなストイックな一面を持つ一方、くだらない下ネタギャグが大好きなバカさも兼ね備えている。そうした愛すべき、大変な好人物だということを成都から昆明、西双版納、大理、麗江というこのあとの一〇日あまりの旅で私は思い知ることになる。
 成都では、その大学の寮に泊まることにしていた。学生たちの生活ぶりを見たかったし、なにより嶋田くんとの待ち合わせが楽だからだ。案内してもらった大学寮は風呂やトイレ、ツインのベッドが付いたご立派な個室だった。
 彼の方はと言うとまた別の六畳ほどの部屋に住んでいてそこはトイレや風呂はなかった。
「中国人と外国人は寮が別になってるんですよ。接触させたくないのかもしれませんね」
 天安門事件以後、朝から夜遅くまで大学生は勉強を強いられるという。嶋田くんが言うには、余計な思想を抱いたり、集会を作ったりするのを防ぐためではないかということだった。もっとも天安門事件以前から中国の学生は勉強ばかりさせられているということだから、事件以後、その傾向がますます強まったということだろうか。
 私は嶋田くんの部屋で今後十日間の日程とやるべきことを、彼の部屋にあるホワイトボードでリストアップしながら話し合った。成都でこの後、羅さんをさがしに学校へ行った後、昆明、西双版納へ。そこから飛行機で大理、麗江という一〇日間の取材旅行。その詳細を確認した。それぞれの場所で何を見て、どんな人に取材するのかを私が話し、質問があればそれに答えたりして、行動内容や移動日程をつめた。

 夜になると二人で陳麻婆豆腐店へ行った。ここは麻婆豆腐発祥の店。成都の名所なのでもちろん二六年前も利用している。嶋田くんは私の代わりに〝タクシー〟を手配してくれた。使ったのは、登録した一般車をアプリで呼び出して使うサービス。待ち合わせ場所や行き先などを車との間で摺り合わせ、条件が合えば、車の特徴を教えてくれるというものだ。
「あと一〇分ぐらいしたら大学の東門の前まで来ますよ」
 彼が言うとおり、普通の乗用車が時間通りに来た。
 路上でタクシーを待たなくても、このように登録した車が乗せて欲しい人とマッチングしてタクシー代わりにできるのだ。
 五キロほど走って、一〇分あまりで店に到着した。
 どうやってお金を払うのかなと思っていたら、嶋田くんはスマホを取り出して、距離によって算出された金額を、ウィーチャットペイを使って運転手のアカウントに送金、確認画面を運転手に見せる。これで支払いは完了。なんとも便利だ。

 車を降りて、店内へ入っていく。店の中はずいぶんと広くなっていた。二〇〇人ほどがテーブルを囲んで着席できるだろうか。九二年当時、もっと狭かったはずだが、どんな店のレイアウトだったかは思い出せない。

 山椒のたっぷりかかった独特の辛さのある麻婆豆腐、いんげんと牛肉の炒め物、チャーシューの中に根菜が入ってる料理、甘さ控えめなデザート風かぼちゃ、ビールを注文した。食べたり飲んだりしながら、予定していた羅怡さんの母校訪問について少し打ち合わせたり雑談したりした。
「西牟田さん、羅さんが通ってた中学、日本でいうところの高校ですね。そこには明日行きましょう。私の周りのみんなは西牟田さんと羅さんの再会をぜひ実現してほしいと言ってくれてます」
「見つかるといいんだけどね。それにしても中国の経済発展、半端ないねえ。景色が一変しちゃったし、交通は便利になった。みんなずいぶん身なりが良くなって、皆さんそこそこ幸せそう」
 すると嶋田くんは経済成長についての持論を語った。
「経済成長が幸せをもたらすかというと、一概には言えないです。むしろ逆かも知れません。交通事故で半身が不随になった友人がいるんですが、そうした人への補助は全然ありません。日本のように保険制度が整っているわけでもないですし、競争は過酷ですよ。店はどんどん入れ替わっていきますし、株で失敗して破産しても自分の責任です。成功する人とそうでない人での格差ができて人間関係がおかしくなった人とか。そういう人も世の中にはいます」
 また彼はこうも言う。
「経済成長といっても国家や役人ばかりが儲けて格差がどんどん開いていきますからね」
 中国といえば改革開放によって、人民公社を解体して各地で民営企業を競わせたり、積極的に外資を導入したりというやり方で、経済成長ずっとしてきたのだと思っていた。ところがそれは一九九〇年代までのこと。二〇〇〇年代に入るとその反動が一気に来た。軍事・資源・電力といった根幹産業への民間企業の進出の反動で国家管理が強化されたり、高速鉄道や高速道路などのインフラ整備にあわせ、その土地の地方政府が大々的な不動産開発をしたりといった動きが顕著になった。つまり二一世紀に入ると、それまでの〝民進国退〟から〝国進民退〟となった上での高度成長がなされるようになった。
 すでに記した、二〇〇八年のリーマンショックによって四兆元による景気対策。こうした国策による経済成長も国有化を推し進め、民間企業を衰退させる原因となった。交通インフラを中心とした徹底的な整備を猛スピードで推し進め、庶民たちが便利さという恩恵を受けたり、下請けの仕事を得たりしたが、その一方で国有化が進むことでの富が集中したり、格差が開いたりという矛盾が開いたのだ。
 そうしたネガティブなことも含め、彼は語ってくれるのだった。話のシリアスさとは裏腹に食べ物はどれもおいしかった。国営とはいえ手は抜かずに味を守り、経営努力を重ねてきたのだろう。お土産にレトルトの麻婆豆腐の素という物まで売られていた。
 私は二人分の支払いを済ませるため、伝票を持ってレジへ向かった。それときまだ午後九時にもなっていなかった。なのに店は閉まろうとしていた。一時は満席に近かったのに、気がつくとほぼ最後の客になっていた。
「どうします? 帰りは歩いて帰りますか」
 街の様子がどう変わったのか、見たかった私は、その提案にもちろん賛成した。
「じゃ、帰りは歩いて帰りましょう」


 嶋田くんの案内の元、街を歩いてみる。すると成都の街並みは見事なほど開発されていた。イトーヨーカドーのある中心部の繁華街は日本で言えば新宿駅の東側の繁華街のようなにぎわいがあった。ここはかつて邱永漢が成都の役人に「好きなところを買って下さい」と言われてイトーヨーカドーの一角を買い、不動産の高騰によって大もうけした一帯であるという。
 アパレルの入ったビルや高級スーパー、リッチなレストランなどが軒を連ねていて、かつて私が買い物したことがある社会主義的な百貨店はどこにもなかった。例えばイトーヨーカドーは入ってみると日本のデパ地下のようなフロアがあったり、高級スーパーのような空間があったりした。これはすごい。まさに大都会だ。あまりのかわりように、私は脱帽するしかなかった。
 二六年前、私がこの一帯に来たとき、国営の百貨店に入った記憶がある。あのとき、店内には、非常に質の悪いソフトビニールか何かで作ったおもちゃ、粗悪でデザインの悪い縫製もしっかりしていない服などが売られていたような気がする。テトリス専用の電子ゲームを買おうとして、店員にお金を渡そうとしたら、無愛想な表情で断られた。当時は、同じフロアにある支払所へ行っ先払いしてからでないと買い物ができなかったのだ。あの頃からずいぶん変わった。まるで別世界だ。
 イトーヨーカドーを出て、街の交差点に立つ。立派な商業用ビルが並び立ち、広告用のネオンや街灯がギラギラ光っていて、街は明るい。地上には電動バイクと歩行者、乗用車やバスが溢れている。北京や上海同様、内陸部の成都もすっかり大都会へと生まれ変わっているのだ。
「ずいぶん発展していて、まったく面影がないね、見違えたといえなくもないけど」
「成都をはじめとした中国の西部地域では西部大開発というのが行われているんですよ」
「えっそれ何?」
 勉強不足の私は、彼の言っていることに、すぐ相づちを打つことができなかった。

西部大開発って何だ

「西部大開発とは二〇〇〇年に入って以降、始動した政府主導のプロジェクトのことなんですよ。国土の面積のうち大半を占める西部の内陸地域を積極的に開発していこうとしているんです」というように嶋田くんは軽くレクチャーしてくれた。
 詳細を次の通り、地の文でもう少し補足してみよう。

 二〇〇〇年当時、東部沿岸地域と西部内陸部とではずいぶんと経済格差ができていた。改革開放が進んだことが原因であった。実際、二〇〇〇年当時、東部地域のGDPが八割、西部地域のそれは二割に留まっていた。また計画が実施される直前である二〇〇〇年当時、最もGDPが高い上海市と、最も低い貴州省とでは一〇倍の格差が生じていた。
 そうした格差を是正し、西部地域の人々に経済発展の恩恵を受けてもらったり、当地域の社会の安全と安定を図ったり。さらには、西部の発展によって中国全体の経済発展の可能性をさらに広げようとしたり。そうした意図が中国政府にはあった。
 西部大開発の重点政策はインフラ建設、生態環境保護、農業基盤強化、工業構造調整、観光業振興、科学技術・教育発展という五つの柱からなる。
 資金源については、「三つの七〇%」というものを政府が掲げて資金投入を当て込んでいる。これによると国家財政援助、国債発行による資金調達、外国政府・国際機関からの借款の七〇%。これらを西部地域に配分するというものだ。また民間の投資環境を改善したり、対外対内開放などもあげられた。つまり、主に国が自腹を切ることで素早く成し遂げていこうというものらしい。そうして、二〇〇〇年から二〇〇九年までの一〇年間に、中国政府は二・二兆元(約二八・六兆円)もの資金を投入、インフラ開発を中心にした大開発が西部地域で進めてきた。
 二〇〇八年に四川大地震やリーマンショックが起こっても、その勢いは留まるところを知らず、災害復興や景気対策のため、開発はむしろ加速された。二〇一〇年には計画の続行が決定、新たに六八二二億元(約八・八七兆円)が再投入、計画はさらに続行されることになった。
 この大開発の対象となる重点地域は、成都を含む四川省、雲南省、貴州省といった東南アジアにほど近い省から内モンゴルやウイグル、チベットといった自治区まで一二の地域に渡っている。これらの地域の面積は国土全体の約七割にあたる約五四〇平方キロ。その面積は実に日本の約一四倍もある。海から遠く離れたこの内陸地域には、五〇〇〇メートル以上の山脈や砂漠、熱帯のジャングルと自然環境の差異はすさまじい。西部地域に住んでいるのは全人口の四分の一~五分の一を占める約三億人。中国全土に五六いるとされる少数民族のうち約八割がこのエリアに暮らしている。彼らとの言語的、文化的、宗教的、人種的な違いはもちろんあって、共産党政府のやり方に必ずしも同調している人々ばかりではない……。

 嶋田くんから西部大開発の概要を聞かされて、私は思った。これだけバラバラで広大な地域の開発をインフラから何から政府主導で強力に推し進めていこうというのは、それこそ日本が一国だけで南米や東南アジアの大半を自国並みに発展させるようなものだと。はっきりいって無茶だ。
一九世紀半ば、アメリカでゴールドラッシュが起こった。一攫千金を求め、西部地域にわーっと人が押し寄せた結果、都市が生まれ、アメリカ全土で経済発展が進んでいった。そのゴールドラッシュと西部大開発は似ているようで、かなり違う。規模や面積はともかく、民族的多様性や自然環境、その主体といった点で、ゴールドラッシュよりも西部大開発のほうがずっと困難に思えるのだ。
 しかし考えてみれば、改革開放だって一九九二年当時、日本国内では中国の改革開放政策の成功を疑問視する声が多かった。それはこのようなものだったと思う。
 ――国の規模が一〇分の一しかない日本の経済成長ですら、戦後の奇跡として世界でもてはやされているのだ。これだけ巨大な国が経済成長し続けられるはずがない――。
 ところがそんな失敗はどこ吹く風。今や、すっかり成功させ、国全体のGDPは日本を抜き去ってしまった。だとすると、西部大開発も失敗するといえないのではないか。
 西部大開発の中心地である成都市。その街並みを見る限りにおいて、開発が成功している様に見えた。だが日本の一四倍に渡るこの西部地区の発展は実際に可能なのだろうか。成功して発展したらしたで、地球全体の環境問題になったり資源が枯渇したりして、大変なことになってしまわないのか。というか、そもそもこの大開発の資金はどうしているのだろうか。
 人類史上かつてない試みといっていい西部大開発。私はその今後について、夜の成都の街角に立ったまま考えていた。

羅怡さんを訪ねて学校へ

 九二年当時、私が昆明行きの鉄道の切符を買ったのは成都駅ではなく、街中の切符売り場だった。ネット予約していた切符を今回もそこで発券できればと思っていた。そこで、持参していた昔の日記・ガイドブックを確認してみた。ところがその場所は記されていなかった。嶋田くんは言う。
「切符売り場は何カ所かありましたけど、ネットでの予約が可能になったからか、もうどこもやってないですよ」
 実際、その一つを通りがかってみたが、固くシャッターが降ろされていた。ニセ切符をつかまされた現場を振り返ってみたかった。しかし、その手かがりは残されていなかった。

 九〇年代初頭に出かけた中国の旅。そこで出会った人たちのうち、会いたかった人が何人かいる。そのうちの一組が、成都から昆明までの火車(鉄道)で乗り合わせた当時の学生さんたちだ。ニセ切符をつかまされているとわかってはいた。それでも私は降ろされまいと必死だったため、私と同じ番号の切符を持っている人がいた。それがその学生の一人だった。
 彼らとは、成都で乗り合わせたときこそ険悪な関係だった。しかしそのうち打ち解けて、二六時間もの間、車内でしんどいながらも、楽しく過ごすことができた。
 同じ番号の切符を持っていたのが、私の筆談ノートに〝羅怡〟と名前を記した当時、二〇歳の男性だった。彼はGジャンを着ている七三分けで眼鏡姿。見るからにいかにも勉強ができそうだった。彼は女友達を二人連れていて、そのうちの一人は陳さん。やはりGジャン姿に眼鏡。耳が出るぐらいのショートカットで英語がうまかった。もう一人は髪が長くワンピース姿という揚さんだった。彼女はそのとき手足に怪我をしていたはずだ。三人とも成都市第三二中という学校に通っているそうで、夏休みなのか、三人で連れ立って昆明へ遊びに行くところだと話した。
 にしても不思議なもので、後ろめたさとか後悔を私自身、抱えている人の方が会いたくなるものなのか。私は北京で会おうとしたバスの乗組員の女性同様、二五年以上が経ち彼らに会ってみたくなった。一緒に車内を過ごしている間、彼らは私の方がニセ切符だと確信していただろう。だがあのとき私は自分を守ることで必死だった。と同時に気まずさを覚えていた。そして今もその感情の残りかすのようなものがかすかに残っている。
 一体彼らは今何をして生きているのだろう。西部大開発の恩恵を受け、うまくやっているのだろうか。彼らの生い立ちについてはほとんど聞いていなかったので、どうなったかまったくわからない。普通に勤め人でもしているのだろうか。羅さんたちのような、ごく普通の中国人がいかにして、この四半世紀を生きてきたのか。読めないだけに、彼らの現在が気になった。

 嶋田くんには七月中から調査をしてもらっていた。まずは寄せられたのは、目撃者情報であった。
「今、銀行員の知り合いから連絡があって『よく似ている人を知っている』と言われました」
 嶋田くんからの知らせを受け、私は興奮した。おっ、これは発見したんじゃないか、と心の中で小躍りした。ところがだ。続きを読んで、興奮は一気に冷めた。
「羅怡という名前ですけど、彼は自己紹介を口頭でしたんですか? それとも筆記ですか? というのもですね、その人の名前は駱睿で、羅怡とは、姓名の発音がどちらもLUOなんですよ」
 当時の私は中国語の発音を聞いてそれを漢字にする能力はなかった。だから彼らとは筆談で意思の疎通をはかっていた。名前の漢字は本人に書いてもらったのだから、本人が偽名でも使わない限り、間違うことはあり得ない。とすると銀行で目撃された駱さんと羅怡さんは別人であるということだ。私はやや気落ちしながら「筆談だから〝羅怡〟で間違いないよ」と返事した。

 百度を使っての名前検索は手がかりなしだった。私もやってみたが、李さんのときのような有力情報は得られなかった。というのも顔写真や略歴といった本人だと特定しうる確度の高い情報が一向に見つからないのだ。
「羅怡という名前は中国国内でかなりポピュラーなんです。同姓同名が少なくても三万人以上います。だから名前だけじゃ探しようがありません。こうした名前を付けるというのは親にあまり学がないからこそかもしれませんね」(嶋田くん)
 学がないとすると、出身は成都ではなく、地方だったりするのだろうか。であれば卒業者名簿に載っている彼の出身地は成都から遠いところにある可能性がある。

 ネットで試したもう一つの方法として、利用したのがQQである。これはウィーチャットよりもコミュニティでのやりとりに強いグループウェア。嶋田くんにお願いして、年次別の卒業生グループの管理人に捜索の意図を中国語で伝えてもらった。
「私の友人は羅怡さんを探しています。二人は二六年前に会ったことがあるそうです。羅怡さんは成都市第三二中出身。グループの中に羅さんはいませんか。できればこの情報を拡散していただきたいと思います」
 本来ならば、九三年か九四年卒業のグループならばよかったのだが、見当たらなかったので、七四年、七九年、八五年と成都市第三二中の年度別の同窓会グループにそれぞれ連絡をしてみたという。しかしこれも効果は薄かった。
「部外者がグループに入るには、管理人に申請して許可を得る必要があったんですが、私の場合は却下されました」

 同時にお願いしていたのが、事前の学校訪問である。それでこの成都市第三二中について百度で調べたら、成都市財貿職業高級中学という名前に変わっていたことがわかった。もし成都にいないとしても連絡先ぐらいはわかるだろう。学校にさえ行けば、あっさり解決するのではないか。そんな風に私は成り行きを楽観視していた。
 八月の初め、嶋田くんに学校を訪ねてもらい、事務職員にヒアリングをしてもらった。住所や電話番号が記された名簿やアルバムが見つかったり、恩師が見つかれば御の字だ。
「今日お会いした先生は二〇〇〇年代に先生になられたB先生でした。彼は卒業名簿を取り扱う権限を持っていないそうです。取り扱う人は別の人で、その方は夏休みでオーストラリアへ行っているとか。教師の皆さんはけっこう裕福な生活をしているみたいです」

 嶋田くんにはその学校幹部の知り合いがいると聞いていた。
 その幹部のコネを使って、卒業名簿・アルバムの閲覧を認めさせることはできないだろうか――そんな風にも思っていた。しかし、それは効果がなかった。というのもこの学校は校舎が三箇所にあり、卒業者名簿や卒業アルバムが置かれている校舎と、その幹部がいる校舎が別の所にあって権限が及ばないようなのだ。
 そもそもこの幹部の方、私の捜索活動には関わりたくないようで、その意志を暗に伝えてきた。「出張で北京へ行く」と。その出張の日程は私の成都滞在とぴったりかぶっていた。
 羅怡さんのことで協力してくれるかどうかは別として、私はその幹部の方と会って話をしてみたいと思っていた。しかし何だか避けられているようだ。これは諦めよう。

 当日、学校で何か手がかりを得るしかなくなった私は、成都にやってきた翌日、嶋田くんとともに学校を目指した。ウェブサイトを見ると、ホテル英語やホテルマネージメントなどといった専門的な学科ばかりで、進路も大学というより、ビジネス、金融サービス、観光業界への就職が多いことがわかる。当時会った陳という女性が英語を話せたのは、もしかすると英語に力を入れている学科に在籍していたからかもしれない。
 それはさておき、この学校は大学進学を目指すための学校ではなく、日本でいえば、専門学校に近い高校という位置づけなのだろう。教員の数は二三三人、学生の数は四六〇〇人にのぼっている。
 修德、尚能、笃行、创新という校訓が記された四階建ての校舎があり、その手前に〝公安〟と記された詰め所が附属した正門がある。そんな正門の前で、嶋田くんがスマホで電話したところ、校舎から教員らしき男性が出てきて、中に入ってくるように手招きしてくれた。嶋田くんがこれまでやりとりしてきたB先生だ。見るからに、真面目で優しそうな方だ。
 校舎へ入り、教学楼という、大学の事務を担う部屋へ案内される。その途中、学生たちらしき十代後半とおぼしき男の子や女の子とすれ違う。彼ら学生たちの外見は日本で言うところの高校一年ぐらい。でもなぜ彼には迷彩服なのだろう。私がえっと思って、彼らの後ろ姿を見ていたところ、B先生は言った。
「ちょうど今日は軍事教練の日なんです」
 日本であれば、避難訓練のノリでこうした訓練をしていることに少しカルチャーショックを覚えた。しかしそうした物々しい恰好とは裏腹に、学生たちは、男女で和気あいあいと話しながら、階段を降りていった。かつて毛沢東が「革命は銃口から生まれる」と話したとおり、この国と人民解放軍は不可分なのだ。平和憲法をよりどころとしてきた戦後の日本とは国の体制がまるで違うということを改めて私は思い知った。

 コンピューターの並ぶ小さな教員室でB先生にお話しを伺った。「どうぞお座り下さい」と言われ、着席すると、紙コップに入ったお茶代わりの白湯が出てきた。
「ここにいる作家の西牟田靖さんは御校の前身である、成都市第三二中の羅怡さんら三人と、昆明行きの火車の中で会っています。九二年の八月初旬のことです。羅怡さんは当時二〇歳と自己紹介していたそうです。西牟田さんは羅怡さんと再会したくて、成都までやってきました。彼の連絡先がわかるようなデータはここにありますか」
 嶋田くんが言うと、B先生は言った。
「この件で何度か本校へ来られましたね。おっしゃる通り本校の前身は成都市第三二中でした。しかしそれは一九八三年までの名前なんです。羅怡さんが在籍していたときはすでに名前は変わっています。それに二〇歳で本校に在籍しているということはまずあり得ません」
 嶋田くんがQQのグループに申請を出した七四、七九、八五年のグループに連絡しても拒絶された理由がこれでようやくわかった気がした。というのも羅さんが入学する頃、成都市第三二中という学校は存在しなかったのだ。
 羅怡さんが二〇歳と名乗ったことについては、嶋田くんは機転を利かせ、仮説を立てて質問してくれた。
「二〇歳で中学校(日本の高校)に在籍しているというのは、途中、軍にいたから入学が二年遅れたということはないでしょうか」
「軍役を終えてから、入学することはまずありません」
 むむむ。であれば、羅怡という人間はそもそもこの学校に在籍していたのだろうか。
「九二年当時、羅怡という学生がいた可能性はありますか」
 嶋田くんがそう伝えると、B先生はこの部屋を管理する別の職員に話しかけてくれた。するとその職員は、パソコンのキーボードをカチカチ打ち始めた。どうやらデータベース化された過去の在籍者名簿を検索してくれているらしい。
「羅怡さんは九二年時点で在籍していますね。九四年には本校を卒業しています」
 もしかしてその人かもと私は一瞬思った。しかし、その考えはすぐに取り消した。九二年に在籍し九四年に卒業したとしたら、そのとき二二歳となっているからだ。であれば、その羅怡さんは探している羅怡さんでないことは明白だ。在籍するには年を取り過ぎている。
 では次の手を打とう。それは、手がかりになりそうな別の資料があるかということだ。
「卒業アルバムは見せてもらえませんか。また档案(タンアン)は置かれていたりしますか」
 嶋田くんのいう档案(タンアン)とは、いわゆる閻魔帳のことだ。本人の政治的な傾向や成績、親の出自などが記されていて本人は見ることができない。この書類は就職採用のときに使われるのだという。これが第三二中から引き継がれているのならば、彼の消息に近づける可能性が高い。
「ここにはアルバムはないんです。档案も置いてません」
 合併したからか、それとも卒業してもう二五年以上が経って古すぎるからか。理由はわからなかったが、アルバムも档案もここにはないようだった。アルバムがあればすぐに顔写真を突き合わせて確認が取れるのだが、そうはいかなかった。档案が読めないことも痛い。万事休すか。

 そのとき、私たちのところに協力者が現れた。それはB先生が私たちの訪問にあわせて呼んでくれていた、当時を知る古株教員であった。
「八九年からこの学校で働いています。当時のことを知りたいのですよね。ぜひ聞いて下さい」
 お忙しいのにあまり時間を割いてもらうのも悪い。そこで私は単刀直入に聞いてみることにした。持参していた羅怡さんとのツーショット、メガネ女性陳さんとのツーショット写真を取り出して、「私と一生に写っているこの二人を知っていますか」と言って、それぞれ見せてみた。
「二人とも見覚えがないですね」
 それ以上、話すことはなかった。私たちが礼を言うと、その先生は部屋を辞した。
 すると次に、六〇代という感じの警察OBと名乗る男性が現れた。人相を見る達人である警察OBが写真を見ることで何かわかるかもしれないとB先生は思って、来校してもらったようだ。再び私は二枚の写真を見せた。
「当時、二〇歳ですか。この学校に在籍するにしてはちょっと年齢が上すぎるかもしれませんね。だけど再会できるよう祈っています」
 彼のコメントはそれだけだった。あまりにも情報がなくあてずっぽうだったため、見てもらっても特に何も手がかりはなく、ご足労いただいたことに私は恐縮した。
 するとBさんもなぜか恐縮している様子だった。しかしそれは別の理由によるものだった。
「本当ならもう一人、呼ぼうと思っていました。それは当時の在籍生徒のことを最もよく知る、当校OBです。その先生に聞けば何でもわかるんですが、いま大阪にいるんですよ。日本から戻れなくなってしまったんです」
 たまたま関西へ観光旅行に行っていたが台風が直撃、泉大津と関西空港を結ぶ橋に船が激突し、ちょうど空港が使用不能になっていて帰れないそうなのだ。

 調査はそれでおしまいだった。謎しか残らず結局何も手がかりはなかった。それでも私は、B先生には心から感謝した。すでに学校を離れた教師OBや、まだ在籍している当時を知る古い先生に聞いてくれたり、警察OBの方にまで声をかけて調べてくれたり。B先生はかなり突っ込んで調べてくれたのだ。
 私たちが退室するときB先生はゲートまで着いてきて見送ってくれた。
「何かわかったらまたお知らせします」
「本日はお世話になり、本当にありがとうございました」
 成都滞在時には間に合わないが引き続き調べてもらってその報告を嶋田くんから受けることにしよう。とはいえ何か新情報が寄せられる可能性はあまり期待できない。手詰まりとなってしまったことで、羅怡さんたちもまた、私を残してシベリア鉄道に乗り込んで行ったイギリス人や北京のバスの切符売り同様、ほろ苦い思い出として、今後変わることなく、形で私の中に留まり続けるのだろう。

※その後、この原稿を記しているときに私はふと、思いついた。羅さんたちが「二〇歳、成都市第三二中」と記したのは、在籍しているのではなくて、そこを卒業したばかりという意味だったのではないかと。というのも彼が数え年を言っていたとすればすべて帳尻が合うのだ。
 出生時、実年齢だと〇歳だが、数えだと一歳。次の正月で二歳となる。とすれば実年齢は一八歳だったのかもしれない。私が成都を訪れたのは八月初旬だ。その時期、中国の中学校(日本の高校)は夏休み。学校を卒業する時期でもある。だとすれば、羅さんたち三人は夏休み前の七月の初旬に学校を卒業した同級生の三人が卒業旅行で昆明を目指したということではないか。もしそうだとすればストレートで成都市第三二中に入り、留年せずに卒業していたとしても矛盾はない。卒業した直後の卒業旅行であれば、まだ就職していないのだから、「年齢は(数え年の)二〇歳、所属は成都市第三二中」と自己紹介してもおかしくはない。
 一方、嶋田くんが過去の卒業名簿を確認してもらうために職員の方に聞いていたのは、九二年当時この学校に在籍していたかという内容に限られたのだ。であればそれ以前の卒業者名簿も聞いておくべきだった。

世代間ギャップ


 学校を訪ねた日の夜、嶋田くんに誘われて、火鍋を食べに行くことにした。二人きりではない。留学生会館に住む別の日本人留学生たち三人とともに一緒に連れ立って食べに行ったのだ。
 火鍋の店に行くまでの間には、ぼったくられそうな怪しげなバーや、最新のビートで客たちを踊らせるクラブなどがあり、かつてよく見た〝卡拉OK〟というネオンは見当たらない。卡拉OKとはカラオケ店のことで、当時はまだ、日本の「北国の春」や「昴」といった曲が歌われていたのだが、そうした店は、すっかりおしゃれな歓楽街にとって替わられたようだ。
 火鍋の店はその歓楽街を越えたところにあった。人気店らしく、火鍋のテーブルばかりがフロア一面に一〇〇ぐらいは並んでいただろうか。真ん中が仕切られテーブルに埋め込まれたステンレスの鍋。一方にはオレンジ色の固形化したスープと砕いていない大量の唐辛子が入り、もう一方には円筒状の白ネギや丸いナツメが入った茶色いスープに浸かっている。まずは揚げ物のつまみやチャーハンを食べて、スープがグツグツしてくるのを待つ。そして肉を大量投入、きのこや野菜も入れていく。具材が煮えたところで、薬味の入ったごま油につけて食べていく。猛烈に辛く、ビールが進む。臭いは強烈だが、食べている分には食欲をそそられる。
 その場にいたのは、私と嶋田くんの他は、中国人スタッフを使って怪しげなまとめサイトを作っている元引きこもり、あと大阪にある新設大学の学生さん二人。三人ともまだ二〇代前半だった。
 私が中国を旅していた九〇年代前半、留学している日本人というと、真面目に中国語を勉強している勤勉な学生か、日中友好を信じているアジア好き、休みに入るとすぐに旅に出るバックパッカー上がりの学生という印象だった。そのころは日本と中国の経済レベルが、とてつもなく離れているころで、中国の貧しさやマナーの悪さに対し、あからさまに侮蔑している者が少なくなかった。はっきり言う者も言わない者も、日本より貧乏という印象は彼らに共通していたしそれは私もそうだった。本人は意識しなくても、中国を見下している者が少なくなかった。
 ところがだ。二〇代前半の彼らの中国観はまるで違う。あたかも最初から、中国が先進国であるかのように見なしていて、侮蔑どころか羨望のまなざしすら感じてしまうのだ。
「中国語を勉強して日本に戻ったら、日本に来はる中国のお客さんのお手伝いをさせてもろたらええなあって思ってるんです」
 大阪の新設大学に通う学生はそう言った。それに対して私は大阪弁で返した。相手が大阪人だと大阪弁に戻るときがあるのだ。
「僕らの世代やったら中国っていうたら貧乏でがさつっていうイメージが抜けへんのやけど」
「そんなん思ったことありませんわ」
 私は彼女とのやりとりをして、世代間ギャップを感じざるを得なかった。一九八〇年代から九〇年代にかけて、たくさんの日本人がツアー旅行で海外を訪れて、そのたびに世界中のひんしゅくを買った。二〇一〇年代の半ば、海外旅行がブームとなり日本にも大挙して、中国人が訪れ、コスメやクスリなどをはじめ、たくさんのものを買い占める爆買いという行為が話題となった。一方で日本人の若者は節約しているのか海外へ行かなくなった。
 私のような一九七〇年生まれの世代やその上の世代は中国人というと、がさつで貧乏というパブリックイメージを抱いていたように思う。しかし彼ら二〇代の日本人はどちらかというとわざわざ日本まで来てくれるお金持ちの人たちが住む国というふうに捉えている節があったのだ。
 元引きこもりの彼にしてもそうだ。特に中国を見下すという感じではなく自分自身を試すための挑戦の場として、居心地が悪く感じた日本を捨ててこっちにやってきたという感じだったのだ。どちらかというと、かつて日本人がアメリカに挑戦の場を求めたようなノリで中国という国を見ているらしかったのだ。
 その点嶋田くんは本をたくさん読んで知見を広げているということもあって私よりも一回り若いが、両方の視点を持っていた。その上で彼は言った。
「ニシムタさんが成都に来たとき留学しようとか思わなかったんですか。だって物価とかすごい安いでしょ。羨ましいです」
 そういうふうに彼は言った。もちろん彼は九〇年代初頭の中国の過酷な旅行環境を知らない。だから私は言った。
「中国が経済発展するから役に立つというようなことは当時すでに言われていたし、私自身、興味がないわけではなかった。だけど留学しようという発想にまでは至らなかった。当時は旅行するだけでも、相当、過酷だったからね。だからそう思ったのかもね」

 世代での違いは何も日本人の対中観だけではない。中国人自身が世代によってメンタリティがずいぶん違うように感じられるのだ。たとえば、北京の僑園飯店の土曜夜に対応されたカウンタースタッフは、「二六年前に来た。当時のスタッフに会いたい」と話しても、そんな昔のことをなぜ知りたいのかという感じで無愛想だった。一方で一九八二年からの創業メンバーである五〇代の女性マネージャーは「今の子は当時のことにまったく興味を持たない」と嘆いていたのだ。
 貧しい頃を知らないこと以外に、若い世代とその上の世代ではその感覚がかなり違っている。例えば、現金を使おうとすること、中国語がカタコトであることに対しての不寛容さは今の若い世代に顕著なようだ。
 成都に到着して三日目、一人で行動したときのことだ。地下鉄の駅からパンダ基地行きのバスに乗るとき、小さなチケットオフィスで入場券を買った。そのついでにパンを買ったときのことだ。パンを指さして、片言の中国語で買うことを告げると、まずそこで怪訝な表情をされた。そしてさらに現金で払おうとすると、嫌そうな表情を隠さなかった。パン自体は買えたのだが、後で気がついたとき一〇元出してお釣りが二元来るはずが一元しか返ってこなかったのだ。まあこれは私がバスに乗るために急いでいたため、お金をちゃんと数えなかったことにも原因があるのだが、気がついたときは頭にきた。

 私がパンダ基地から武候祠へと行こうとするときもそうだ。とまどいと嘲りが入り交じった笑みを浮かべるだけで、切符を売ってくれなかったことすらあった。逆に北京で私に付き添ってくれた六〇代の大阪さん夫婦が現金での決済が基本というのとずいぶん違っている。

和歌山で生まれた雄浜


 こうした対応はスマホ決済が進みすぎていること、経済的に恵まれていく中で育ったことで、中国人であることに対し自信を持つ一方、他国を見下すとまではいかなくても、以前に比べると中国語以外の言語に対しての不寛容さが増したような気がした。以前ならば見下すというよりも、なんでこの人は話せないんだろう、という態度だったり、外国人だということで珍しがったりされたが見下されることはなかったのだ。経済発展したからこそ外国人に対しての引け目がなくなったとも言えるが、一方で外国人だからということで逆に中国を旅する日本人である私が引け目を感じるようなそんな感じがどうもあった。
 以前のように明らかにやる気がなかったり、話しかけると大変面倒くさそうにしたり、あっちに行けと言わんばかりの対応をされたり、対応してくれてもお金を投げ捨てたり、といったことこそはないが、中国人の自分中心的な考えが、自国が豊かになったり、スマホ決済になったことでまたむくっと顔を出しているのだろうか。
 もちろん悪い部分ばかりではない。私が北京にいるときに訪問したベンチャー企業のスタッフは、世代が若いからこその、新しく自由な発想を持っている気がした。その企業は電子インクのディスプレイ専用のメーカー。八〇年代生まれの宇宙工学の研究者がネット上で意気投合して、八〇年代、九〇年代生まれの若者たちが起業したのだった。こうした新しいものを一般人が使えるレベルで商品化してしまう若者たちによるベンチャーというものは、私が知る限り、日本では聞いたことがない。
 彼ら八〇年代生まれ、九〇年代生まれは八〇后、九〇后と呼ばれている。一人っ子政策のため兄弟のいない小皇帝として、両親や祖父母の寵愛を一身に受けて育った彼らは、社会の経済成長の影響もあって、彼らはわがままで物質的な繁栄に慣れている。九〇后はそれに加えて、パソコンやネットがある状態で育ってきたため、情報化社会の急激な変化に即応しているという。
 彼らのメンタリティは平成時代の長い不況に乗って人生の選び方が非常に慎重になってきた今の二〇代の日本人というよりも、私が前回中国を訪れた二六年前の私と同じ世代かもしくは更にそのもう少し上のバブル世代にメンタリティが近いのかもしれない。彼らは別に何も恐れていないし、自由に生きている感じがしたのだ。それでいて中国人によくある内と外の感覚は世代が変わっても持ち合わせている者が多い。
 そうした世代の違いを今回の旅で私は場所場所で受け止めているのだろう。それだけ年月がすぎたということなのだろう。
 そんなことを考えながら武候祠の中へ入っていった。
 盆栽だらけだったり丸い塚だったりとやたら広く、諸葛孔明や劉備、張飛などといった三国志のヒーローが祀られている。前回、記念撮影をした人形のところにはなかなかたどり着けない。それでも何とか探し出して当時と同じように観光客に話しかけて、諸葛孔明と写真を撮ろうと思った。
 以前と比べて、片言の中国語にしろ、英語にしろ、何度話しかけても断られてしまう。それでもくじけず、声をかけ続けていると一〇人目ぐらいでようやくひとりの若者が応じてくれた。
「私を撮ってもらえますか。ここに私、二六年前に来たんですよ」と言うと驚いていて、
「私はまだ二三歳なんです。私が生まれてない頃に来たんですね」と驚かれた。

パンダと地上げと錬金術と

 成都に三泊した後、私は嶋田くんと二人で、雲南省の省都、昆明を目指して南下することにした。出発は午後二時台と、まだ時間があったので、その前の午前中一緒にいくつか回ってもらうことにした。まず出かけたのは二六年前にも出かけた成都動物園だった。

 当時はバスで出かけたはずだ。しかし今回は地下鉄で行くことができた。この地下鉄、二〇一〇年に開業し、二〇一八年の夏の時点で六路線、全長一九六キロもあった。(さらに年末には全長二二七キロと延伸した)。
 地下鉄で三〇分ほど、八つ目の動物園駅で降りた。動物園は以前のような、いかにも途上国の動物園といったコンクリートに鉄格子という殺風景な風景ではなく、現在の上野動物園のような、動物の成育に配慮した施設へと進化している様子が見て伺えた。

 パンダ専門の観察施設が成都郊外にできたためか、パンダ舎はあまり混んでおらず、見ようと思えば一日中、観察していられそうだ。パンダ舎は檻ではなく、上野動物園や白浜アドベンチャーワールドのパンダ舎同様にガラス張りだ。
「ずいぶん近いですね」
 そんなことを言いながら嶋田くんは何を思ったのか、ガラスのすぐ向こうに座っているパンダにアピールするかのように、ピタッとガラスに張り付いた。すると、パンダはおもむろに立ち上がったかと思うと、ぐおーと鳴いて、嶋田くんにガラス越しに密着した。彼の突発的な行動にあっけにとられつつも思わず吹き出してしまった。
 その後、私たちは二六年間の変化について聞くために、管理事務所を訪ねてみた。
 答えてくれたのは四〇代らしき女性職員だった。私は当時撮った、檻に入ったパンダの写真を見せながら聞いた。
――このパンダは今もいるんですか。いないとすれば、今いるパンダは子どもか孫ですか?
「九二年当時のスタッフはもう誰もいないのでわからないです。私は九八年から在籍していますので」
――ガラス張りになったのはいつですか?
「檻からガラスになったのは二〇〇〇年以降ですね。ガラスの方が見やすいですし、お客さんが間違って手を伸ばし怪我をする可能性もこれで防げます。それでこういう形にしました」
 その答えを聞いて、さきほどの嶋田くんの行動を思い出して、うっかり思い出し笑いをしそうになった。それはさておき気になるのは、なぜカラス張りにしたのかと言うことだ。
――ガラス張りにしたのは改革開放によって経済成長したことのたまものなんですか。
「そうです。ガラス張りにしたのは、もちろん中国の経済発展が影響しています。こうした施設は時代にあわせて変えていく必要があるでしょう」
 職員は突然現れた日本人に驚きもせず、誠実に答えてくれた。その表情は迷惑というよりも、久々に訪ねてくれたことを感謝し、歓迎していることが伺えた。彼女は世代的に私と同世代。北京の僑園飯店の呉さんと同じく、二〇〇〇年代の奇跡的な発展をする前のことを懐かしく思っているに違いない。彼女もきっと八〇后、九〇后世代との世代間ギャップに日常的に晒されているのだろう。
「忙しいところ、すみません。謝々」
「いえいえ。当施設を楽しんでいって下さい」
 動物園の変化が西部大開発と関係しているかどうかはわからなかった。しかし、少なくとも経済発展という大きな流れによって、動物園が発展したことは間違いがなかった。

 かつて私が歩いた通りなどはかなり変化していた。大学の敷地北側を流れる錦江、その対岸には私がかつて宿泊した、濱江路賓館というドミトリーがあって、川沿いの道には、活気こそあるがあまり綺麗ではない屋台街のようなものがあり、印刷の悪い日本の有名漫画の海賊版が売られていたり、何が出てくるかわからない活気のある食堂街などがあったりしたものだ。
 ところが今回、同じ道を歩いてみると、漫画の屋台は一切なく、乗用車が渋滞の列を作っていた。車の中には日本車も珍しくない。道路の上は歩道橋があり、自転車の代わりに電動バイクが専用レーンを走っている。築浅の立派なビルが立ち並び、高さ二〇階以上の高層アパートもあちこちにある。あちこちにコンビニがあったり、銀行のATMがあったりして、全般的に、非常に整備された街並みが広がっていたのだ。それは経済発展したというより、街中をを掘り返して開発をし尽くした結果、街並みを一変させたという感じなのだ。よく言えば、野暮ったい田舎娘が一流のメイクとファッションコーディネートによって見事な美人に生まれ変わったようなそんな感覚に近かった。
 当時、私が泊まった安宿があった場所にも行ってみた。するとそこは七つ星という、超一流ホテルに様変わりしていた。経営するのは中国一の不動産ディベロッパー、大連万達集団であるという。この地にいきなり、トランプタワーが建ったようなものだ。
 高口康太・著『現代中国経営者列伝』によると、この万達集団、実はすごい。大連万達集団とは不動産業を手始めに、百貨店、高級ホテル、スポーツ映画などこれまで様々な分野に進出してきた中国で一番の複合企業。この会社のトップである王健林は軍人から不動産業者となり立身出世を成し遂げた人物だ。一九八六年に都市再開発を実行する国有企業のトップとなった。つまり彼は悪い言い方をすれば地上げ屋になったといえるだろうか。
 中国は土地の私有が認められていない。あるのは使用権だけだ。土地を所有している所轄の政府がディペロッパーに依頼し、ほんの少しの賠償金を与えて追い出し、その跡地にマンションを作ったりするというビジネスがある。土地の値段をドッと釣り上げることでその地域の政府に大金が転がり込むという手合いだ。
 そのような方法で八〇年代末以降、中国各地にはその地域の不動産王が誕生した。王が違うのはローカルな不動産王に収まらず中国全土にそのビジネスを展開し成功したことだ。二〇〇〇年からはショッピングや飲食ホテルやオフィスなどいろんな機能を備えた万達広場の開発に取り掛かる。私が見つけたのはその万達集団が作った中国西南地区に作った高級ホテル。ビルはなんと四一階建て。trip.comでは部屋の広さは四五平米から一〇五平米。日本円で税込で一万五〇〇〇円から一番高い部屋で一泊五・五万円の部屋もある。四一階には空中レストランがあり、すべての部屋には超豪華ベッドが置かれているらしい。開業年は二〇一五年。とすれば私がここに来るほんの三年前までは、もしかしたら私が泊まった宿があったのかもしれない。安宿なんかより四一階建ての高級ホテルの方が土地代は上がるに決まっている。であれば再開発のためにこうしたホテルになるのは致し方がないのだろうか。だが残念であることは確かだ。


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