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農村だった僑園飯店[2018年/北京編その2/中国の高度成長を旅する#17]

警察署でお詫びする

 城中村を訪ねた後、北京南駅までバスと地下鉄を乗り継いで戻っていった。その途中、乗った二両連結バスは電気バスであった。まだ北京市内でも珍しいというが、これからどんどんと増えていくのだろう。
 車窓からは友誼商店が見えた。ここはかつての外貨ショップだ。
 九〇年代初頭、私もここによったことがあったが、タバコや洋酒といったものに興味がなかったので絵葉書だけ買って、外に出た記憶がある。
「九〇年代前半の頃、友誼商店の前に行くと買い物をお願いされることがありました。タバコとか洋酒を買ってきてくれないか」と。そう話してくれたのは上海のやまださんだ。
 私が中国を訪れた九〇年代前半、安宿のそばでチェンジマネーをお願いしてくるウイグル人や雲南の少数民族などにたくさん付きまとわれた思い出がある。
 同じ人民元でも外国人専用紙幣なら一・五倍になるのだ。普段は人民元で支払いができても、駅の外国人専用窓口や友誼商店では外国人専用紙幣かドルや円と言った国際通貨しか通じなかったのだ。
 ところが九〇年代後半になると外国人専用紙幣は消えた。もはや友誼商店もやっていない。中国国内が、改革開放の初期、国際的には相当貧しく、経済発展のために外貨を蓄えることが喫緊の課題だったのだ。それから三〇年近くにわたって一〇%近くの経済発展を果たし、世界一の外貨保有高を誇る国になった。友誼商店にしろ、外国人専用紙幣にしろ、そうした時代の変化によって廃れていったのだ。

 一時間ほどかけて北京南駅へと戻ってきた。駅の地下一階にあるバスターミナルの詰め所で、大坂さんが粘り強く聞いてくれたお蔭で、永定門公安局を探し出すことができた。
 そこは駅から東へ一〇分ほど歩いたところにある、古びたバスターミナル兼車庫であった。公安局はその横にあり、位置的には違和感はなかった。私の記憶では北京駅をまっすぐ東にずっとに三〇分入ったという風に記憶していた。しかし、当時メモっていた記録を読んでみると確かに永定門公安局と記されている。とすればここに間違いない。
 私たちはコンクリート造りで平屋の公安局へ入っていった。すると窓口だけがあり、その奥に机があった。対応してくれたのは五〇代とおぼしき、パリッとした雰囲気の折り目正しい男性警官だった。
「一九九二年の夏、私は北京南駅から北京駅までトローリーバスで向かいました。シベリア鉄道に乗るためです。当時は切符販売員が二人、乗車していて、彼女たちにお金を渡して切符をもらう方法で運賃を払っていました。ところがそのとき、まだ二〇代前半の切符の売り子が、すでに払ったのにもう一度運賃を要求してきまして、私は拒否したんです。財布を見せて、払ったからと日本語で言ったところ、財布からお金を抜き取ろうとしてきました。あまりに彼女は強硬です。
 そんな彼女の行動に焦った私は、財布を引っ張ったのですが相手は離しません。財布のお金の引っ張り合いをしているうちにお互いが興奮してきたんです。先に手を出したのは私でした。女性なのに私から手を上げました。ぴしゃりと彼女の顔に平手をしたんです。すると彼女は私を叩いてきました。その後、一分とかそのぐらいはたき合ったんです。
 しばらくしてバスは北京駅に到着しました。席を立って下車しようとしたところ、リュックを後ろから彼女に摑まれて、下車することができず、バスはそのまま車庫へと戻ってきました。そして車庫の横にある公安で取り調べを受けたんです。
 私は彼女に手を上げたことをずっと忘れずに、悔いてきました。できれば彼女に会って、直接お詫びをしたいと思っています。なのでそのときの調書などがあれば、閲覧させていただけないでしょうか」
 男性警官は丁寧に聞いてくれた。静かに頷き、私が話し終わると、静かに答えた。
「あなたのお気持ちはよくわかりました。反省していることは素晴らしい。でももう充分反省したじゃないですか」
 彼は話している間に、表情がニコニコとしたものに変わっていった。そして続けた。
「時間が経過しているので、残念ながら調書は残っていません。もう二六年前のことですから。それに警察もその後、組織が改変されましたし、当時あなたが叩いたというバスの売り子さんも今はもう、そこには在籍していないですよ。バス会社は民営化されましたから」
 五〇代の警察官はニコニコしていた。また隣にいた、四〇代の男性警官は、「大丈夫ですよ」と言ってくれた。
 二人の警官は、私が事件のことを反省し謝りたいという気持ちを持ってわざわざ来てくれたということを逆に感心していたし喜んでくれていた。
 私自身は謝罪をしたかった。なので証拠が一切見つからず、まったく咎められず、それどころか感心されるという対応に当惑した。
 古い記憶を辿ってみると、当時、警官はメモはとっていた気がする。しかし、それが調書だったのかどうかはわからない。事情聴取をされたといっても、単に上司に報告をするためにメモを作っただけで、そうしたものは連絡が済んだ時点で日々廃棄されていったのではないか。
 もし書類が残っていたとしても警察組織が改編されたことで受け継がれなかったという可能性もある。もし残っていたとしても中国もプライバシーの意識が高まってきたのでもしかすると名前自体開示されなかった可能性もある。
 バス会社にしても民営化してしまった以上はその女性の名前をたどりようがない。写真が残っていれば話は別だが、そうした、場でわざわざ仲良く写真をとるはずはない。だから彼女の顔は私のおぼろげな記憶にしかない。
 李さんですら、再会してもはっきり思い出せなかったのだ。それにずいぶんと時間が経ってしまった。事件自体は向こうも多分覚えているだろう。しかし顔はお互いわからないのではないか。これ以上の追求は不可能だ。私はこれ以上の追求を諦めることにした。
 日々忙しいのにこうしたことにわざわざ対応してくれた警官の方々には感謝した。忙しい彼らの手間をこれ以上取らせたくなかった。私たちは一礼してその場を辞した。
 すると彼らはわざわざ警察署の前まで出てきて見送ってくれた。
 私を置いてシベリア鉄道に乗ったイギリス人、そして私が叩いた切符売りの女性。彼らとの連絡はもうこれで叶わない。今回こうして落とし前をつけられなかったことで、今後、彼らのことを夢で思い出すかもしれない。だが、それはそれでもう諦めて付き合うしかないだろう。

農村だった僑園飯店

 翌朝、七時半ぐらいに、通訳の大坂さんに内線で呼び出された。もう来ているという。
 下に降りると、私が泊まっている北館まで来てくれていた。一階には、僑園飯店のスタッフが待ってくれていて、彼らに案内されて、そのまますぐに北館の二階へ移動、個室に案内された。前日の朝、お願いしていたマネージャーへのインタビューが叶うことになったのだ。
 身長一六五センチほどもあるスラッとした、柔らかい雰囲気で明朗な、パリッとした雰囲気の女性が質素なパンツスーツ姿で現れた。それが僑園飯店のマネージャー吴续和さんだった。

「創業の一年前、私は一九歳でこのホテルに就職しました。一年間、他のホテルで研修を受け、八二年にホテルが創業されてからはずっとここで働いています」
 彼女はなんとこのホテルの創業メンバーだったのだ。であればどうやってここに外国人のバックパッカー向けのホテルができたのか、ご存じだろう。
「改革開放より前、ここは花園村という名前の農村でした。当時は野菜を作っていたんです。それが一九七八年に改革開放が始まったとき、各地で農民たちが企業を作ることになりました。北京では私たちの村の開発が決定され、村で何か別の事業をする必要があったんです」
 私が九一年に訪れたとき、あたりはごちゃごちゃとした商店街になっていて、畑などはすでになかった。でもどうしてホテルだったのだろうか。
「この場所が大変地の利が良い場所だったからです。でも、その当時ホテルというと、五つ星ホテルなど高級ホテルばかり。旅館クラスの安い宿があっても外国人が泊まる場所はない。だったら、高級ホテルではなく、旅館レベルの外国人向けホテルがいいのではないかと村が政府に話し、実現したのがこのホテルだったんです。八二年の開業以来、外国の方にたくさん泊まってもらえるようになり、八〇年代半ばにはお客さんはほぼ外国人のみとなりました」
 当時まだ中国は貧しい時期であった。だから、そうした安いホテルであっても外国人の旅行客が歓迎され、だんだんとその間口が開いていったのだ。九一年、私が僑園飯店を訪れたときは、外に泊まるホテルがなかったせいもあって大盛況だった
「西牟田さんが来られた九〇年代前半の頃は、いつも満員でした。それでベッドが空いたらすぐに他の客で埋まりました。また、エキストラベッドを入れて対応したりしました」
 村の娘として生まれたにも拘わらず、国が改革開放を決め、開発を決定してからというもの、吴さんの運命は変わった。急遽、ホテルの研修へと派遣され、私たちのような貧しくてギラギラした外国人たちの面倒をみることになってしまったのだ。
 とはいえ彼女はその時代の話をしているときはいかにも嬉しそうだった。貧乏な外国人たちとの日々の格闘は、二〇代という若い彼女にとって刺激的なものだったようだ。苦労したことはたくさんあったはずだが、日々鍛えられ、日々成長している自覚があった。当時、若かった彼女にとっての青春の日々だったのだ。
「今の二〇代の子はこういう話をしても全然通じませんからね」
 彼女の話を聞いて私は、中国にも世代によって考え方がまったく違うこと、いわば世代間ギャップが存在することを知ったのだった。気になるのは、なぜ今のようなビジネスマン向きのタイプのホテルになっていったのかということだ。ドミトリーはいつまでやっていたのだろうか。
「このホテルは九四年に経営母体が変わってしまったんです。その際、スタッフは入れ替わりました。新しい経営者が自分のチームを連れてきたからです。ドミトリーはそのときにやめました。その分、部屋をもう少しランクの高い部屋にしました。ところが四年で経営権を手放しました。というのも赤字になってしまったからです。それ以降、私たちの村の手によってこのホテルを再建したんです」
 なんと私が泊まって二年で激変していたのだ。折しもそのころ、ホテルの周りは景観が大きく変わっている。
「九二年頃、ホテルの近くを流れている川にかかる開陽橋を建造する工事がありました。西牟田さんが見せてくれた写真はそのときのものですね。当時はまだ川の近くに商店がたくさんありました。ところが九五年頃には高架道路の建設が始まって、あのあたりにあった商店はすべてなくなりました」
 それを聞いて私はなるほどと思った。ホテル周辺のにぎにぎしい雰囲気は、街中を一新するような工事によってすべてなくなってしまっていたのだ。
「二〇〇三年にはホテル南側にあるショッピングビルが竣工しました。当時、高速鉄道の北京南駅周辺の工事が開始していましたよ」
 二〇〇五年には高速鉄道の北京南駅本体の工事が開始され、二〇〇八年には竣工して八月には北京南駅から天津駅へ三五〇キロの高速鉄道が走るようになった。もとあった北京南駅に比べると南西へ五〇〇メートル移動したのだという。
 ちなみにその、高速鉄道の北京南駅の北側はもともと花園村だった。これが日本ならば、土地の所有者に莫大なお金が渡るはずだが、中国の農民には土地の所有権はない。とすると、所有権を持っている政府が開発を決めてからというもの、村の人々は土地の所有権受け渡しによって、資産を得るわけでもなく、畑の放棄を余儀させられるだけだったのだろう。
 事実、ネットに記された彼女の経歴を見ると、「村人の雇用を確保した」と記されていて、村人が開発の陰で大変な思いをしたことが暗にわかった。しかし、そのように開発が進む中、彼女は村人の幸せを考えて、生きてきたのだ。
 現在ホテルは国内旅行客を主な客として営業している。前述の通り、今や世界一の外貨保有高を誇る国になり、外国人専用料金や外国人専用紙幣はもはやない。物価は一〇倍ほどに上がったのだ。また外国人を泊めるホテルは許可が取りやすくなった九〇年代後半以後、かなり増えた。外国人を目当てにするよりは、圧倒的に数の多い国内の需要にこたえるかたちで営業した方が得策なのだろう。それば時代の流れからして相応しいのだろう。
 話を伺った後、私はかつてのドミトリー部屋を見せてもらうことにした。
「昔、ドミトリーだった部屋はこちらです。八人部屋と三人部屋がありましたけど西牟田さんはどこに泊まっていたんですか」
 私が見せてもらった部屋は長いテーブルがある会議室になっていた。ほかには待機室として使われているという。建物自体は当時のままだと言うから、私が到着時に思った、僑園飯店以外はみんな変わってしまったのではないかという目論見は当たっていたことになる。
「私自身は一か月後に退任します。だけど退任したら外国人のためのホテルを作って待ってますよ」と言って微笑んだ。その言葉を聞いて私は思った。九〇年代前半の外国人だらけだった時代のころは彼女にとっても良い思い出だったのだと。当時のことは、非常に懐かしく、その後かけがえのない思い出として心に刻まれていたということがわかった。それは中国がこれほどに発展したという結果、よけいにそう思うのかもしれない。

 インタビュー終わった後、若い男性職員が駅まで送ってくれることになった。彼が案内してくれた道は北側の正門ではなく、ホテルの本館から東へ通じている敷地内の細い道を抜けたところにある南北に通じる路地だった。
 そこは本館の裏手の道で、かつては木々を植えていたという庭が今は駐車場になっていた。道の脇には、煉瓦造りの老朽化した平屋の建物がいくつかあって、その建物の迎えには再開発事務所のようなものがあった。
 私は何気なくその家をいれて、その背後の本館を撮った。すると警官が出てきてSDカードを出すように命令された。再開発について当局は取り扱いにピリピリしているようだ。写真一枚でこれほどナーバスな対応をされるとは思っていなかったが、それだけ各地で再開発を巡っての問題が多いのだろうということは何となくわかった。

天津新港へ

 僑園飯店から北京南駅の前まではものの三分で到着した。検問になっていて、門扉があるものものしい通りの入口を抜けると、車道の向こうにどーんと北京南駅が見えたのだ。
 私は日帰りで天津へ行くつもりだった。天津といっても市街地には行かない。そこからさらに南東へ三〇キロあまり離れた天津新港にいくつもりだったのだ。そこは私が一九九一年、中国にはじめて上陸したときの港があった場所。最寄りは于家堡という駅で、そこから天津新港へは車で八キロほど。
 北京から天津までは過密ダイヤ。北京南駅から五分に一本というペースで高速鉄道が通じているだけあって切符の入手は簡単だと思っていた。そこから先はなぜかなかなか切符がとれない。天津新港周辺一帯、今でいうところの浜新新区には石油化学コンビナートや造船基地などの工業地帯や巨大なコンテナターミナルのある経済技術開発区。そのため多くの外資企業が進出している。高速鉄道がこれだけ混み合っているのはこのあたりがいかにたくさんの外資系企業が進出しているかの表れだろう。
「この路線はすごく混んでるんです。于家堡のあたりが開発特区になってるからですよ」
 天津経済技術開発区(TEDA)という地域に八〇年代半ば、すでに指定され、外資と技術の導入を目的にした優遇措置がとられていた。また天津港保税区、国家海洋ハイテク開発区といったものにも指定されていて、国内屈指の先進的な地域として発展してきたのだ。
 私が向かう天津新港に最も近い、于家堡へ向かうことにした。そこからタクシーで港まで移動しよう。
 大坂さんと一〇分ほど一緒に並んで手に入れた切符の頭文字はC。天津への列車は時速三五〇キロのはずだが、近距離なのでCらしい。切符入手の際は上海の時と同じく、パスポートが必要だった。
 巨大な待合室で待ってから、改札やX線検査を経て、プラットホームへ。すると上海虹橋~北京南まで乗った復興号にまた乗ることになった。

先に記したようにこの路線は時速三五〇キロのスピードを二〇〇八年八月という最も早く出した区間だ。この地名自体、聞いたことがなかったので、なんとなく僻地を想像していたらとんでもなかった。平原の中を時速三五二キロまで出し、ものの三〇分で到着した。
 高速鉄道が開通して以後、この港にほど近い、浜新新区の一帯は「中国のマンハッタン」を目指し、積極的な不動産投資と開発が行われ、タワーマンションやオフィスビルが建ち並ぶようになった。二〇一五年四月には中国天津自由貿易区が正式に設立されたという。そのように天津はどんどん発展を遂げていた。
 直通で切符を買えなかったので、三〇分、天津駅で待ったのだが、この駅もまたすさまじく馬鹿でかい駅だった。こうした駅ばかり目にしていて段々と食傷気味となっていった。天津から先は、私たちの後ろの席には背広姿の二〇~四〇代とそれぞれの世代がバラバラという男性サラリーマン三人組がいて、日本語で話していた。日本企業もたくさんここには進出しているらしい。

途中駅。27年前、ここから北京南駅を目指した


 于家堡もやはり空港のような大きな駅だった。タクシー乗り場では地元出身で九一年当時、運転手だった人にお願い出来ればと思っていた。大坂さんが何人か聞いてくれて、二人目で手を打った。その運転手は五五歳、天津生まれの天津育ちの人だった。
「若い人や市外から来た人は町のことを何も知らないからね」と余裕のコメントを発したかと思うと、さっそく天津新港へと行ってくれた。

 駅から先はタワーマンションがずっと続く。そのうち新しいけどハリボテのような商店街のようなものが立ち並ぶようになった。
「この辺りは昔、倉庫が立ち並んでいたところですか」「そうです」
 物流のために倉庫が立ち並んでいた部分を全て建物で埋め尽くしたような形だ。昔使っていた貨物の線路があって、そこを越える。九一年当時、私が使った線路かも知れない。車どおりが少なく人通りはほとんどなかったが私はこのとき、景色が一変したことしか眼に入らなかった。

 出発して二〇分ほどでかつての港に到着した。門が閉じられた建物があって、その手前は大型のトレーラーが何十台も停まれそうなほどの規模のコンクリートの広場になっていた。
「この辺りの昔日本や大連からの船が来ていたところです」
 タクシーが門の前に停まると年をとったガードマンが立ちはだかって、苦笑いしている。
「だめだめ、入れないから」

 しかし門扉は半分開けてくれたので、すかさず、車ごと門の中へ。すると広場の向こうには老朽化した二階建てのホールがあって建物の入り口には候船庁と書いてあった。しかし何も思い出さない。ここで初めて中国の大地を踏みしめたにも拘わらずだ。なさけない。


 ここで一緒に李さん一家やAと一緒に北京行きの列車に乗ったのだろうか。多分そのはずだが線路の跡やターミナルのビルを見ても全く思い出せなかった。李さんが私のこと覚えてないのも当然かもと思った。 運転手は私が来た頃からすでにタクシー運転手をやっていたと言うので、「当時、日本人を乗せたことがあるか」と聞いた。「外国人はよく乗せたけどわざわざ会話もしないから分からないなあ」と言った。

 そのあと私は、「中国のマンハッタン」を目指すべく、たくさんの建物ができた一帯について、行ってもらうことにした。すると運転手さんは言った。
「爆発した一帯へ向かいますよ。まずは高架橋の上から行きましょうか」
 私が向かおうとした一帯はゴーストタウンになっているという。天津自由貿易区が設定された二〇一五年四月からたったの四ヶ月後、核爆発さながらの大爆発が起こったからだ。天津自由貿易区構想はたった四ヶ月で水を差されてしまったのだ。
 二〇一五年八月八月一二日午後一一時ごろ、国際物流センター内にある危険物倉庫で火災が起こった。そして約三〇分後には二度に渡る大爆発が連続して起こったという。その影響で爆発半径一〇キロ圏内は振動を感じ、二キロ圏内は窓ガラスが割れた。まるで核爆発が起こったかのようにあたり一帯が明るくなったという。
 原因は消火作業にあたった消防団員が、危険物処理の知識がないのに、放水したからだと言われている。倉庫に保管されていたシアン化ナトリウムと水が反応して大爆発が起こったのだと。
 事件の事故の翌日には現場近くの市民が喉の痛みや痒みを訴えたり、三日後には倉庫に保管されていた猛毒物質の一部が流出したとのことで現場三キロ以内の住民が緊急避難するよう、当局が命じられたりした。周辺住民も含めると死者は一六五人、行方不明者八人、負傷者七九八人となっている。
 中国政府は二〇一一年の高速鉄道の事故同様、素早く報道規制を敷いたが、事故の隠蔽そのものは不可能だった。天津のネット民たちが爆発の様子を撮って直後に全世界に公開したからだ。「魚が大量死した」とネット民がつぶやくとそれを見られなくしたり、「現場水域でシアン化化合物は検出されなかったと」不安を打ち消すような報道をした。

 タクシーの運転手は嫌がるかと思ったが、むしろ積極的に近づいてくれた。高架の道路網が整備された浜海新区だが、自動車の通りは驚くほど少ない。しかも人通りはまったくと言ってない。
 港を離れるとすぐ、タクシーは高架の道路を通りはじめた。現場へはタクシーが港を離れて五分ほどで見えてきた。防音壁側の路肩の部分を徐行して走ってくれたかと思うと、それからまもなく運転手は言い、それを通訳してもらったら・・・。
「あのビル、屋根の部分がすべて吹き飛んでいますよ」
「あのブルーシートがかかっているあたりですよ見えますか」

 ところが防音壁が黄色がかっていてぼんやりとしか見えない。だんだんと興奮気味に大坂さんが言うのだが、見えないのでピンとこない。
 このとき運転手はどのような体験をしたのか。
「私は一〇キロ先に住んでいて事故当時は夜中だったと思うんですが、ガラスがビリビリ震えて目が覚めましたよ。そのときまた天津で大地震が起こったんじゃないかと思って慌てました」
 一九七六年に唐山という天津や北京に近い一帯で大地震があり、中国の発表で二五万人の死者があったと発表されている。これで唐山は壊滅、天津でも多くの家屋が壊れたという。その地震と同じような爆発だったというのだから、天変地異が再び起こったように運転手は驚いたようだ。
 タクシーは高架道路を降りると、今度は下から現場に近づいてくれた。大坂さんが機転を利かせて二度見るように言ってくれたらしい。
 事件現場は車が入れないようにコンクリートでブロックしてあった。ブロックの奥は二〇階建ての高層マンション群が広がっていて、中国の発展のすごさを一見すると表しているような気がした。
「事件現場二キロ付近の高層アパートはみんながガラスが割れました。政府が一平米あたり一二〇〇元という相場よりは二割高い金額で賠償金を払って、建物から立ち退きをさせました。このあたりは誰も住んでません」
 とタクシーの運転手は話してくれた。
 確かにひとけはまったくない。汗が噴き出すような昼間の炎天下なのに、静まりかえっている。建物を破壊しない中性子爆弾を打ち合って、世界が破滅したらこのようになるのだろうか。私が子どものころ流行ったテレビや雑誌などの『ノストラダムスの大予言』特集などで取り上げられているハルマゲドンのようだ。この場所にいるだけで、気持ちがざわついて仕方がなかった。驚いたことに一番近いこの高層マンションから現場までは一〇〇メートルも離れていない。よく物建物自体が吹っ飛ばなかったものだと思った。

「亡くなった消防士たちが大半です。消防署にいた人以外はみんな死んでしまいました。一人っ子世代ですから両親は子供を全員失ったことになります。一人当たり二〇〇万元の保証金が払われました」
 コンクリートブロックのわきにある歩道は歩いて行ける。異様な世界を目の当たりにして、私は行けるところまでいってやろうと、やけくそ気味の好奇心で、進んでみた。私は、ドライバーと通訳の大坂さんに、「ちょっと現場を見てきます」と言って、
 コンクリートブロックのわきにある歩道の横の、踏み石のある林の遊歩道を歩き始めた。このクレーターの辺りを歩いていて足の裏に毒がつかないかとか、呼吸器がやられないかという懸念が頭をよぎったが、好奇心と興奮が抑えられなかった。


 数十メートル歩くと、右手には空き地が見えてきた。そこにはちょっとした池と同じぐらいに、水が溜まっていた。草がそれを覆い隠すように生えていて、そこだけが湿地帯の水鳥観測所のようで、見るからに平和で自然豊かな感じだった。鳥がたくさんいる湿地帯のようなものが塀に囲まれ不自然に存在していて、この場所で爆発しクレーター状に穴が開いたということがよくわかった。イケイケドンドンで開発してきた中国の開発のツケといっていいのだろうか。こうしたことも目をつぶったままどんどんと発展はしていかねばならないのだろうか。私の心情は複雑だった。それだけに私は運転手の男気こそが救いだと思った。


「事故の後は私、しばらく無料運転手をやりました。事故現場へ向かう人があれば無料で乗せたんです。困ってる人がいるんだから当然です」
 彼の事故に対しての思いの強さを私は知った。地元の人間としてこの現場を外国人にじっくりと見て欲しい。そういう気概を彼から感じた。

 元来た高速鉄道の駅である于家堡近くの食堂が固まっている一帯までタクシーで行ってもらった。その途中、高層マンション群はどこにも人けがなかった。行けども行けどもゴーストタウンだった。この一帯は新しく作られたばかりの未来都市という感じだが、人っ子一人いないし車もほとんど通らなかった。
 駅の近くの食堂街には私たち以外、特に誰も歩いていなかった。

北京の街を歩く

 天津から帰ってきた後、私は僑園飯店で荷物をピックアップし、宿を変えた。北京の安宿に泊まってみたかったのだ。
 そこは紫禁城や天安門広場、人民大会堂にほど近い前門というエリアにあった。少し迷って、お土産屋や食堂が並んでいる通りを西方向へ一〇分ほど歩いたところに、その宿はあった。レオホステル。中には夥しい西洋人の数がいて、フロントの奥にあるバーには五〇人ほどの西洋人がハメを外していた。これにはビックリ。かつての僑園飯店やその周囲の小さな店の賑わいのようだ。事前にネットで調べたところ、こうした宿は北京だけで無数にあった。中にはBinBという私的なホームステイまで選ぶことができた。
 僑園飯店が寡占していた時代ではなく、過当競争に入ったのだ。しかも、中国人自身は旅行に出られるぐらいにお金を持ったのだ。僑園飯店が安宿をやめてビジネスマン向きの宿にした理由にここを訪れてさらに納得した。二段ベッドが一〇ほど並ぶ部屋がたくさんあり、その一部屋の一つのベッドに私は陣取った。
 翌日は、前面から天安門広場へと向かうことにした。広場の向かい側には一〇〇メートル以上にわたって、列ができていて、荷物とパスポートチェックがあった。しかも中国人はその作業は機械によって自動化されているではないか。
 三〇分ほど並んだのに、広場へは行けなかった。というのも前日の九月三日、中国アフリカ協力フォーラムが五三カ国の首脳を集めて北京で開始されたからだ。開会式で習近平は「今後三年間で六〇〇億ドルの経済支援を表明したというのだ。戦後復興のため、アメリカが各国を援助したマーシャルプランのようだが、中国がこれをやると中国を中心にかつてあった冊封関係を彷彿とさせるし、実際はそうなのだろう。ともかく中国にとっては大切な日なのだ。天安門広場で何か大変なことが起こると顔に泥を塗られる、ということで厳戒態勢なのだろう。
 一九八九年の天安門事件から三〇年近くが経ってしまったが、あれから民主化は進んだのだろうか。一党独裁のままだから進んでいないともいえる。それどころか習近平時代になってから毛沢東路線へと逆戻りしている印象がある。
 ただ一方習近平は汚職を潰そうとしたり、一般庶民の意見を行政が向き合うということが多くなったりしている。言論の自由も政治面以外は進んでいる。とすると、どこまでがオープンとなって、どこがダメなのかというと曖昧なのだ。民主化そのものが潰されたと言っても本当に完全に潰されたのかと言うと一部は実現していたりとかするので一概にダメとも言えない。

 そんなことを考えながら私は故宮~王府井方面と見学して回った。王府井にかつてあったマクドナルド一号店を探してみた。するとそこは地下鉄の再開発のため、なくなっていた。かつて王府井店は観光名所になっていた。レジなんて二〇ぐらいあったが、もはや時代にあわなくなってしまったと言うことなのだろうか。
 というのも、通りを数百メートル行ったところに、新王府井店というのがあった。ここはワンフロアしかなくこぢんまりしているものの、セルフレジ形式で注文ができるシステムだった。カードやQRコードを使っての電子決済が可能なのだった。とはいえ日本人の私はレジに並ばざるを得なかった。ビックマックセットは三〇元。五〇〇円弱とまあ日本とそんなに値段は変わらない。というか二六年前と値段は変わってないのじゃないか。
 店内を見渡すと、以前のようなレジが二〇ほど並んでいる光景からはほど遠く五つほど。記念撮影だけのためにやってきたお上りさんもいない。それこそ普通のマクドナルドなのだ。
 私が北京一号店を訪れたときはも深圳と北京まだ二店しかなかったのに、九四年には上海店が開店。二〇〇〇年代には激増し、二〇〇八年には一〇〇〇店、二〇一四年には二〇〇〇店を越えたという。そして今や地方以外は二四時間営業が普通になっているというではないか。ここでも私の空白の期間がちょうど発展の期間とダブっていたのだ。
 ちなみにケンタッキーフライドチキンはそれ以上に多く、八七年の北京一号店ができてから二五年間で今や四〇〇〇店、中国で八〇〇都市に展開する大チェーンとなった。中国ではその他ピザハットやタコベル、火鍋のチェーン店や中華フードのチェーン店などファーストフードが国民に一般的になった。こうした状態ではもはや誰も私のようにわざわざマクドナルドを見に来ようとする客はいないのだ。
 王府井には新華書店もあって立ち寄ってみた。新宿の紀伊國屋書店など日本で一番大きな大型チェーン本屋とそんなに規模は違わなかった。本の種類もあらゆるジャンルがあり日本の地球の歩き方そのままのデッドコピーが中国語版で一〇〇冊出されていた。あと外国の有名な政治家の回顧録もあったし、小説などもあった。実にいろんな種類があって社会主義で言論統制がきついということを何も感じさせないものだった。確かに日本のような与党の政治に関して切り込んだセンシティブなものは一切なくその点は違っていたが、私が上海で感じたように政治的なことを抜きさえすれば言論の自由というのはかなり達成してきているのだ。

 宿は北京の旧城内にあって、その近くには胡同と呼ばれる地区がまだ残っていた。これは一三世紀の元の時代に建設が始まったもので細い路地によって区画されている。この地区には四合院という家屋建築が建設されていることが一般的。これは正方形の中庭を囲む東西南北の家屋があり、人の背丈よりも大きな煉瓦の塀で覆われている。上海の弄堂と同様、家の中にはトイレがないらしく建物の角には、レンガで作られた共同トイレが実際にあった。
 そこを見てみると広さは八畳ほどだろうか。小便所と便器が八つぐらいある大便器がまったく仕切りもなく並んでいた。しかもそうしたトイレなのになぜか水洗だった。こういう建物は重要文化財にでも指定されなければ結局は壊されていく。とするとこのトイレや胡同は五年後にはたぶんないのじゃないか。いや一年後にはないのかも。というのも取り壊し計画の紙が近くに貼ってあったのだ。
 改革開放による経済発展や北京オリンピックに向けての開発によってドンドンと取り壊されていて、私が見た胡同も取り壊しの案内が貼られていた。このトイレも一期一会なのだろう

 地下鉄を三回乗り換えて二〇〇八年の北京オリンピックのスタジアムである鳥の巣に行ったことも会った。二六年前は地下鉄が路線が二つしかなかったが、今や東京並みにたくさんある。地下鉄の通路には広告がたくさんあってその中には日本でも有名な女優チャンツィイーが小学生である娘役の講義英語の教材を勧めるという報告を見かけたりした。私が年を取る間に平等に彼女も年を取ったのだ。
 鳥の巣自体は頂上の上まで登れた。このはアトラクションとして純粋に楽しかった。ちょうどコンサートのセットを設営中で様子が丸見えだった。
 オリンピック公園の辺りは広々とした敷地が取られていて北京南駅周辺同様に一大プロジェクトとして掘り起こされたことが分かった。
 北京南駅もそうだが、日本の一九六四年の東京オリンピックと同じくオリンピックを開催するということで北京という街が凄まじい勢いで再開発が行われたということを、鳥の巣の上からそのビルだらけの眺望を確認して、思ったのだった。


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