2018年11月01日14時56分00秒

IT技術と厳戒態勢[2018年/ウルムチ編その1/中国の高度成長を旅する#31]

一〇〇万人が収容されているという噂の真偽

 九月末に中国から帰国すると、耳を疑うような報道を耳にするようになった。それは、中国政府によって、約一〇〇万人のウイグル人が収容されているというものだ。
 それに付随して様々な報道がなされた。サッカー選手や芸能人、大学教授といった有名人のほかに過激思想からほど遠い一般人まで様々な人びとが収容されているとか、収容所の近くに火葬場を作りその職員を大量に募集しているとか、イスラム教徒である豚肉を無理矢理食べさせられているとか。そうした報道に接して私は思った。これはフェイクニュースではないかと。
 沿岸部や四川、雲南省といった私が見てきた中国は、格差こそ広がったが総じて豊かになってきた平和な世界だった。それだけに、同じ国の中で主に一つの民族ばかりが約一〇〇万人も収容されているなんてあり得ないと思ったのだ。

 新疆ウイグル自治区は中国西北部に位置する中国最大の地方。その面積は日本の四・五倍中国全土の約六分の一を占めているが、その多くは砂漠地帯だ。約二五〇〇万人が居住しており、そのうち六割は少数民族が占めていて、内訳はウイグル人(四五%)、漢民族(四一%)、カザフ族、回族、キルギス族、モンゴル族となっている。
 歴史的にはトルコ系の民族であるウイグル人の土地で、彼らが国を持った時代もあれば、元や清の時代にはその版図に入ったこともある。一九三三年と四四年には、ウイグル人たちによって東トルキスタンが建国された。しかしどちらも数年で頓挫し、中華民国の勢力下に逆戻りした。一九四九年に新中国が成立してからは中国による直接支配が歴史上初めて行われ、漢民族の移住が始まった。九〇年代に入るとソ連崩壊に伴う中央アジア諸国が独立。その影響を受け、ウイグル人の独立運動が活発化するも、中国政府は武力によって鎮圧してしまう。二〇〇一年のアメリカ同時多発テロ以降、アメリカが「テロとの戦い」を開始すると、それに乗じた中国政府がウイグル人たちへの強硬姿勢をさらに強めるようになった。
 この新疆ウイグル自治区には一九九一年、私も訪れている。西安から鉄道やバスを使って哈密(ハミ)~吐魯番(吐魯番)~烏魯木斉(ウルムチ)と移動、滞在したのだ。当時はインフラはまともに開発されておらず、砂漠の旅となった。ウルムチの中心部以外、漢民族はあまり見なかったし、文化的にも人種的にもウイグル人の土地という印象が強かった。

 この旅を企図した二〇一八年の春ごろ、私はこの地域に行くつもりはなかった。しかし弾圧報道に触れているうちに、再訪して弾圧の真偽を確かめてみたくなってきた。ただし行くだけでは何もわからないだろう。現地で話を聞けるかどうかもわからない。
 そこでまずは日本に長年住んでいるウイグル人にアドバイスをお願いした 私に会ってくれたのは日本に住み始めて二〇年になる五〇歳前後の知的な男性だった。
「東トルキスタンのクムル出身です。中国の言い方だと新疆ウイグル自治区の哈密(ハミ)となります。小学校は漢民族と同じ学校だったので、北京語の会話や読み書きはそのとき覚えました。漢民族とは普段付き合いはなく、家で使っていたのはもちろんウイグル語でした」
 まったくよどみのない知的な日本語で彼は話した。それにしてもなぜ、彼は日本にやってきたのだろうか。成人してから来日までのことを伺った。
「九〇年代の始めのころですから、私が大学に通った後、二〇代前半のころのことです。料理が美味しいことで有名なカシュガル出身の料理人を二人雇ってクムルの町でレストランをはじめたり、たくさん移住してくる漢民族を対象にした手続き仲介の仕事をウルムチでやったりしてかなり儲けました。だけどそれも一時期のことでした。九〇年代後半になると、街におびただしい数の漢民族が移住してきて、デスクワークなど主要な仕事が彼らに奪われるようになってしまいました。そこで私は電気工事の仕事をするようになりました。ウイグル人というだけで仕事が回ってこなくなった状況に加え、妻が出産したことで、もっと将来性のあるところで暮らしたいと思うようになったんです。ちょうど兄が日本に住んでいたので、チャンスを求めて二〇〇一年に日本にやってきました」
 日本に来てからも、妻と子どもを日本に呼び寄せるため、彼は何度か哈密(クムル)に戻った。そこで彼は街の変化を目の当たりにする。
「町が漢民族だらけになって、どんどん様子が変わってきたんです。一九五七年からは漢民族の入植が始まりました。そのころウイグル人の人口は三五〇万人で逆に漢民族は五%にも満たない二〇万人でした。ところが現在ではクムルはもちろんウルムチも逆転しています」
 私は彼に二つ聞いておきたいことがあった。一つは頻発する暴動について。もう一つは一〇〇万人もの人びとが収容されているという報道の真偽についてだ。
――〇九年にウルムチで暴動が起こったそうですね。暴動や事件はなぜ相次いで起こるんですか。
「少なくともウルムチのそれは暴動じゃないんですよ。正当な平和的なデモ。人民広場にたどり着いたところで丸腰のウイグル人の学生たちを警察部隊が四方八方から取り囲んで襲いかかったんです。電気警棒とか散弾銃で。翌々日の新聞には一五六人が死亡という風に発表されましたが、そんなものではすみません。私たちの連絡網によると少なくとも三〇〇〇人以上が行方不明になっています。ウルムチで起こったのは中国政府によるウイグル人デモ隊に対する虐殺。あの事件は七月五日はウルムチ虐殺事件と呼ばれるべきなんです」
 話を聞く限り、天安門事件のときからこの国は何も変わっていない。そのことを知り愕然とした。当時も平和的な学生デモに対し、当局が無慈悲な暴力を使い、鎮圧したといわれている。
――何をデモで訴えたんですか。
「カシュガル地区から広東省の工場へ集められ、働かされていたウイグル人労働者が、同じ工場で働く漢民族の労働者らに襲われました。というのも「ウイグル人が漢民族の少女二人を強姦した」というデマがネットで広がってそれを信じたんです。そして一八人のウイグル人がその場で殺されてしまった。デモはこの事件への正当な処置を要求するためのものでした。ところが七月五日、警察部隊に襲撃されてしまいました。そしてその虐殺から二日後の七月七日、漢民族がナタや青龍刀のような武器を持って、ウイグル人を追い回し、ウイグル人の居住区に押しかけると商店や住宅を叩き壊したんです」
 男性の話す通り、漢民族の行動がデモではなく暴動だとすると、反日デモに名を借りた二〇〇五年の中国各地で起こった暴動に似ている。おそらく漢民族自身も政府へ鬱積した思いがあるのだろう。
 ウイグル人の〝暴動〟に話を戻そう。
――ほかにも二〇一五年に昆明で暴動があったり、ウルムチでトラックがバザールに突っ込んだりしていますよね。
「いずれも様々な証言が出てきているし、真相が究明されていない。なのに何でもかんでもウイグル人のせいにするでしょ。理由を聞くことなく逮捕され、逮捕されても親族が質問すらできない。質問自体が罪になるからです。こんな状況だから暴力的手段を用いても「何とかできないか」と考える人が増えてくる」
――一〇〇万人収容されているという報道はどうですか。
「ひどくなったのは二〇一七年です。ウイグル人は皆パスポートを取り上げられて外国には行けなくなりました。街ではウイグル人というだけですぐに尋問される。何より、再教育キャンプといってウイグル人を片っ端から収容している現実がある。その数は一〇〇万人、いやそれ以上収容の人たちがされているんです。そうした収容所は全土にあります。現地で小学校のような高い壁を見つけたら上を見てください。鉄条網があったらそれが収容所です」
--どなたか現地の人にお話をお聞きしたいんですが、紹介していただけませんか。例えば私があなたの親族の方に会って言付けするとか、お土産を渡したりとかっていうのはまずいんですか。
「私だってそうしてほしいですよ。でもできません。クムルには親や兄弟がいます。でもどうしているか。もう一〇年も連絡できていません」
――なるほど……相当にひどい状況に置かれているんですね。
「私の名刺は絶対に持って行かないでくださいよ。これはあなたの安全のためです。財布に入ったのが見つかって、スパイ扱いで一日拘束された日本人がいましたから。そうでなくても日本人には尾行がつくという話ですから、くれぐれも気をつけてください」
 彼の話がすべて本当ならば、中国政府はこの地に率先してたくさんの漢民族を移住させ発展させる一方、ウイグル人から仕事を奪い、収容所に入れるようになったということになる。だとすれば、改革開放を実施したからこそ、格差が増大し、ウイグル人は生きることが困難になってきたということだ。すべての国民がほどほどの生活を送るという中国政府の目標はウイグル人に関してだけ言えば、達成するどころかむしろ悪化させているのではないか。

 男性の話を聞いても私はまだ半信半疑だった。そこで別の意見を聞くことにした。私が意見を求めたのは、成都と雲南省に同行してくれた嶋田君だった。
「ウルムチへの漢民族の流入人口は一〇年で四倍。雲南もそうですが絶対これは自然増ではないです。少数民族がいる地域に限って異様な人口増で、地域ではバブルが発生している。そしてその開発の中枢はすべて漢民族が担っている。これは明らかに国が意図的にやってますよ。景洪の小学校では誰も民族衣装着てなかったの、覚えてますよね」
 景洪での話を記しながら、彼はどんどんボルテージを上げていく。
「西部大開発が二〇〇〇年代初頭から始まっていますが、〇八年にリーマンショックがあり、二〇〇兆規模の公共投資を行った主戦場が西部ですからね。とすると北京オリンピックの騒動の真っただ中で、人の流れを公共政策の名目で作ったんでしょうね。大移動が東から西に起こっている。たぶん数千万規模か一億規模。あの莫大な投資は世界を救ったと言うことになっていますが、やはりきれいなお金ではなかったんですね」
 迷惑をかけないために、私は現地を一人で訪れようと思っていた。しかし彼の並々ならぬ問題意識を知り、考えが変わった。
――もし良かったら一緒に来てくれる?
「よろこんで。スケジュールを教えて下さい」
――わかった。じゃあさっそく日程を組んでみるよ。ともかく安全第一でいこう。
「そうですね。安全第一でいきましょう。実際、旅行するのも大変みたいです。漢民族の友人が車で現地を移動している途中、頻繁に検問にあったそうで、携帯とカメラのデータをすべて消されたと言ってました。手持ちサイズの機械を警察がかざすとデータが丸見えとなり、すべて消されたそうですよ。なのでPCのテキストデータも筒抜けです」
――えっそんな機械があるの? 信じられない。ところでこの書き込み大丈夫?
「ははは、どうでしょう」
 私はふたりの会話データを念のため、パソコンに保存した。

IT技術と厳戒態勢 ウルムチ

 十一月の初旬、ウルムチには昼前に到着した。羽田からウルムチまで往復三・四万円。天津経由のLCCで片道約八時間かかった。

寒そうだ

天津航空というLCC

空港の到着ロビー付近で嶋田くんと落ち合った。そしてウルムチ空港から都市の中心部へは漢民族が運転する乗り合いワンボックスで向かうことにした。

 中国全土がモータリゼーション著しいだけあって、このウルムチも高速道路が整備され乗用車が渋滞するぐらい走っていた。中心部へ向かう高速道路の沿道には三〇階建てくらいの、同じ殺風景な形をした高層アパートがずらっと並んでいた。建設中の建物のほかに、完成したがまだ誰も住んでいないという建物もたくさんあった。

 九一年当時、ウルムチはビルが多い都会だという印象を抱いた。とはいえせいぜい五~一〇階建てのビルが大通りに並んでいただけで、車通りは大してなかったし、何より羊飼いがまだ街中にいた時代だった。そのころから比べると信じがたいぐらいに建物が高層化してしまっていた。

 そのような新しい高層アパートが立ち並ぶ沿道の風景を目の当たりにした私は二つの意味でゾッとした。一つは、漢民族が人口においてウイグル人を圧倒しようとしていることの証拠が到着していきなりどーんと示されたからだ。そしてもう一つは、土地の価値を上げて売り抜くことで地元政府が莫大な収入を得るという錬金術がここにも存在していることがわかったからだ。

 高速を降りて一般道を走り始めると、沿道には、商業ビルが並び立っている中国ならばどこにでもある都会の風景が広がっていた。ただ、それらの街と違う点がある。社会主義核心価値観や中国夢といったスローガン看板がとにかく目立つのだ。というか沿道を埋め尽くすくらいにずっとそればかり、しかも可愛らしいイラストで飾り立てられたスローガン看板が続いているのだ。


 さらに進み中心部へ入っていくと、車が突然、何度か止まるようになる。高速道路の料金所のようなものが、目の前に現れ、そこでいちいち停車するからだ。
「検問ですね。西牟田さんパスポートを出してください」と嶋田君は言う。
 突撃銃を持ったフル装備の武装警官が検問ごとにしっかりチェックをしていて物々しい。中国の都市部の地下鉄にあるような形だけやっているX線検査のような緩さはない。ひとたび何かが起こればそれに対応しなければならないと言う緊迫感が伝わってきた。

右側中ほどの突起物はすべて監視カメラ

 ネットを使ってあらかじめ予約していたのはバザールに程近いアカスレイホテル(ツインで約三七〇〇円)。ウイグル人居住区にあるちょっとした宮殿かもしくはヨーロッパのターミナル駅のような六階建ての建物だった。最上階にはドームが載っている。
 回転ドアから中に入ると金属探知機のゲートとX線検査機があり、それらをヘルメットをかぶったウイグル人警官が交替でモニターしている。

 絨毯が敷かれ、シャンデリアが吊り下げられており、内装は立派だ。ときおり通る従業員や客、そしてフロントの女性と誰もがウイグル人にみえる。彼らの西洋人的な風貌といい内装といい、とてもここが中国とは思えない。
 フロントにいたのはロシア人のように目鼻立ちの整ったウイグル人女性。彼女にプリントをしてきた予約済みを示す紙を渡す。嶋田君の中国語に対して、やや下手な中国語で答える。受け答えを見ていると、漢民族の嶋田君がロシア人相手に中国語でやりとりしてるように見えてしまう。
 フロントの女性は申し訳なさそうに「パスポート一時間ほど預からせて欲しい。コピー機が壊れているので」と言う。本当なのだろうか。内心、私は首をかしげた。というのもフロントの内側に卓上の小さなスキャナーが置かれているだけで、コピー機らしいものは見当たらなかったのだ。当局にパスポートの内容を送るのならばこのスキャナーで読み取ってそれを当局へ送ればいいだけだろう。
 もしかすると私たち二人の身分証明書も他の場所よりも、ずっと厳正に確認が行われるのかもしれない。それこそ私が日本で書いている記事やSNSの書き込みをネットを使って片っ端から読んだりするとしても不思議ではない。そういった考えが頭をよぎったが、対策の打ちようがない。観念した私はパスポートをフロントに預けた。
 四階にある、指定された部屋に向かった。エレベーターを降りると薄暗い廊下が目に映る。部屋と部屋の間の廊下は二、三本あって一階分のフロアがとてつもなく広い。


 指定された部屋に入る。ドアの反対側に窓はあったが、それは窓を開けると廊下だった。我々が部屋の中の照明をつけたとたん、廊下側の窓からウイグル人のおばさんが顔をのぞかせた。ベッドメイクの人らしい。「何か困ったことありませんか」といったことを、フロントよりもさらに下手な北京語で言ってきた。
 絶妙のタイミングだっただけに心臓が口から出そうなぐらいに驚いた。あまりのタイミングの良さに、廊下で待機し聞き耳を立てていたんじゃないかと思うほどだ。過剰かも知れないが、そんな風に勘繰ってしまい、少し怖くなった。
 一部屋で待機している間にネットを開通させようと、ポケットWIFIに香港キャリアのSIMを差し、スマホをいじって認証作業を行った。しかし三〇分たっても電波を摑まない。中国キャリアのSIMを差した嶋田君のスマホは空港に比べ劇的に遅くなっていた。辛うじて使えるがメールの送受信しか出来ないぐらいに速度が落ちた。ウイグル人が勝手に連絡を取り合うのを阻止するため、ウイグル人居住エリアには妨害電波を出しているか、もしくは逐一、通信内容を傍受していたりするのかもしれない。

 一時間後一階まで降りて、パスポートを受け取るとすぐ外に出た。
 目の前には上に高速道路が走る道幅の広い道路が眼に入った。それは片側三車線あって、高速道路の高架のすぐ下にはパイプが通っている。そこには片側車線だけで前後左右すべてに対応できるよう防犯カメラが取り付けられていた。その数はざっと一〇以上。これは車用ではあるが、そのほか歩道に向けても防犯カメラがつけられている。これほどの厳戒態勢を私はこれまでに体験したことがなかった。それだけに底知れぬ気持ち悪さを感じてしまった。入国時にパスポートの写真ページをスキャンされているのだ。街中の防犯カメラがすべて作動し、パスポート画像とマッチングされているとしたら、すべての移動経路が当局によって補足されていることになる。
 日中なのには気温は〇℃を下回っていて、歩いているとしんしんと寒さが体にしみてきた。ホテルの周りはウイグル人居住地区だからか付近に漢民族はまるでいない。目鼻立ちがぱっちりして、ときには目の色がカラフルだったりするウイグル人らしき人たちばかりだ。看板こそ漢字とアラビア文字が併記されているが、パッと見中国というよりも旧ソ連か東ヨーロッパの国々かトルコに来たようだ。聞こえてくる言語も耳障りな北京語ではない。
 この居住区では食べられる料理も独特だ。アラビア文字と漢字が併記されているウイグル料理屋に入って着席する。中にいるお客さんは私たち以外はみなウイグル人のようだ。だから当然、話している言葉は北京語ではなかった。ウイグル人のウエイターが持ってきた写真入りのメニューは漢字とアラビア文字が併記されていて、店が出せる料理は羊主体のウイグル料理が中心だった。私たちはその中から、羊の肉の固まりが入った炊き込みご飯、羊肉の串焼きであるシシカバブ、ウイグル特製の麺料理ラグメン(二人分で六八元)で大変に美味しかった。ただしこの店の中にも厳戒態勢は敷かれていた。入口のそばのところには制服を着たウイグル人警官が常駐していたのだ。

 一五分ほど歩くと新疆大学の正門前に出た。正門の奥には校舎があり、最上階部分に横断幕が掲げられていた。そこには赤地に白い文字で次のように記されていた。
〝更加緊密地団結在以習近平同志為核心的党中央周囲,為実現新疆社会穏定和長治久安总目標面努力奮斗!〟

〝更加〟という言葉はあるが、ほぼ同じ文面のスローガンは雲南でも見た。「習近平を中心として団結し、新疆の社会が穏やかに安定するよう努力せよ」という意味らしい。大学の校舎に大きくプロパガンダが掲げられていることはただごとではない。そのことだけはわかる。

 正門には出入りする車をチェックする踏切があり、脇には人をチェックする詰め所がある。私たちは詰め所へと入っていく。すると中はX線の荷物検査機や金属探知機がある受付の小部屋になっていた。その検査機の横には温厚そうな五〇歳前後の漢族警官が三人いた。防弾チョッキのようなものを着てヘルメットをかぶっている。
「私は四川省の○○大学の学生なんですよ。せっかくなので見学したいと思って行ってきました。中に入ってもいいですか」と嶋田くんがいう。
 すると「だめだよ。ここに入れるのは学生だけだから」と断られた。二〇〇九年の七月のデモ隊の中心はこの大学の学生たちだった。学生たちの監視は非常に厳しくてもおかしくはない。
 学生たちが校内に入るにはこのような物々しい検問をくぐる必要がある。ウイグル語で行っていた授業はすべて北京語だけになっているのかもしれない。学生同士、共産党の方針に逆らうような言動をしていないか相互監視を求められるだろうし、携帯電話の会話内容やEメールの文面はのぞかれるはずだ。収容所送りになるんじゃないかと日々怯えて生きなければならないのだろう。不安と緊張を常に強いられる学生たちの生活はまるでジョージ・オーウェルの『1984』ではないか。

 そこからタクシーに乗って、北へ五キロぐらい移動し、紅山公園へ行った。ここは九一年に行った場所で一番上の赤いレンガで作られた塔から、町並みを見下ろしたものだ。同じように見下ろして写真と見比べると、山の稜線がかなり見えなくなっていた。それだけ建物がたくさん建ったことがわかった。経済的にはずいぶん発展しているのだ。

 この公園の入口にもスローガン看板が眼に入った。それは定番である社会主義核心価値観に関してのもの。それに加えて「堅定不移貫徹党的民族政策」(党の国家政策を容赦なく実行する)とウイグル語が併記されているものもあった。そこには民族衣装を着た親子三人のイラストが添えられていて、ウイグル人を漢民族化することへの強い意志が見て取れた。というのも、子どもが読んでいるのは「語文」と記されていて、ウイグル語ではなく北京語を学ばせることが示されていたのだ。
 このように街を少し歩くだけで、スローガンだらけの街だということが嫌というほどにわかってくる。裏返せば、当局がそれだけピリピリしているということだ。
 そうした雰囲気は住んでいる人びとの態度にも表れていた。

ここは以前と風景が基本的に一緒

階段を上って塔まで

柵ができていた

 紅山公園から降りた後のことだ。公園の近くにある漢民族エリアを歩いていると、目の前に中学校があらわれた。柵の隙間から学校の中を覗いていると、背中に視線を感じた。振り返ると、五メートルほど後方にウイグル人らしき女子中学生が五人ほどいた。こちらを凝視して警戒した様子で何かを囁いている。
 彼女たちのすぐ手前には、信号用らしき電気関係のボックスがあり、そこの側面にはウイグル人の子供が行方不明になったことを伝えるポスターが貼ってあった。私たち二人はそのポスターが何の意味があるのかわからなかったので、ポスターのすぐ脇にいた彼女たちに近づいて話を聞こうとした。すると慌てた様子で蜘蛛の子を散らすように逃げられてしまった。

近づいていくと逃げていった

 その後、ホテルの近くまで戻ってきて、国際大バザールというところへ行った。X線検査と顔認証というダブルチェックを経て敷地内に入る。そこにはモスクでもないのに尖塔があり、アザーンの代わりに北京語で何やらがなり立てていた。小さな商店がひしめき合うのではなく立派で新しいイスラム風の建物がいくつも建っている。そのうち一階部分が民俗工芸品の専門店に鳴っていたり、地下部分がアメリカのスーパーであるカルフールになっていたりする。イスラム諸国にあるような雑多でパワフルな賑わいを漢民族がすべてスポイルしたような静かで行儀の良い店があるだけだった。バザールのようなたくさんの人が集う場所こそ、テロを企む者たちにとっての隠れ家になるとでも当局は思っただろう。確かに危険ではないがバザールの熱気からはほど遠く、面白さはまったくなかった。


 私たちは早々にバザールを切り上げて、一旦宿に戻った後で夕食を食べに行った。それは泊まっているホテルの向かいにある鉄柵で覆われたモスクの横にある路地の道だった。 当局はこの周辺をことさら警戒しているようだ。モスクの道向かいには、コンクリートでできた警察の見張り所があり、そこにはフロントガラスが網で覆われている武装パトカーのようなものが停車していた。もちろん警官は武装している。その前を通るときに嶋田君は言った。

「気をつけてくださいよ。警官に目をつけられたら最後、何されるかわかりませんから。カメラしまってください」と。
  金曜日だというのにモスクはやはり異様に静かだ。ホテルに到着した午後も一旦、ホテルに戻った夕方も、そして夜になった時間もだ。礼拝の時間を告げるアザーンが聞こえてくるはずなのに、一切聞こえてこないし、鉄柵の中に人がいる気配はない。開いていたら見学したいと思っていたがそれは叶わないようだった。

 食堂を引き続き探すことにした。モスクの前を通り過ぎると、焼きたてのナンがかまどの中に焼かれた作りたての物を売っている店があったり、羊を吊るしている肉屋があったりと濃厚なウイグルの文化が残っていた。

肉がつるされていた

焼きたてのナンをいただく

 こうした場所は開発から取り残されるのだろう。道はところどころ破れていて舗装が整っていないかった。いくつかある食堂のうちの一つに入ることにした。臓物ごとトロトロに煮た羊肉湯、炒めたコシの強い焼きそばやお米が入っている腸詰め、肺のつまみといったものを食べていると、私たちの席に十歳ぐらいのパッと振り返りたくなるぐらいに美しいウイグル人の女の子が悲しそうな表情を浮かべてウェットティッシュを売りに来た。私も同じぐらいの年齢の娘を持つ身として胸が痛んだ。

「三つで一〇元で買って」
 これまで大人のウイグル人が話すよりも発音の非常に綺麗な中国語で話しかけてきた。
 突然の要求にビックリして反射的に「太貴。不要」(高いよ。要らない)と言った。
 すると女の子は壊れたテープレコーダーのように同じことを繰り返す。
「三つで一〇元で買って」
 そう繰り返して離れようとしないのだ。そのときも夜は一〇時ぐらいになろうとしていた。
「お母さんは掃除の仕事をしているんです」
「お父さんは?」
「そ、それは……」
「学校の宿題はしなくていいの」
「しなくちゃ」
「日本って知ってる」
「知らない。それはどこ」
 そういって女の子は微笑んだ。
「分かった。買うよ」
 美少女の笑顔にコロリときたのか。私が言うより先に嶋田くんがお金を出した。
 すると、「謝々」とまったりとした表情でお礼を言って、すぐに私たちの席から離れていった。
 彼女は父親がどこにいるのかは話さなかった。一方、母親が二時間の時差があるから実質的には午後八時だとはいっても、それでもずいぶん遅くまで仕事をしている。しかも掃除の仕事をするというのは、ウイグル人でありしかも女性ということで、それぐらいしか仕事がないということなのだろう。在日ウイグル人男性の話すとおり、ウイグル人は仕事に就くのが大変なのだ。だからこそ女の子が、こうして少しでも家計を支えないといけないぐらい家計が大変なのだろう。
「お店の人は女の子のことを助けたくて、客に売るのを黙認してるんでしょうね」
 嶋田くんは言った。

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