混じり合う民族のマーケット[1992年/西双版納編/中国の高度成長を旅する#8]
人間シェイカーとなる 景洪へ向かうバスの旅
出発は午前七時なのだが出発五分前になっても検札が始まらない。これはおかしい。焦った僕は他のバスの検札を無視して外に出て、発車しそうなバスがないか確かめた。すると二~三台向こうのバスが、エンジンがかかっていて今も出発しそうになっているではないか。車体前方に回り込んで見てみる。すると、フロントガラス越しに「昆明~景洪」という札が見えた。向かって左側に入口があって、その前には検札している服務員がいる。服務員に駆け寄って切符を見せる。すると服務員は「これだ」というニュアンスで首を強く縦に振って「乗れ乗れ」と、三塁コーチが腕をグルグル回して進塁を促すときのように、慌てた様子でいった。そうして間一髪ぎりぎり乗り込んだ。
そのとき、僕はデイバックしか背負っていなかった。もしも、大きなバックパックを背負っていたらアウトだったかもしれない。というのも荷物は日本の高速バスのように車体の下部に収納するのではなく、天井に載せる必要があったからだ。大きなバックパックを背負ってバスの入口にあらわれていたとしたら、運転手は面倒くさがって乗車を拒否したに違いない。
乗ったバスは通路を挟んで二つずつシートが並んでいて、ほぼ満席。乗客の顔ぶれは多種多様。ゾウリ履きのお兄ちゃんみたいな人がいれば、西洋人のバックパッカーもいる。親子連れもいたはずだ。バス最後部から数列前の窓際の指定された席に座ったのだと思う。
バス自体は中国製でかなりボロボロ。席は直角でリクライニングはない。シートはほとんど板、というのは言い過ぎかもしれない。しかしそれに近いことは確か。空調にしてもクーラーはおろか扇風機すらない。車中にはもちろんトイレはない。
出発した昆明を離れると田畑が増えてくる。道はそんなにひどくなくて「なんだこんなもんか」とたかをくくった。しかし道は次第にきつくなってくる。山越えの連続でつづら折り。上り坂にさしかかると、人が降りて走って登ったほうが速いんじゃないかというぐらいにスピードが落ちてしまう。一方、下り坂ではエンジンを切って慣性の法則で降りていく。まっすぐ進んだと思うとすぐに一八〇度のヘアピンカーブ。そこをパスするとすぐ、今度は逆方向のヘアピンカーブ。
標高約一九〇〇メートルの昆明からだんだん標高が落ちていくので、次第に日差しが強くなり、外の気温が上がっていく。スピードが出ていればそこそこ快適だったのかも知れない。しかし実際はスピードが出ず、風が入ってこず、車内は蒸し風呂のように熱くなる。
バスは右へ左へと次々に方向を転換するので、三半規管がやられ、車酔いをする。最初のころは余裕をかましてガイドブックを眺めたり、テトリスをプレイしたりしていた。しかしそうした余裕はなくなっていき、まずは文字が読めなくなり、そのうちテトリスをプレイするのもきつくなり、窓の外をぼんやりと眺めるしかなくなってくる。
車内前方から幼児が嘔吐する声が聞こえてきた。それからまもなく、液体やら飛沫みたいなものが窓の外から飛び込んでくる。びっくりしてとなりに人がいるにも拘わらず通路側へのけぞった。昨年のシルクロードの旅行では人間ミキサーになるような縦揺れだった。今回はそれと違って、三半規管がやられる横揺れ地獄だった。人間シェイカーとでもいおうか。そんな状態だ。
途中、道路下に横転したまま放置されているトラックを見かけた。自分たちのバスが同じようなことになりかねない。バスの運命は乗客の運命だ。道路下へ落ちてしまって、大けがを負ったら最後、救助を待っている間に命を落としかねない。「無事で景洪まで辿り着きますように。辿り着くならば、少々遅れても構わない。安全運転でお願いします」と窓の外を見ながら僕は念じた。というか念じる以外、何もすることはなかった。
バスは暗くなってからも走り続けた。念じる気力がなくなり、感情がなくなる。朦朧とする。暗いからといって眠れるわけではない。単に時間をうっちゃっていただけだ。
結局その日は、夜一〇時ごろまで走り、そして停まった。運転手が何か叫ぶ。五という数字が聞き取れた。普通に考えれば、「午前五時に出るぞ」ということだろう。ということは夜通し走ったりはしないらしい。まあ安心だがもっと早く行って欲しい気もしたが仕方ない。
ほかの乗客とともに降りていく。すると目の前に簡素すぎるぐらい簡素な宿泊施設があった。簡易旅社というものらしい。入り口の汚い公衆トイレのような受付でお代を払うと部屋番号が記された、わら半紙のような薄っぺらい紙をくれた。一泊たったの一・五元だった。にしてもここはどこなのか。宿の受付にの人に、僕が買って持っていた「雲南交通地図」を見せた。するとちょうど中間ほどの澄江という集落を指さした。
あてがわれた部屋は、シャワーはおろか空調もトイレもなく、寝るためだけの部屋。蚊帳付きのベッドなのはさすが南国だ。トイレよりも蚊帳のほうが大事に決まっている。そんな簡素な部屋に荷物を置くと、すぐに外を出歩いた。
午後一〇時を過ぎているのに、オレンジ色の電球がちらほら点在していて、汁物の麺類や果物が売られた屋台があったり、カラオケやディスコがあったりして活気がある。夜間照明に集まるのか、電線には鳥のような生き物がびっしり何百匹も止まっていて、辺りが騒然とするぐらいに鳴いている。そこからさらに歩いて行くとほどなく屋台が途切れ、暗くなり、遠くの鳥の声しか聞こえなくなる。暗闇に吸い込まれそうな気分がしたので、怖くなった。折り返して宿に戻った。
翌朝は予定通り、朝五時に出発する。まだ暗いのでひんやりしている。澄江の集落から出ると、すぐにぐにゃぐにゃ道に戻った。再び人間シェイカー状態。道の下には車が横転して落ちている。ダメだったらそれはそのときだ、とやや捨て鉢になる。次第に気温は上がっていく。蒸し風呂状態となっていき、朦朧としていった。もう、ただただ時間をうっちゃっていくしかなかった。
昼頃、バスが農村に通りかかったところで突然、停車した。トイレ休憩ではない。生えている植物や家が今までと違う。ヤシの木のようなヒラヒラした木が茂っていて、家もすっかり南国風だ。そこは山の中にある小さな村だった。何族なのかはわからない。
運転手はなにやら叫んで、乗客に降りるよう促している。こんな何もないところで降りてどうするのかななどと、思いつつ下車する。すると地面がやたらと光っているのに気がついた。アスファルトが暑さのせいで溶けているのだ。
下車した途端、乗客たちは暇を持て余した。一方、突然現れた大勢の人間に村人は物怖じしない。何か意味のわからない言葉で、手招きして家へ招き入れようとする、日焼けした肌のおばさんがいる。招き入れてどうするんだろうか。僕はというと、そのとき喉が渇いていた。なので、商店を探したのだった。ずんずん歩いて行くと、バスから百メートル以上離れたところに国営のよろず屋がやっとあらわれた。買ったのは炭酸ジュース。本当なら水の方がいいが、ペットボトルの水などは普及していない。しかも冷えていない。
外国人紙幣を渡すと、店員の男は受け取り拒否。だがこちらもこれ以外は持っていない。なので僕はその男に半ば押しつけるようにしてお札を渡した。すると、諦めたのか売ってもらえることになった。その場で栓を抜いてもらって、冷えていない炭酸ジュースを飲み干した。僕はひととき、渇きをいやした。
竹楼の仲間たち 景洪
夕方になると、目の前に大河があらわれた。川の色は茶色いが水量は大したことがない。岸辺には高床式の集落。これはメコン川だろうか。数百メートル向こうには、町がみえる。どうやら到着するらしい。なんとか無事に生き延びることができた。「助かった!」と、僕は安堵した。
バスは橋を渡り、景洪の町に入っていく。そしてまもなくバスターミナルに到着する。景洪は標高が約五六〇メートルしかなく、昆明に比べるとずっと暑く、もはや熱帯の気候といえた。
中国の果てともいえるこの地を知ったのは月並みだが、ガイドブックに載っていたからだ。
雲南省の最南端に位置し、ミャンマー、ラオスの国境に近い西双版納は、傣(タイ)族・哈尼(ハニ)族・彝(イ)族・基(チ)諾(ノー)族・苗(ミヤオ)族などの住む、ハイビスカス、ブーゲンビリアなど多くの熱帯植物が咲きあふれている少数民族のるつぼだ。(中略)。竹てんびんをかついで朝の買い出しに川を渡ってやってくる傣族の女性。西双版納の朝はひときわ華やか! そこでは民族色豊かなやりとりが、あちらこちらで展開される。『地球の歩き方 中国'91'~92』
僕が世界一周を決めたとき、地球の歩き方中国編をくまなく眺めた。そのときに眼に入ったのが西双版納(景洪)の扉ページだった。それは、二色刷からカラーページに切り替わるところに、椰子なのかバナナなのかはわからないが、いかにも熱帯のジャングルといった森林が広がりその合間に川が流れているという写真が載っていて、すごくインパクトのあるページであった。写真でまず釘付けとなり、少数民族のるつぼという言葉に引き寄せられたのだ。とはいえ、世界一周することは決めていたので、一旦、景洪のことは忘れることにしたのだ。ところが、こうした自体になったとき、頭に浮かんだのが西双版納だったのだ。ただ本文はまともに読んでおらず、ガイドブックにしても必要なところだけちぎって持ってきたので、景洪の基礎知識は何もなかった。
だから僕は、世界一周ができなくなった後、行きたいと思いつつも、こんなところ本当に人が住んでいるのかとか、住んでいても沖縄の国際通りのような大きな通りが一本通っていて高床式の建物がその道に沿って並んでいるんじゃないかとか、そんなことを思っている始末だったのだ。
ところがだ。実際に到着し、バスターミナルを降りて、歩き始めると、思いのほか町が大きいということに気づかされた。街の中心には一〇階建てぐらいのビルが建っているし、道路は舗装されていてちらほら自動車が通っていたのだ。しかも。歩いているのは漢民族の方が多く、えっ話と違うぞ、と思った。とはいっても、少数民族のるつぼへ飛び込んでみようという気持ちや、なるべく遠くへ行くのだという気持ちは景洪へ向かうと決めたときから、持っていた。しかも二日もかけてここまでやってきたのだ。「じゃあ別のところへ行こう」という風に心変わりすることはなかった。少なくとも八ヶ月の下旬ぐらいまでは景洪にいて、あちこち回るという決意を僕強く持っていた。
バスを降りた西洋人たちと一緒に歩いて版納賓館まで目指した。その途中、日が落ちたのだから、おそらく三〇分ぐらいは歩いていたのだろう。ホテルはメコン川の近くにあった。フロントで受け付けるも、ホテルの敷地は広く緑も多い。離れの建物もいくつかあるようで、まるでリゾート施設という感じだ。こんなところに泊まってもいいのだろうか。
正面入って一番奥の建物はメコン川が見渡せるスイートルームで一泊四〇〇元以上もするという。もちろん僕はそんな高級な部屋には泊まらない。僕が泊まったのは石造りの二階建てである最も安い相部屋だった。そこは木のベッドに蚊帳が吊るされている空調のない部屋で、シャワーやトイレがついている部屋もあればない部屋もあった。
泊まっているのは西洋人や日本人、香港人からなるバックパッカーたち。全体で二〇人ぐらいいて、そのうち日本人は七割を占めていた。日本人は同年代の大学生が多かった。人民用紙幣を大量に持ち外幣と両替しまくる私設ブラックマーケットくん、上海でリビア人に間違われたという髭もじゃさん。日焼けして真っ赤な肌になっているくりくり坊主さん、軍服みたいのを着た若干一八歳のベトナムくん、四年前の一四歳で中国を一人で旅行した猛者、本多勝一に心酔する反米大学生、インド帰りの大学生などとみな個性的だった。来ているのは男ばかり。髭を生やしている人はいたが、身も心もぶっ飛び、薬にはまっているような薄汚いヒッピー風の者は景洪に関しては見当たらなかったように思う。一ヶ月から長い人で一年、フリーターもいたが、大学生が大半だった。中には農閑期に雲南を旅しているという若い農家もいたが、そうした方は稀だった。
一方、西洋人は日本人よりも期間は長く、ルートもかなり自由で、集っている人も日本人よりは変わり者が多かった。熊みたいな体格の髭もじゃのフランス人とか、白昼堂々裸で二人は寝っ転がっていた西洋人カップル、僕が好きなフィービー・ケイツによく似た中国系ハーフなどだ。西洋人のカップルはドミトリーの部屋で、人目を気にせずにセックスをする傾向があって、どきどきというか唖然とさせられた。彼らの自由さは、もともとの国民気質のほか、終身雇用ではない仕事環境、あとは使っているガイドブックの質にもよるのかも知れない。彼らの使うロンリープラネットを見せてもらったことがあるが、「歩き方」が情報そのものを載せているのに対し、ロンプラは方法を記していて、フレキシブルに使えることがわかったからだ。つまり、日本人の旅は、西洋人よりも型にはまった旅をする傾向にあったということだ。
とはいえ僕は同じ部屋になったオランダ人に「こんな何もないところに三週間もいてどうするの」と言われたときには、むっとしたし、何だか固いなこの人と思ったことは事実だ。
ともかく僕やほかの旅行者たちはこの版納賓館の竹楼をベースにあちこちに出かけたり、出かけずに沈没したり。思いのままにすごしていたということだ。
当時はネットはなかったので、安宿生活は基本ヒマだった。だから、旅行者同士がつるんで食事に行ったり、二階にあるテラスに夜集まって、ひたすらだべったりして、人間関係を非常に濃いものにしていった。仲良くなるきっかけは、過酷なバスに乗ってやってきた者同士だということが、やはり大きかったように思う。
リクライニングの椅子や竹でできたベンチが置かれていてそこでくつろぎつつ、旅話で盛り上がったり、ときには大きさ四〇センチはあろうかというジャックフルーツを水で冷やしてみんなで食べたりもした。夜になると、壁や天井にヤモリがいて蚊を追いかけ回してるのがよく見えた。ヤモリがパクパクと頭を伸ばして、虫を食べているのを見るのが好きだった。ここでの暮らしが楽しかったのと、あちこち出かけていたせいもあって、僕はここで実に三週間もの間、月日を過ごすことになるのだった。
翌日から僕は、炎天下、精力的にあちこち回った。
中でも一番よく出かけたのが、市場かも知れない。ホテルからバスターミナルへ向かうときこの市場を通るのが一番近かったし、市場の活気自体を感じるのが好きだったのだ。そんな市場の出入り口だが、孔雀をかたどったものや象の石像があった。それらの前にはパイナップル丸ごと一個で〇・五元という安さ。これは日本はもちろん昆明よりも安い。コカコーラやオレンジジュース、などを売るジュースの店や米線屋、などがあった。中は屋根がついていて内側に与え外側には店という作り。内側では牛肉や川魚、米、スパイス、漬物、野菜、台所用品などが地べた、または腰の辺りの高さの台(牛肉)、きれいとはいえないけども陳列されていた。中でも目を引いたのは、ナレ寿司という魚などの中に米を入れて発酵させた食べ物、涼粉という寒天のようなババロアのような形をした不思議な食べ物が売られていた。それらの売り子は大概がタイ族女性だ。魚丸ごと一匹とか妊婦の腹の大きさほどもあるかぼちゃなど旅行者が買ってどうするというのだろういうものまで、買え買えとしつこかったが。まあとりあえず見ているだけでも面白かった。良く言えば活気があり悪く言えば騒々しかった。
その次によく行ったのは、町の中心部の駐車場だった。そこには簡易的なゲーム街があってファミコンのアクションゲームを五分一元とかでやらせてくれたのだ。集っていたのは子供だけじゃなく、二十歳ぐらいの青年や大人たちも必死になってやっていた。熱帯でファミコンゲームに盛り上がるというのはなんだか変な感じだったが、地元の若者たちと言葉以外の手段で、何となく仲良くなったりしたから、ゲームも捨てたもんじゃない。
そのほかよく出かけたのは、食堂だった。世代がほぼ同じの日本人ばかりなのだ。朝晩はたいていつるんでどこかに食べに行っていた。それは市場の中の食堂だったり、通り沿いにある屋台だったり。または大人数が揃うときは回るテーブルがあるレストランの一室を貸し切って、たくさんの料理を食べることもあった。中にはやたら料理の写真を撮りたがるヤツもいて、勝手に食べるなと指図されて、関係がマズくなってしまった人もいた。
食事関係で一番覚えているのは、ホテルから南へ歩いて一五分ぐらいの地点にある街外れのレストラン街だろうか。高床式の木造の建物がタイ族料理のレストランになっていたのだ。一階には水牛らしき大きな哺乳類が飼われていたので二階へ上がる。すると民族衣装を着たタイ族の女性たちが、鼓のような太鼓をボンボン鳴らしてあげチーンと鳴る鐘の音で迎えてくれた。
そのあとは僕が今まで食べたことのない、パイナップルの中をくりぬいた物にもち米を蒸した料理などタイ族料理が各種揃っていて、大変興味深く、そして美味しかった。会計は一人当たり約二五元だった。
そのときは、食べ終わった後、夕涼みがてら歩いたのだった。すると奥にタイ族の村が広がっていた。街灯などなくてかなり暗い。なので、懐中電灯をつけながら恐る恐る進んだ。道は舗装されていなかった。この辺りでもテレビは持っているんだろうか。その自宅の明かり以外はとにかく真っ暗で静かで虫の音しか聞こえなかった。もう少し歩くとキオスクのような村の売店があった。人通りも全くないのでそこから折り返して帰った。また一五分とかそのぐらいして街の中心に戻ってくると街灯がついていて明るくて賑やかだった。
メコン川の対岸の村 景洪
ある日の朝、自転車を借りてメコン川の反対側へむかってみた。道路を一歩離れれば、そこは舗装されていないぬかるんだ道が広がっていて、その道は下りになっていた。見下ろす限り高床式の家で、髪の毛をひっつめた地面すれすれのロングスカートの女たちが村にいた。目のぱっちりした顔。タイ族の村らしい。さらに進み、村を突っ切って川岸へ出る。すると数百メートル向こうの対岸に僕が泊まっているホテルや近隣の集落へ行く船が停泊する岩壁が見えた。もといた対岸の発展ぶりと、こちら道が舗装されていないタイ族の村のエリアとでは、まるで別世界だ。
タイ族とは先秦の時代、長江よりも南、雲南やインドの東部のアッサムに及ぶ広範囲に住んでいた民族なのだという。いつ雲南に対着したのはわからないが、仏教の影響を受け、大きな変化を遂げたことは間違いない。その後漢民族の南下により、南へと居住範囲を狭めていき、現在は、タイ族は雲南の南西部のほか、ラオス、ミャンマー、タイ北部、アッサムといった範囲に住んでいる。米作などの農業を営み、小乗仏教を信仰している。タイ語とは明らかに違うミャンマー語のような独自の文字を持っており、タイはタイでも東北方言でないと通じないという。女性の恰好はカラフルで、体にフィットした半袖や長袖のシャツ、地面すれすれのタイトスカートをはいている。中国に住むタイ族の人口は約一〇二万人(九〇年)である。
話をもどそう。川岸から道路へ戻る途中、村の中を通った。
平屋の学校が建っている。ぬかるんだ道のそばには高床式の家が並んでいて、屋根には薄い石の瓦が吹かれている。六歳ぐらいの女の子が高床式住居を囲む木製の塀の影からチラチラとこちらを見ている。澄んだ目で可愛いが、警戒しているのか近寄ってきたりはしない。なのでこちらも声はかけない。
さらに未舗装路を進んでいると、突然広場に出た。小さな鼓のような椅子がいくつか置かれている。暑い中移動してきたこともあって、ややバテていた。なのでその鼓椅子でちょっと一休みさせてもらう。
しばらくすると人が集まってくる。それは香港人らしい身なりの整った人たちだった。当時は香港人と大陸の人は服装で見分けがついたのだ。大陸の人は概してフォーマルなのだけど、胸をはだけていたり、ズボンを膝までまくり上げていたりと下品な感じで崩しまくっていて、粗野な感じがしてしまうのだ。
話をもどす。
何かが起こるのかなと思ってしばらく待っていた。すると民族衣装を着た若い男女の踊り子がそのうちに現れた。上の綿か何かの薄手のシャツと裾が地面すれすれの長いスカート、どちらもピンクで統一していて、目がぱっちりしている。一方、男性はというと鼓のような形の帽子をかぶり、ちゃんちゃんこみたいなものを上に羽織り、下はズボンという出で立ちだった。
ふと後ろを振り返ると場内は人でびっしりだ。
満員になるころ、イベントは始まった。艶やかな女の踊りだ。それに比べて男性は引き立て役。踊りだけなのかなと思ったら、前触れもなく、踊り子たちが水を掛け合いだした。その水はこちら観客席にも向けられる。最初は静観していた。しかし、そのうち水が僕の方にもかけられて、周りはみんなずぶ濡れになっていた。
持っていたポケットカメラが濡れてしまう。これ以上被害を被りたくなくて一時退散する。たまたま一緒にきていた日本人に渡して水かけに参加することにした。
水のかけ方には色々あった。火事が起こったときのように激しく、バケツを投げるかのようなかけ方があったかと思えば、真後ろに立って上からかけたり、優しく少しだけかけたり。
水かけ祭はタイやミャンマーなど南方の国ではけっこういろんな国で行われていて、ここ景洪では四月に行われるらしい。つまりこれは祭ではなく、観光客用のアトラクション。つまりニセモノだ。偽物とはいえタイ美人と一緒に水を掛け合うのはなかなかできるものじゃないし面白い貴重な体験だった。
混じり合う民族のマーケット 勐混(モンフン)
まだ泊まりはじめたばかりのころ、日本人の大学院生と相部屋になった。彼は言った。
「モンフンのサンデーマーケットは面白いから行ってみて。様々な格好をした民族が色々と入り混じって盛り上がってるよ」
「面白そうですね。ぜひ行ってみますよ」
そういって後日、実際にモンフンのマーケットに出かけてみた。
ここでいうサンデーマーケットは文字通り、日曜にだけ開かれるマーケット。普段は静かなタイ族の村であるモンフンにハニ族やプーラン族、ラフ族などが集うのだという。漢族は少なく、カラフル。中国製品の他にミャンマーやタイなどの製品も出回るのだという。
ハニ族は雲南省のほか、タイやラオス、ベトナム、ミャンマーにも住んでいる。九〇ねんの統計だと一二五万四〇〇〇人、ミャンマーには一八万人、タイやラオスには三万人あまりが住んでいて、タイではアカ族と呼ばれている。場所によってばらつきはあるが、西双版納州のハニに関しては、鎧のような帽子をかぶり、裾の短いズボンをはき、噛みタバコやキセルをたしなむというのが女性に典型的だ。プーラン族は八万二〇〇〇人。西双版納州の山間に暮らしている。ラフ族は同様に四一万一〇〇〇人。雲南省南部のメコン川沿いに住む。頭に黒いターバンを巻いているらしい。
日曜日の早朝五時半すぎにターミナルに辿り着くが、その時間はまだ真っ暗で、ターミナルは空いていなかった。なので、そばの市場で時間をつぶした。市場ではすでに支度が始まっていて、食用の牛を全身バラバラに解体していたりした。
六時前になると服務員が自転車でやってきた。そのときにはすでにサンデーマーケット目当てのバックパッカーがたくさん待っていた。ターミナルの建物の奥には舗装されていないだだっ広い駐車場が、今にもネジが取れてぶっ壊れそうな中国製のおんぼろバスや、ポーランド製という珍しい国のバスがあったりした。切符を買ってから、そのポーランド製のバスに乗り込んだ。バスといってもマイクロバスだったので定員は三〇人以下だ。
バスは六時半に出発した。モンフンへは約三時間かかるという。早朝に行ったのは、理由がある。ほぼ熱帯というこの土地は昼間は猛烈に暑くなる。だから朝の早いうちに始まって午前一〇時半頃までで店仕舞いするというのだ。市場には近郊の山間部の村から来た民族が来るらしい。
モンフンまでは高低差がかなりあるため、登ったり降りたり激しかった。しかも横揺れがひどかった。僕は一番後ろだったのできつかった。補助椅子の代わりに銭湯の椅子みたいなものが補助椅子の代わりになっていた。途中の道は木が生い茂っていた。ジャングルというより照葉樹林。ところどころゴム園も広がっていた。満席だったので降りるときは前にいる人に声をかけて、踏み分けるようにして避けて出口へ行った。何族かわからないが、しばしば村の前を通った。道路脇にはバスを待っている村の人がいたがバスは無視して通り過ぎた。
景洪から二時間以上。約五五キロの地点にある勐海(モンハイ)という町に出た。こぢんまりしているが食堂や商店が並んでいる田舎町だ。その外れにある八角亭という仏塔のロータリーを九〇度左折する。そこから一五キロあまりの地点にあるモンフンには、車で小一時間で辿り着いた。着いたのが九時半、とすると三時間かかったことになる。途中駅で、しかもバスの一番後ろの席だった。なので、木製の銭湯椅子みたいなものに座っている乗客たちに「降ります」となるべくソフトにいいながら、やっと外に出た。するとは日本人や西洋人のバックパッカーがすでにたくさんいた。これは前日から泊まりこんで早めに来たということらしい。
モンフンは一本の道路しかなくてそこは舗装されていなかった。その舗装されていないメインストリートの両側に二階建てのコンクリートの建物があり、色とりどりのいろいろな民族が露店を並べていた。この市場に売ってあるものはハニ族の帽子やカバンの他に、割り箸を刺して出すパイナップル、豆腐そして雑貨などといった日用品ばかりだった。
客にも様々な民族が入り交じっていた。その様子はモンフンのフン(混)という字に相応しい。ガイドブックを見るとタイ族、ハニ族以外にはラフ族、プーラン族もいるらしいが、区別は付かない。わかるのは総じて若い人はどの民族も明るい色の衣装を着ているがおばあさんなどは黒が多いこと、市場には女が圧倒的に多かったことだ。
そのうち僕や日本人パッカーたちのところに、ハニ族のおばさんたちが集まってきた。コインがたくさん装飾として縫い付けられているカブトのような帽子をかぶってるおばさんがいたので、試しに帽子の値段を聞いてみたら五〇〇〇元といった。これ売る気がなくてわざと高い値段売っているのだろうか。また別のハニ族女性はというと、黒い布に赤黄色青などのパッチワーク、硬貨をたくさん貼り付けた帽子をかぶっていた。おばさんはかぶっているのと似た装飾の多い帽子や肩掛けかばんを手に持って僕に見せながら「要るか?」と中国語で声をかけてこられた。せっかくなので帽子を見せてもらう。硬貨ではなく、なにやら丸い金属片がたくさん貼り付けてある。金属でできた縫い付けてある薄っぺらい丸い装飾はどうやらアルミ片らしい。裏返すとコカコーラかスプライトの模様がペイントされてあった。確かめようとするとおばさんは途端に嫌がった。ともあれこの帽子、面白い。アルミ片がたくさん縫い付けられている他に、緑色の玉虫がアクセサリーのように左右についているのだ。
彼女たちは中国語は全然できなくて数字と「これ」「要るか?」くらい。もちろん英語は駄目だ。それぐらいしかできなくても結構通じるもので値段交渉には全然問題がなかった。それこそふっかけ方の心得ていた。
「帽子は三〇元でどうだ」
僕は首を振って一五元と言ったおばさんも首を振って二〇元。やっぱり僕も首を振って一五元と言った。するとおばさんが折れて一五元で契約が成立、さっそくかぶってみた。するとすぐ、頭にかゆみを感じたのだった。彼らの清潔度クオリティを見くびっていたらしい。
帽子を買ったからといって許してもらえるわけではない。他のおばさんたちにしつこく引き続き追いかけ回され、終いには観念。僕は彼女たちの売る手縫いのかばんを買ったのだった。デザインは奇抜でなかなかよかった。というのもそのカバン、後ろ側は細かい三つ編みがたくさんしてあってラスタ風というかレゲエ風。しかも赤黄緑と横にラインが入っているのだ。中々格好がよかった。
ハニ族以外で目立ったのはこの周辺に住んでいる圧倒的な数のタイ族の女性だった。景洪のメコン川対岸に住んでいるタイ族と同様に地面すれすれの巻きスカートを履いている。頭にタオルみたいなものを巻いている人もいる。バスを降りた十字路から市場のあるところまで、ずっとまっすぐ歩いてきた。そのままさらに歩いていくと小川が流れていた。そこには子供たちがいて水遊びをしていた。小川の向こうには水田が広がっていて、さらにその向こうには小高い山がそびえていた。
一〇時半ごろ、市場は終了。市場の近くには旅社があってそこでトイレを借りた。幅二〇センチぐらいの傾斜のある溝で奥へ行けば行くほど下っている。そのトイレはウジがびっしりで百匹以上はいただろうか。用を足すとうじゃうじゃ動いて身の毛がよだった。
市場が終わってからもまだぶらぶらしていると一一時になった。その頃にはもうかなり撤収が始まっていて。耕運機に荷物が満載されていて慌ただしく市場は終わりを見せた。ハニ族の人たちは歩いて帰る人が多かった。民族によって貧富の差が大きいのか。
耕運機で帰っていく村の人たちにくっついて村を訪問してもいいかなと思ったが、いったいどこまで行くのか分からない。しかもそれこそ半日とかかかったら帰れない。しかも勝手に入って入るの拒絶されるかもしれない。撤収する前にちゃんと交渉するなり、土の村なら入れるかとか下調べをしておけばよかったと後悔した。
正午に近づくにつれて日差しが出てきた。突き刺すような暑さ。まだダラダラいてついでにそこで昼食を食べることにした。だだっ広い未舗装の通りには食堂が二、三軒あったが極端に不衛生だった。
カブトムシの幼虫のようなハチの子を生きたの食べさせてくれる店もあった。竹楼の仲間には、生きたハチの子にパクついている人もいたが、僕にはそんな勇気はなかった。
地獄の黙示録みたい 橄攬壩(ガンランパ)
メコン川を四〇キロほど南に入ったところにある橄攬壩(ガンランパ)にも行ってみた。ガンランパへはメコン川を下る船に乗っていけば行けるはずだった。しかし、川の水量が少ないためか滞在中、一度も運行されなかった。
そのためバスで行った。メコン川沿いの高台の道をうねうねと進んでいく。川の両岸には低い山地が続いている。昆明から景洪までの道のようなハゲた山なみではなく、鬱蒼とした緑一色で大自然という感じだ。そういえば空気が濃い。
小一時間経って到着する。コンクリートで舗装された二本のメインストリートがあり、その間には市場がある。歩いていると牧場の中にいるような臭いがした。水牛は三、四匹、のっしのっしと闊歩していたり、街路樹であるソテツの根元に黒い豚が寄りかかっていたり、さらには野良犬がいたりするからだ。車はほとんどなく、長い巻きスカート姿のタイ族の女性たちが数人、自転車で移動していたり、麦わら帽の少年が水牛に乗って移動したりしていたり、パンパンパンとエンジン音を響かせて耕運機がゆっくり移動していたりするだけだ。あとはたまに通るバスぐらいしかない。
市場は活気があった。二〇~四〇メートルほどの幅があって小さな同じ間取りの商店がズラッと並んでいる。それらは野菜や果物、肉、乾物などの他、食堂や散髪屋、雑貨屋などがあった。市場の端の方にはモンフンでも見たハニ族がいて、米線を作って売っていた。サトウキビやパイナップル、ジャックフルーツなど南国らしい果物を売っているタイ族のおばさんもいた。売り子は圧倒的に女性が多い。かなり活気があって市場というのはいてみているだけで面白い。買いもしないのに僕は市場をぶらぶらすることが多かった。
食事は行くところが決まっていた。この集落でよく通ったのはバンブーハウス。メコン川で取れたと思しきサンマのような長い魚、バナナで作った料理など七種類ほど出た。何よりよかったのがふっくらとしたお米だった。さすが生産地のお米は違うのだ。
景洪やガンランパは昼が暑いので一番暑いときは街から人通りが少なくなる。そんな時間にジューススタンドでぼーっとするのが日課になった。黒豚がうろつくの見てぼーっとするのが日課になって楽しかった。ちなみにこのジューススタンドはミラーボールがあって夜はカラオケをやったりディスコになったりするらしい。だけどもテーブルが黒く汚れてて場末感がとんでもなかった。
雲南名物の米線というビーフン料理にもよく行った。というのも看板娘がいたからだ。彼女はシースルーのブラウスと、膝下のスカートという出で立ちで、清純だけどもセクシーだった。その健康的なお色気に僕はセクシー米線屋という名前をつけて、日本人の仲間内でそう呼んでいた。彼女とは特に会話するわけではなく、単に客と店の人の関係なのだ。注文を聞き、答え、持って料理を受け取り、後で勘定する。そのときにやりとりしただけのことだ。だけどそれだけのことなのに、初恋の女性とお話しをするときのような気持ちの高揚があった。一方、彼女はややはにかんだ笑顔で答えてくれたのだった。
ガンランパでよかったのはなんといってもメコン川が近いことだ。茶色い泥水が流れていて、両岸には鬱蒼とした木々はもわもわっと固まって生えていた。映画「地獄の黙示録」で、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐が川からぬーっと顔を出すシーンがあるが、まさにそれにぴったりな世界なのだ。メコン川の奥に誰かが王国でも作っていそうな雰囲気がこのジャングルにはあった。
川の対岸にも行くことはできるようだ。モーター付き小舟がパンパン音を立てて往復をしている。乗っている中にハニ族もいた。自転車やダンボールなど大きな荷物を担いで乗せていて満員だ。僕も乗ってみたが風が感じられて茶色い水をすぐそばに見えた。この流れとともに最後はベトナムまで流れるんだなと気が付いて行ってみたい気になった。
三日目の午後あたりに景洪へ戻った。その途中汚れた民族衣装を着たハニ族のおばさんがバスに乗ろうとしてきたことがあった。そのとき、漢民族の運転手は露骨に嫌そうな顔をした。漢民族は異民族を少数民族と呼んでいるが、やはりこの匡のヒエラルキーは漢民族が中心なのだということを実感した。
望まれない訪問 モンヤン
八月二五日から三一日はラストスパートとばかりあちこちへ出かけた。そのための準備としてまずやったのは情報の入手だった。竹楼の日本人に雲南専門のガイドブックを持っている人がいて、それをお借りしてコピーを取りに行った。当初は世界一周するつもりだったから雲南のガイドブックなど持ってなかったのだ。
向かったのは、「電脳」「打字」という看板が目印のパソコン・ワープロ屋。当時はパソコンで通信をするのがまだ一般的ではない時代。書類をワープロで代筆してプリントアウトして、客に納品するのだ。そうした店にはコピー機が置いてあった。そのコピー機を使わせてもらい、必要なページだけを複写した。そして竹楼の部屋で熟読を重ね、検討を続けた。
まず二五日は、昆明~景洪までの道すがらにある景洪に最も近いモンヤンに行った。ガイドブックに載っている三つの集落へ出かけることにした。そのときは、ガイドブックに載ってるぐらいだからアポなしで突然訪問しても大丈夫だろうと思っていた。
モンヤンまでは三五キロと意外と遠かった。道のりは結構ぐにゃぐにゃとした山道。これは自転車ではいけない。バス停の場所を地図で確認してから歩くことに。街といっても市場らしい通りが一本通ってるぐらいで特に何もない。鳥の形には農村が点在している。田んぼが多い。通路の両側が商店だった。
モンヤンの集落には漢民族やタイ族以外の人たちもいる。それが花腰タイ族。タイ族の一種だろうか。しかし民族の全く違う。タイ族の衣装は色とりどりのぴったりとしたシャツというかブラウスに地面すれすれの長いタイトスカート。薄いピンク色が薄い水色が多い。それに対し花腰タイ族は黒を基調にした衣装だ。青赤ピンクオレンジなどの細いラインがスカートの中ほどにワンポイント的に入っていた。シャツにはそれらの線が入ってたり入ってなかったりと様々だった。たまには銀の鎖や黒い帽子など。該当の地図でだいたいの位置を覚えたがはっきりとわからないので、街に出てきていた花腰タイ族のおばちゃんに着いて行った。
町の端の方に『象の木』というものがあってそこの道を通りすぎると一面田んぼが広がっていた。あぜ道をある程度、間を置きながら歩いていく。それと一五分ぐらいで竹の柵みたいなので仕切られた村が目に入った。そこをずんずん進んで行くと何かの塀で仕切られている家々が現れた。家畜の放牧または農作業へと村人は出かけたのか。村にほとんど人気がなかったいるのは鶏や水牛ぐらい。家の庭には家畜がいるほかに耕運機があったり機織り機が置かれていたりした。上り坂を進むと中ほどに庭に何か布を干しているおばさんがいた。彼らの言葉がわからないのでニーハオと声をかけた。しかしおばさんには通じなかった。だけど声をかけられたということは分かったようだった。
「あなたたちは花腰タイ族ですか」と片言の中国語で言うがもちろん通じなかった。彼女は引き続き作業を続ける。僕がいなかったかのように元の作業に戻ってしまう。この村の家々は高床式ではなかった。
おばさんにポケットカメラをわざわざ見せるようにして「撮るよ」とジェスチャーで示してみた。おばさんは何が起こったのか気が付いてなかった。それでもすぐにおばさんに僕は礼を言った。「謝々」と。それとおばさんはなぜかオウム返しに「謝々」と言った。写真を撮られて感謝しているのではなく、あまりにも北京語が分からなくて単にオウム返しで真似をしているだけのようだった。なんだか申し訳ない気がしたのでそれで離れた。
モンヤンの町に戻って昼食を食べてもう少し遠い村へ行くことにした。このときは「日本人でこんなとこ来るのは僕くらいじゃないか」と少し得意げになったが、ガイドブックに載っているのだから行っていないはずがない。というか観光客慣れしていることに期待しているのに矛盾していた。そのことに気が付かなかった。
二つ目の村は花腰タイ族の村から舗装されている道路まっすぐ降りて登ってまた降りていたところにある一五~三〇分ぐらいの離れたところにある旱タイ族の村だった。
村に近づくと人々がちらほら歩いているのが見えた。男性は漢民族と同じで粗末な洋服だが、女の人は民族衣装だった黒い布をターバンのように頭に巻いて水色の上着枚合わせを着ていたりした。ただ下の服はどんな服だったか忘れてしまった。その水色の上着の下は洋服で子供らも洋服を着ていた。
最初の村は坂だらけだったが、二つ目の村は完全に平地だった。村の入り口の正面には屋根に沢山人がたむろしていた。何をしているのかと思って屋根を見ると屋根を直していた瓦を吹いているらしかった。屋根に登っているのはもっぱら男で女は下から瓦やセメントを上に渡していた。村の表札のある前の入口の所にある道路では、止まっている耕運機に子供たちが乗り込んだり、瓦屋根をくっつけるのに使う粘土を札にペタペタくっつけては剥がして村の名前の裏返しの粘土を作って喜んでいたりした。僕が近寄ると恥じらいのない剥き出しの好奇心を見せ近寄ってきた。
ニーハオと挨拶してポケットカメラ向けると皆我先にと争って目立つ場所、つまりカメラの真ん前というか真ん中へ行こうとした。まるで生放送のテレビ中継のときにテレビカメラの前に出ようとした昭和の子供のようだ。カメラで写真を撮られるのが珍しいのだろう。子供の写真を撮るだけとっておいて、その後、ずかずかと村へ入っていく。この村は大きい。村の中に店などはないけど村の真ん中には横長の広場がある。そのあたりをぶらぶらしていくと、最初の村とは違って人が多いのに気がついた。子供が多い。このあといくつか村を訪ねることになるが、いずれの村も子供が多かった。
学校に通わせてはいないのだろうか。広場の両側の軒先を見て歩く。機織り機や臼が目に付いた。その臼は穀物を入れてすりつぶすためのものであるようだった。軒先で機織りをしている若い女性がいた。彼女は民族衣装を着ている。どうしても写真が欲しかったので彼女に気付かれないように撮った。
トランプ遊びをしている子供たちがいた。様子を見ていたら混ぜてもらえた。彼らはやっていたのは大貧民のようだ。違うのはトランプを三つも四つの混ぜて行うということだった。たくさん混ぜることでジョーカーが四枚といったど偉い手を作れる。このような大貧民のやり方は前の年の中国旅行でも見たことがある。
そんなわけで人見知りしない子供たちとトランプをやっていたら、その家のおばさん(たぶん洋服を着ている)が出てきて、銭湯の椅子みたいな物を出してくれた。子供に比べたら人見知りしているけど、おどおどする様子はない。客が来たからもてなすというそれぐらいの感じだった。外国人というだけでおどおどする人が多い日本人とは大違いだ。その家だったかその近くだったか映画のガンジーに出てくる糸車のようなものを使って糸を紡いでいるのを見た。薄暗い家の中で糸紡ぎの車をくるくる回すのは珍しさに珍しかったのでフラッシュをたいて写真を撮ってしまった。するとさすがに嫌がられた。
子供を背負って子守しているおばさんとその娘は民族衣装を着ていた。まっすぐの家へ向かって道を上げていくと食堂があった。食堂のある所はわかれ道になっていて、片側は街へ続くのである。
その日は、基諾族の村へ行くつもりだったので食堂にて食べつつ、外にバスが通らないか眺めた。だけど通らない。なので歩いて目指すことにした。車で二〇分と書いてあるので二、三〇キロだと憶測した。歩くこと三時間登ったり降りたりを繰り返す。人通りは全くといってない。途中、ひとつふたつ村の表札が目に入ったが、基諾族という僕からしたら未知の民族を見るために寄らずに通り過ぎた。
彼ら基諾族の人口は一万八〇〇〇人(九〇年)。西双版納州の基諾山付近に集中しているという。狩猟や焼き畑を行い、プーアル茶も栽培している。女性は防空頭巾のような△の帽子をかぶっていて、民族として認められたのは七〇年代であった。だからこそ中国の中では最も新しい人たちらしい。
ちなみにこの民族、ごく最近まで少数民族だと認定されなかったらしい。道路を通るのはバイク数台だけ。段々畑や枯れた木などが続く。音はほとんどしない。曇っているので暑さは感じないが一度だけ雨が降った。そのときは木の下で雨宿りしてすぐにやんだので、すぐに歩き始めた。歩いたら歩いた分、景色が変わっていくけど真っ昼間なのに音がないので、時間が止まったようだった。それをたまにバイクが現実の流れに時間の流れに戻した。
三時間歩いて坂を登りきったところに基諾族の村があった。宿泊の道具は何も持ってこずに村まで来た。しかしもう三時間も歩いたのでこれ以上歩く気がしない。この村で妥協するしかなかった。だけどこう言い方も失礼だが本当ならこの村からさらに十キロが一五キロぐらい奥にあるガイドブックに持っている村だったが、ここで妥協した。
さてこの基諾族の村だがタイ族と漢民族の建物を混ぜたような感じで入口からずっと下り坂。三〇軒から五〇軒の家が並んでいる。高床式のタイ族的な木造建築を地べたにくっつけて並べた。石造り(レンガとコンクリート)の建物が混在しているという意味だ。これらの建物は花腰タイ族の村の建物のように塀はない。普通のタイ族の村との違いはベランダがあることだ。ベランダに物干し竿がかかっていて白い木綿衣が干されていることだ。
入り口には洋服を着た若い男女が五、六人、石の上にそれぞれ座ったり立ってたりして何か談笑していた。彼らを見る限りはここが少数民族の村だとは思えない。ただ彼らが平均よりは景洪の町の人たちよりはずっと貧しいということがわかった。というのも平均だと男女とも木綿のシャツに薄手のスラックスなどを着ている。それは彼らも漢民族の人たちと変わらない。しかし服の汚れ具合が違う。なんだか泥が付着していて薄汚い。
楽しそうにしている彼らに話しかけるのは会話をぶち壊すのようなのでやめておいた。彼らの他に入り口付近にいたのは民族衣装を着たおばあさんだった。僕が来た方向とは逆方向へスタスタ歩いていく。話しかけようかそれとも抜き打ちで写真を撮ろうかと迷って立ち止まっていたら、走らないと追いつけないほど引き離されてしまった。民族衣装を着てる人はまだこの村にいるだろうと楽観していたので追いかけずにやりすごして、村の中にズカズカ入っていく。若者たちは僕に気が付かないようだった。
坂を下っていく。舗装などどされていない道の真ん中にくぼみが走っている。雨が降ったときくぼみに水を貯めようということだろうか。一つ目の村同様、人は少ない。農作業にでも行ってるのかもしれないと思ってぶらぶらしていたら、共同の水場で洗濯をしているような婦人たちの集まりがあった。井戸端会議をしているらしい、彼女らは僕に気が付いたけどもちらっと一瞥しただけで元の井戸端会議に戻ってしまった。警戒している様子だ。この村に来るためにこの旅に出たという、明確な目的を持ってこの旅に出たわけではない。そんな僕なのでこうした無視に近い反応には困ってしまった。なんとなく歓迎されて当たり前などという思い上がった考えを持ってた僕にとって目を覚ますようなきっかけだった。しかし反省まではしてなかった。
こうやって村の人たちに警戒されると、これといった目的のないには話しかける気持ちが起こらなかった。てなわけで前を通り過ぎる。特に反応がない。さらに下っていくと農作業から帰ってくる男たちを見た。人が少ないのはやはり農作業に入ってたからだった。彼らは気づいているのかいないのかわからない。気づいていても見て見ぬふりしているのだろう。やはり泥だらけの洋服を着ている。彼らが通り過ぎて更に進んでいくと漢民族的な石造りの家の前で遊んでいる子供たちが見えた。ビンロウの実を地べたに干してある。太地康雄に似たおじさんがやかんと泥のついたコップを持ってくる。さー飲んでくださいと勧められた。ちなみにおじさんの耳たぶには大きな穴が開いていて日焼けしていた。そのコップといい注がれた液体(お茶というよりただのお湯)といい泥で汚れていた。
しかしもおじさんの歓迎に背くのは失礼なので口は着けて半分ぐらい飲んで、おじさんの隙を突いて道に捨てた。注がれたお茶をちびちび飲んでいたら子供たちが興味津々という感じで僕を見る。子供たちは学校へ通っているのだろうか。この時午後四時過ぎだった。中国語とジェスチャーであなたは基諾族ですかと聞くとおじさんは「そうだ」と答えた。
「そのわりに誰も民族衣装を着てませんね」
「最近は着ない」と言ったようだった。
お互い片言の中国語なので逆に通じる。そのうちおじさんは奥に引っ込んでしまった。子供たちは何やら糸にくくりつけた虫をぐるぐる回している。回しても飛ばないほど弱っていた。子供らにそれを見せてもらったら虫のお腹部分に糸を貫通させてぐるぐるくくりつけていたのだった。その虫というのは羽がオレンジ色をしたカブトムシというかゾウムシのような甲虫だった。そうした色合いの甲虫をはじめて見たので驚いていたら、子供たちはそれをくれた。手に取って裏返したり、フィルムを横に並べて写真を撮っていたら呆れて、くれたのだった。もしかしたら子供たちは学校へは行ってないのか、夏休みなのかはわからず。この村を歩いていたらラジカセの歌謡曲に合わせて歌う若い女の人がいた。歌謡曲がここにも浸透していた。
この村の子供たちは裸足だった。買ってから洗濯などしていないんじゃないかと思わせる白い生地の、よく見ないと茶色に見えるほど汚れていた服を着ていた。出してくれたお茶から察するに食料事情も良くないようだ。周りに店などない。絶望的なほど貧しい。しかし子供たちは明るさを失わない。彼らにとってはこれが普通の生活なので比べることはしないからだろう。文明の毒に犯されていないってことだ。記念撮影をおじさんに頼んだ。しかしおじさんは拒否して逃げてしまった。逆に子供たちは逆に大喜びできちんと四人整列して写真に収まってくれた。
撮り終わって「謝々、再見」というと子供たちはオウム返しにマネをした。この日はこれで終わり。たまたま景洪行きのバスが通ったのでなんとか景洪へ帰れた。
この日、宿で他の日本人旅行者たちに少数民族の三つの村へたずねたことを話すと、僕の一生懸命な口調が面白かったのか「民族くん」という半ば馬鹿にされたようなあだ名をつけられてしまった。僕は別に気にするどころか名誉に思った。
村を求めてこっそりつける ガンランパ
翌日はまたガンランパへ行った。目指したのはハニ族の村だった。前回、ガンランパから景洪へ戻るバスで乗り込んできたのがハニ族のおばさん。運転手がすごく嫌がっていたのが印象的だった。
メコン川沿いに彼らの村があるような気がしたので、ガンランパで渡し船に乗った。ガイドブックには「川を渡るのは外国人は禁止」と書いてあるそうだが来てしまった。自転車をのせている人もいて、僕も持ってくればよかったと思った。だけどそんなことしなくてもすぐ見つかるだろうという気もしていた。楽観視していた。
別に泊まるわけではないし良いだろうと思ってズカズカやってきた。、実は川を渡る前にハニ族のおばさん二人に目をつけていて、そのおばさん二人をつけて村へ行こうと思っていたのだ。そして対岸に着くと船着場から自転車に乗っていたら絶対に登れないような坂になった。角度三〇度ぐらいはあるんじゃないだろうか。坂を歩いて登ってみた。船着場から繋がっている坂道以外に大きな道はない。
外国人立ち入り禁止の看板はどこにも見当たらない。それでも捕まったらどうしようという気持ちがあって心配だった。おばさんは寄り道しながら歩いていたのですぐに見つけられた。おばさんたちから一〇メートルほど離れて影に隠れたり横を向いたりしてごまかしつつ歩いていく。
おばさんたちは気づかない。途中、ぬかるんでいる、タイ族の村の林の中を通る。その日はひどい炎天下で真昼間歩くのはかなり辛かった。三〇分ぐらいつけて行くと突然、学校の校庭があらわれた。変だなと思いつつ人気のない校庭を横切る。その先には平屋建てのハニ族の村の役場があり、おばさんたちは建物の中に入っていった。三〇分待ったが出てこないので僕の存在に気が付いて煙に巻くためにわざと役所に入ったのかもしれないと思った。炎天下の中歩いたので疲れてしまった。
なので日中は休むことにした。バンブーハウスに戻ってぼーっとした。そして再度、川を渡った。今度はつけたりせず、自転車で探した。自転車は市場の端っこで借りた。自転車を押して登ってひたすら南へ、ミャンマーの国境の方向へ行くことにした。ベトナムの傘をかぶっていたが風の抵抗がきついので自転車をこぎながらはかぶれない。すぐにめくれて飛んでいってしまう。だからかぶらずに進んだ。舗装はされていない。昼まで二時間飲まず食わずで炎天下の中、帽子も被らずこいでいた。別に辛くはない。進んで行くとタイ族の村が集まった集落が見えてきた。
小乗仏教のお寺があってその先にあるのかと思っていたら国境へ続く広い道へ戻る。地図だけ見てるとジャングル地帯なのかと思っていたが大違いだった。極論すれば日本の夏の山の麓の村のような感じ。進めば進むほど時間をさかのぼっていく感じがした。役所のある村を超えると急に獣道にってしまい道はなくなった。そこから戻っていくとたまたまハニ族おばさんがいた。自転車で通れるはずの道ではなく、ぬかるんでいたので自転車をぬかるみの手前で置いて歩いてついて行こうとしたら、桑を持ったおじさんが「行くな行くな」と脅しをかけてくる。そういうわけでこの日は村を見つけておきながらあと一歩のところで行くことができなかった。
帰ってから日射病でしんどかった。だが諦められないので僕は違うルートでハニ族の村に行くことにした。そこで思いついたのがモンハイまでの途中にある巴拉という村。ここはホテルのツアーに含まれている場所だから入っても文句は言われまい。日射病でボケた頭のまま翌日、巴拉へ行った。
八月三〇日、景洪のバスターミナルでモンハイまでの切符を買う。ここの切符売り場のお姉さんたちは対応がちょっと怖い。基諾族の村のある基諾という場所に行こうとしたとき、メモに書いて見せたら、怒ってうんざりしたような顔で「三点半」と繰り返すばかり。メモに書いてくれたらわかるのに口頭で言うだけだ。このときは彼女が何を言ってるのかわからなかったので十元札を突き返されるたびに再び差し出した。その繰り返しばかりで全く進まない。それに横から地元の人たちがさっとお金を窓口に出して切符を買っていく。客からも窓口からの邪魔者扱いされるばかり。口をとんがらがっして「三点半」と言ってるうちに向こうの声がどんどんと怒気を帯びてきた。そんなわけでここで切符は買えなかった。まあ僕もそんな初歩的な言葉が何でわからなかったのかと思うが。お互いのコミュニケーションについての歩み寄りとかそういうものがあればよかったのに。
切符を買いに行ったのはその日の午前中。「まだ切符は発見できないから出発の一時間前にまた来てください」と言いたかったのかもしれない。もしくはメモを書くのが他の客が多すぎて混雑してるから面倒くさがって書く暇なんかねえよっていう感じだったのかもしれない。鉄道もそうだがこういう窓口の人はすぐに怒る。切符を買ったりとかした後もお金を投げつけて返すし。だけど怒鳴りつけることはないと思う。ちなみにそういうところで切符を売ってるのは大体女性たちだ。
シベリア鉄道に乗れなくしたバスの切符売りも多分にそういう傾向があったということを思い出した。とするとやっぱりあれは嫌がらせだったんじゃないか。
それはともかく巴拉行きのバスの切符は手に入った。巴拉と漢字で記してそれを見せた。しかし運転手はその場所を知らない。乗客の中にそこを知っている人がいてその人が代わりに運転手に場所を教えた。それで何とか村の前で降ろしてもらえることになった。
村といっても道路と村の間には川が流れていた。コーヒー色の川で幅が三〇~五〇メートルとかの小さな河だ。村にどうやってわかるかというと竹でできた筏の橋があってそれで渡るのだ。道路と村の間にはワイヤーが張ってあり、それを伝って手繰り寄せて渡るのだ。渡りたい村の人にだけその橋を使うための手段なのか。ともかく外部からの侵入者を簡単に入らせないための工夫だろう。そんな用心深い村へどうやって入ったかというと六~一二歳ぐらいの子供たちが、両岸を行き来していて道路側へ渡ってきたときに便乗したのだ。
この村の子どもたちはむき出しの好奇心を見せてきた。民族衣装は着ていなくて泥に汚れた洋服を着ている。しかし明るくてよく笑う。カメラを向けたら集まってくる。途中から川に飛び込んで泳いで渡る子もいた。山というか丘というか坂に村は広がっていて川を渡ると上り坂になっていた。ハニ族の家々はタイ族同様木造の高床式住居だ。歩いていたら民族衣装を着たおばあさんが洗濯物を干していて、その方向を見てたらふと目が合った。「ましなや」とハニ語で挨拶をするが、通じない。それはこんにちはではなくて、別の言葉だったからだ。
坂を登りきったところに氏神を祀る場所があった。それは日本で家を作るときの地鎮祭のようなものか。凶暴な犬が数匹襲いかかってきて噛まれそうになった。それは目やにが出てて毛があちこち抜けている犬だ。狂犬病のリスクが大きそうだ。
坂の中ほどまで登るとおばさんたちが腕輪を売りにくる。頭に布を巻くスラックスを履いて上は黄色いカーディガンのようなものだけを着ているおばさん。とりあえずは無視する。四、五歳の女の子が電子銃を持っててピロピロピロピロピッと鳴らして撃ってくる。
電気さえ届いているのかどうかわからない村にこんなものがあるのかと感心させられた。村の若い男女二人ずつぐらいが刺繍のカバンなどを売りに来る。だがカバンや帽子はすでに買って持ってあったのでそれを見せて首を振る。彼らはそんなに商売にこだわっていないのか、さほど残念そうにはしない。
かばんの中からガイドブックを取り出してこの村の写真を見せると頷いて手を叩いて喜んだ。ちなみにこのガイドブック、持っていた人は「もういらない」ということで、僕がコピーをとった後の数日後に譲り受けたものだった。その写真とは僕らがいた坂の中ほどの小さな広場。民族衣装を着た女性の村人が輪になって踊っているというものだった。
「この人もこの人もこの人も知ってる」と指を指しながら教えてくれた。若者たちの一人で、耳の出たショートカットの女の子が一人いた。二〇歳ぐらいだろうか。洋服のスカートを履いててそれは汚れてなくてパッと見のファッションだと漢族と全く区別がつかない。その女の子は僕の鞄の底が破れているのを見つけると無料で縫ってくれた。カメラを見せてその子と一緒に写真を撮った。他の若者が僕ら二人をちやほやした。
さてその後、腕輪を売るおばさんが家へ来いと言うのでついて行った。高床式の家だ。中にはいると、民族衣装を着たおばあさんが二人いた。僕は間違ってることに気づかずに「マシナヤ」と挨拶するがやっぱり通じない。家の中には日光はさほど届かない。一応電気はあるみたいだが、点灯はしない。
お茶を出してくれ、丸い座布団に座る。親切だなと思っていたら案の定お土産物を見せてきた。招待されては買わねばならないという人情作戦だろうか。おばちゃんは一緒に写真を撮らせてもらったし家にも招待してもらったからひとつぐらい買ってもいいやと思って金属製の腕輪を買った。確か二元だった。
こうやって招待までしてもうけるのは観光客として悪い気はしない。おばさんの招待には何となく心温まるものがあった。
この家を出てしばらく村をぶらぶらしていると二〇歳ぐらいの青年から声をかけられる。顔のやや長い青年だ。やはり家に来てとのことだった悪い人間じゃなさそうで非常に善良そうなのでついて行った。高床式の家だ。だけど何のために招待されたのかわからない。
彼は五分刈りで長い顔。家に入ると彼以外、人はいなくなりやはり薄暗い。部屋は細かく区切られている。男女部屋別になってるようだし、ミシンやテレビが置いてありそれらを自慢される。他の村よりこれでもこの村は金持ちのようだ。
基諾族の村などに比べると全然いい。花腰タイ族の村などに比べてもそうだ。電子銃やテレビミシンなど、個人差はあるが平均的には経済的にレベルは高いみたい。
青年にテレビつけてみてと言うと「今は停電中だから無理なんだ」という答えが返ってきた。テレビはあるのに電気が来ない。しかも安全な水道が手に入るかとどうかわからない。まあ村の中に水があるのかもしれないが。村の道は赤土で舗装されていない。これだと雨が降ったらぬたぬたになってしまうのじゃないか。そんなふうにインフラの整っていない村。こんな村にさえ、物は流れてくるという矛盾した状況があるようだ。
彼と筆談をした。
「職業は何してるの」
「昆明で大学に通っている」
「海を見たことあるか」
「ありません」
他にも何か色々話したらだと思うがはっきり覚えてない。やはりお茶も出してくれた。彼以外家には誰もいないという感じでちょっと心配になった。お茶に痺れ薬でも入ってるんじゃないかと思ったのだ。まー大丈夫だろうっていう考えはもちろんあったが、お茶を飲んだ結局何もなかった。彼は外国人に単に興味を持っているだけなのだ。
巴拉村はこれで訪問はおしまい。村の入り口には英語で案内がある。トイレがあって、入ったらただ穴が空いてて下に落ちる仕組みだった。やっぱりみすぼらしい。村から浮橋に乗って道路に戻った。僕と入れ替わりで専用バスで乗り付けた中国人観光客がぞろぞろと村へ入っていく。バスは二台あったので五〇人以上。ここは観光地化された村なのだ。村の前を通りがかった路線バスをヒッチハイクして帰る。
この村は観光地化されているところは目についた。ものを売りに来たり招待してくれたり、外国人慣れしていた。それらは僕にとって訪問への期待を少しも急ぐものではなく逆に肯定してくれた。外国人の入らない村へ行っていたら入るのを拒否されていたかもしれない。そんなとき僕にはそれでも入らせてくださいなどと頼む気はなかったし中国語を喋ってそれを伝えられるかという問題もある。少数民族を一目でもいいから見るという一種野次馬的な考えを持っていた僕の珍しいものへの好奇心と人との出会い。この村で家の中に入れたのは素直に嬉しかった。それに北京語を喋れる人がいたのも村を理解する手助けになった。さすがに日本語や英語では理解は劣ったが。
その翌日だったか僕は景洪から飛行機で昆明へ渡ることにした。飛行機はボーイングだった737か747。飛び立つと一面田んぼが眼下に広がった。通路を隔てて隣の中国人のおばさんは飛行機乗るのは初めてなので怖いとつぶやいている。人間シェーカー状態となった行きの行程はほんの一時間で移動してしまった。
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