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使命を終えようとする日中の架け橋[2018年/新鑑真号編/中国の高度成長を旅する#12]

乗り合わせた面々

 娘と一緒に梨狩りにいった翌々日、私は中国行きの船に乗った。八月二八日のことだ。

 ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに程近い阪神港から午前一一時半に出航する。早朝に夜行バスで大阪に到着した私は、時間を持て余し、出航二時間前の午前九時半頃にターミナルの建物に辿り着いていた。すると私より先に、他の乗客がちらほら集まっていた。
 カウンターで予約確認書とパスポートを見せて燃油代込みの二二〇〇〇円を支払って、手書きのチケットと交換する。最近はネット予約が主流なので、表紙のついたチケットは久々だ。九〇年代初頭に逆戻りしたような気がした。


 乗客はどんどんと集まり始める。四〇リットルのバックパックを背負って、二二リットルのビジネスリュックを右肩にかけていた。加えて左手にはパンパンになったスーパーのビニール袋を持っていた。そこには、依頼されて買ってきた麦茶のティーバッグ(五四袋入り)を六袋が入れてあった。身軽にしたつもりだったが、思いの外、荷物が多かった。


 私のようなバックパックを担いでいる者は一人もおらず、いてもデイパック程度。それに延びる取っ手のついたキャリーバックかスーツケースを組み合わせている人たちばかり。中には担ぎ屋や爆買いをした人たちが電化製品やコスメなど、大量の荷物を持っている人が大半なのかと思ったら多い人でもせいぜいスーツケース二つほどと思いの外少なかった。服装のレベルは大差なかったが、日本人と中国人の区別はだいたいついた。中国人の方が総じて派手好きな分、日本人の方がみすぼらしく見えたのだ。
 検温といっておでこにビームを当てられて体温を測る。体温が三七℃か三六・五℃だったかは忘れたが、それを上回ると乗船を拒否されるという。微熱でもダメなのは、SARSの影響があってのことだろうか。


 午前一〇時すぎ、乗船手続きの案内があり、早くも船に乗り込むことになった。出国検査を受け、通路を通り、船に乗り込んだ。すべての乗客を乗せ終わったからか出航時間を繰り上げて午前一一時前に船は岸壁を離れはじめる。デッキでその様子を見ていたのだが、新鑑真号を見送ったのは三人だけ。もちろん紙テープはなかった。

 部屋は前回と同じ二等和室だが、いるのは私を含めて四人のみ。東京からきたという二〇歳そこそこの大学生二人組。そして五〇代の飲んだくれのおじさんだけだった。若い二人はキャリーバッグを持っている。私が二人に名刺を渡すと、意外にも二人ともが名刺を差し出してきた。

「中国関連のECサイトを運営するベンチャーをやっているんですよ。彼はその仲間です。昨年、南寧で会って友達になったんです」
 そう話したのは関西出身の明治大学生。昨年は休学し半年かかって世界一周、二〇カ国回ったという。トルコで一〇万円、盗まれてヨーロッパをヒッチハイクして回ったり、野宿したりしてなんとか凌いだという。キャリーバッグを持っているから、旅慣れてなさそうと先入観を抱いていた。しかし、彼も立派なバックパッカーなのだった。
 もう一人の彼にも話を聞いた。
「父親は弁護士で母親は教師をしています。小さい頃から日本やアジアなどへ旅行して日本全国を回りました。昨年から日本に留学。今は慶応大学に在籍しています」と実に流暢な日本語で話す。私が「日本は今だいぶ斜陽だけどなぜ日本なの?」と聞くと、不思議そうな表情を浮かべながら「なぜって隣の国だからですよ」と当然でしょという感じで答えた。そんな二人はこれから、上海で一週間ほど過ごすのだという。
 一方、おじさんはというと、おむすび型の古びたリュックと紙パックの焼酎だけ。朝昼夜と窓側の共用テーブルに陣取って、ずっと飲んでばかりいる。
「船はいいよね。こうやってゆっくり現地に向かいながら、ちびちびやるのが楽しいんだ」
 そんなおじさんは上海に着くと、同じ船に乗って、大阪へ取って返すのだという。
 隣の二等和室には女子が三人ほどいるようだった。二人は二〇代前半という感じ。向かい風が吹く艦橋下のデッキで風を受けてキャアキャア騒いだかと思えば、『地球の歩き方 上海編』をデッキで広げたりと何だか若い。旅慣れていない様子が見て取れた。初めての海外なのだろうか。
 九一、九二年と二度出かけたとき、二等和室は日本人バックパッカーでほぼ満室だった。他のクラスにしても日本人が大半で、船の乗船率は満員に近かった。しかしすっかり変わってしまった。客の大半は中国人、乗客の数は五〇人足らずで、乗船率は定員の八~一〇分の一。船を出せば出すほど赤字はかさむのではないか。

 船内を歩くと、以前あった日本語の表示がなくなっていたし、浴槽もなくなっていた。というのもこの船は私が先代の船の代わりに新造船として導入されたもの。一万四五四三トン、定員は三四五名というから、先代の九二八〇トン、旅客定員五六四名に比べると貨物輸送に力を入れているのだろう。就航したのは一九九四年だというから私が乗り込んでたったの二年後だ。先代の鑑真号はたったの九年しか使われなかったのは、新造の船をなるべく早く導入したかったからだろう。


 浴槽がないこと以外に、中国らしい、と思ったのは、麻雀室や卓球室があったことだ。しかし誰も利用しない。その卓球室の手前には、マッサージ椅子が並ぶ部屋があった。せっかくなので利用しようかと思ったら、コインの投入口がない。あるのはアームレストのところにあるQRコードだけだ。これはどうやって使うのだろうか。


 航路は前回と違っていて、燕京号同様に瀬戸内海を通った。舞子大橋、瀬戸大橋、そしてしまなみ海道とくぐっていき、広島付近で日が落ちた。日付が変わったのは関門海峡。それ以後は外海なので、ゆっくりとだが揺れるようになった。二日目は韓国の沖合を通った。曇っていて、したたか揺れたため、マットの上で寝そべることが多かった。


 食事はというと、乗り込む前にコンビニで買ったカップ焼きそば二つを一日目と二日目の昼に食べ、それ以外は食堂へ出かけた。食堂コーナーには乗り合わせた中国人たちがいた。食堂にいるのは家族連れ、留学生たちで日本人は五、六人しか見なかった。食堂では作り置きの一品中国料理をトレイに乗せて清算する。たらふく食べても一〇〇〇円ほどと高くない。何より嬉しかったのは、酒税がかからないのでビールが一五〇円と安かったことだ。私はやっとのことで出発にこぎ着けたということもあって、船内ではゆっくりするつもりで何本かビールを飲んだのだった。
 カウンターには二〇代の中国人女性スタッフが常駐しているが、暇を持て余しているせいか、自宅に友達を呼んでパーティをしているかのように、緊張感がない。映画でも見ているのか、三人の女性クルーはスマホを食い入るように見ていたりする。ひとりは椅子に、もう一人はその膝の上、さらにもう一人はその横に中腰で立っているのだ。プロ意識に欠けるそうした態度にガッカリした。ここ四半世紀で中国国内の接客態度は良くなったのだろうと思っていたが、そうした考えは間違っているのだろうか。


使命を終えようとしている理由

 九〇年代前半当時、この船には日本人バックパッカーが押し寄せ、船を満室にしていた。私が乗った翌年である九三年には、大阪(当初は隔週で横浜出航、現在は大阪のみ)~上海間を結ぶ蘇州号が就航したほどだから、船のニーズは当時、かなりあったのだろう。
 当時、中国人の乗客は日本人に比べるとずっと少なかった。それは日本人に比べて中国人の所得が比べものにならないぐらい少なかったからだ。そんな時代に、定期的に日本に行けるこの船のクルーは選ばれた人しかなれない花形職業だったに違いない。給料もそこそこ高かったはずだ。だから、その分、モチベーションにしろ、プロ意識にしろ、高かったはずだ。
 中国の国家統計局によると、一九九一年の中国の雇用者の平均賃金は年収二三六五元(五万九八三四円/二五・三円で計算)だったのに対し、日本の雇用者の平均年収は四四六・六万円(国税庁・民間給与実態統計調査)だった。二〇一七年度の収入は、中国の都市部における雇用者の平均賃金は年収七万四三一八元(一二三万三六七八円/一六・六円で計算)、日本の雇用者の平均年収は四三二万円(国税庁)。
 これは大都市に絞るともっと差は縮まる。つまり一部の上流階級だけでなく、中間層が爆買いのために訪日できるほど所得は上がったということだ。日本人は当時に比べると、相対的に所得は落ちたとはいえ海外に出られなくなるほど貧しくはなっていない。


 であれば中国人と日本人、双方が詰めかけて毎回、満室で出航していてもおかしくはない。特に中国人の爆買い客が、荷物をたくさんつめるこの船は利用価値があるのではないか。なのに現状はというと閑古鳥が鳴き、カウンターの女性クルーが暇を持て余している。
 時期を選べばという、条件はつくが、この船の片道料金である二・二万円よりも安い金額で、日中を往復する航空券が買える。しかも、関西~上海間は、新鑑真号と蘇州号が競合しているのだ。日本人バックパッカーにしろ、爆買い中国人にしろ、わざわざ、新鑑真号を選ぶ必然性が、かなりなくなっている。
 中国人のクルーたちがプロ意識を持てず、態度に表してしまうのは、ヒマだからということに加え、中国人全体の所得が上がったことから来るこの職業の相対的な地位の低下、それによる人材の質の低下、モチベーションの低下などが原因なのではないか。だとすればもはや花形職業とはいえないのだろう。ちなみに燕京号の航路は二〇一二年に廃止されている。

 ではなぜ中国人の所得が劇的に上がったのだろうか。それはここ四半世紀にわたる中国の驚異的な経済成長の結果だということは間違いない。一九八〇年~二〇〇〇年までの経済成長率は年平均一〇%以上を保ち、GDPは二〇〇六年に二〇〇〇ドル、二〇一〇年にはGDPは日本を抜いて世界第二位、二〇一一年に五〇〇〇ドルの大台に乗った。具体的に見ていこう。
 改革開放政策が始まる前、中国は国有・集団所有が基本だったため、働いても働かなくても、人民の待遇は変わらなかった。そのため、勤労意欲は著しく低かった。大躍進運動や文化大革命といった運動によって中国全土の社会的な混乱を招いたこともあって、この政策が始まる直前の一九七八年当時、一人当たりのGDPは二〇〇ドル未満。人民は生活物資の不足に喘ぎ、誰しもが貧困状態にあった。
 ところがだ。一九七九年、鄧小平が主導権を握り、階級闘争路線から経済建設路線へシフトする、「改革開放路線」によってこの国は再建の糸口を見つける。一九八〇年代前半に行われたのは、余った作物を自由に利用して良い農業生産請負制。そのほかには、価格の自由化、人民公社の解体、指令型計画経済の範囲の縮小、個人経営の容認などが行われた。
 このころ外貨取得のための開放政策も進められた。一九八〇年から広東省の深圳、珠海、汕頭、福建省の厦門といった南方の五箇所を経済特区化。一九八四年には北部から南部までの沿岸一四都市を開放した。また八五年以後には、遼東半島や長江デルタ等を経済開放区とした。これらの都市を開いたのは香港などに住む華僑のお金を目当てにしたものだ。こうした地区では、経済が外向きで障壁となる決まり事が少なくなっていた。輸出を広げたり、先進技術を導入したりした。八〇年代の中国は、そうした経済制度の改革と、経済特区を設けての開放によって、極貧状態を脱し、開発独裁の国へと変わっていった。
 ところがだ。順風満帆だった経済は、一九八〇年代後半に一度停滞している。そのころ、ソ連をはじめとする他の東側諸国が急激な政治改革をおこなっていて、そうした動きは中国にも伝播していったのだ。一九八九年には学生を中心とする民主化運動を力で押さえつけるという事態が勃発した。いわゆる天安門事件である。死者の数は一説には二〇〇〇人ともいわれているが今もはっきりとした数字はわからない。その一件を機に、体制改革は退却し、経済も低迷する。また外国からの投資も引き揚げられた。
 沈滞した中国経済を回復、そしてテイクオフさせたのは、高齢によって半ば引退していた鄧小平であった。一九九二年一月に鄧は「南巡講話」という政治キャンペーンを張る。「市場経済も計画経済も手段にすぎず、資本主義と社会主義を分ける基準はない」と言い切って、香港のメディアに報道させて、全国に発言を行き渡らせた。そうして市場化の流れを再び加速させた。
 その年秋の全人代で「社会主義市場経済」の路線が決定、民営企業が競争し合って経済が活性化し、急激な成長に先鞭をつけた。沿岸部から着々とインフラが整っていき、経済成長の恩恵を人々が受け始めた。
 二〇〇一年一一月、中国はWTO(世界貿易機構)に加盟する。これにより中国は国際経済のメンバーの一員となり、電子機器や家電、鋼鉄の生産で世界一となり、「世界の工場」として爆発的な発展を遂げることになる。特に日本や韓国、東南アジアの国々の経済との相互関係を深めたのだ。WTOに加盟した翌二〇〇二年、中国の輸出入実績は初めて六〇〇〇ドルの大台に乗った。〇三年から〇七年には五年連続で二桁の経済成長率を記録、外貨準備高で日本を抜いて世界第一位となった。外貨不足に悩まされていた一九七八年当時が一億六七〇〇ドルだったのに対し、三〇年で九〇〇〇倍に膨れ上がったのだ。
 国民の生活水準は急激に向上した。〇七年には、カラーテレビは一人一台と行き渡り、コンピュータは都市部だと二人に一人は所有するようになった。
 勢いに乗る中国は二〇〇八年八月にアジアで三番目のオリンピックを開催する。ところがその翌月、リーマンショックが世界中を襲う。しかしこのとき中国は、すばやく策に出た。四兆元(五六兆円)という、日本の税収四〇億円を超える、凄まじい額の景気対策を打ち出した。その投資の四五%は全土のインフラ整備、同年五月に起こった四川大地震の災害復興は二五%に上った。このやり方が功を奏し中国は素早く景気を回復する。そうした中国の大々的な投資によって世界経済は救われたと言われている。
 そして二〇一二年。習近平が国のトップになると、経済成長率よりもその質を追求する時代となった。二〇三五年までに先進国入りを目指すことが宣言されたり、中国からアジア、アフリカを通ってヨーロッパまでを発展ベルト地帯として、経済成長を目指す一帯一路という構想が掲げられ、アジアやアフリカの国々に対して、中国版マーシャルプランともいえる大々的な開発を実施するようになった。
 このように四半世紀の間に、中国は貧しい発展途上国から、世界の盟主に手が届きそうなほどの経済大国となったのだった。一方、日本はバブル崩壊後、九五年に阪神大震災や地下鉄サリン事件といった大変なことが立て続けに起こり、それを契機に長い停滞期に入った。高齢化社会となり人口は縮小、今や衰退期のとばぐちにさしかかった。

 そんな対象的な両国を、新鑑真号と蘇州号は交互に毎週行ったり来たり、往復し続けている。言わばこの二つの船は、日中の歴史の生き証人とも言える。しかし、そんな船に閑古鳥が鳴いている。燕京号同様、この船も蘇州号も、そろそろ歴史的な使命を終えようとしているのかもしれない。
 自宅のようにくつろいでいる若い女性クルーに話しかけてみた。
「私は二六年前にこの船に乗ったんですよ」
「私の年齢と同じですね」
 彼女は無邪気にも驚きながら、日本語でそう言った。


長江の河口の街、上海

 三日目は目が覚めるとすぐにデッキに出た。日が昇ってから三〇分ほどたった午前六時。中国は日本と時差があるので、日本時間だと午前七時だ。水面は茶色く濁っていた。まだ河口に入っていないというのにだ。全長六三〇〇キロに及ぶ大河、長江が下流へと運んできた泥が押し出され、海を茶色く染めているのだ。トップデッキで生暖かい風を感じながら二六年ぶりの上海、そして中国が目前に迫っていることを私は実感した。


 部屋に帰ると、私は日本から持参した中国製SIMフリーのスマートフォン(HUAWEI HONOR9)と、この旅行のために購入しておいた香港製のSIMカード(データ通信用/通話用)、そしてSIM抜きピンを床に並べた。老眼鏡をかけると、SIMカードの交換に取りかかった。ピンでスマホの側面の穴を押し込み、スロットをとり出してSIMカードを交換したり、ポケットWIFIのスロットにデータ通信専用のSIMカードを差し込んだりした。前述したように中国では金盾(グレートファイヤーウォール)が存在している。そのため私が日本で日常的に使っているFACEBOOKやツイッターといったSNS、Googleといったサイトにつなげない。それを防ぐために、香港のSIMカードは欠かせなかったのだ。


 SIMのセッティングが終わると私は一休みし、朝食をとる。そして九時ごろデッキに出た。河口には长兴岛という島があるためか、その南側を通ると川の幅は六キロほど。南岸、数百メートルほどを航行している。貨物を満載した平べったい小型貨物船、真ん中に帆柱を持つジャンク船が見える。石油か天然ガスの貯蔵庫群、港湾施設の固定式クレーン群、遠くには集合住宅群の影が見える。スマートフォンは中国の電波を摑むようになる。遠くには、东方明珠らしき、ロケットに玉を突き刺したような塔やその周りの摩天楼が見える。浦東新区だ。一九九二年、浦東地区は「国家の重大発展と改革開放戦略の任務を受け持つ総合機能区」である国家級新区として設置され、大開発が行われた。今では上海の人口の五分の一である五〇〇万人以上が住むという。
 偶然にも、私が前回訪れた年に、新区が設置され、それ以来の大発展を遂げたのだ。しかし、私が前回、上海を訪れたとき、黄浦江ごしに遠望すると、利用価値のない単なる空き地に見えた。しかし、その印象は間違っていた。そのとき、浦東地区は今にも発展を開始しようとしていた時期だったのだ。


 午前九時二〇分頃。砂利を運ぶ大型のジャンクが目の前を航行し、その奥一キロほどのところに黄浦江の河口が見えてきた。そのころには埠頭や建物がたくさん見える。河口には公園の緑、ホテル、客船がいくつか泊まる船着き場、工事用の煙突などがどっと押し寄せたと思うと、黄浦江に入りはじめるが、やはり川は濁ったままだ。
 河口の幅は五〇〇メートル弱と狭まり、対岸がよく見える。集合住宅の手前には近隣の船着き場がみえる。操舵室付近に植物のプランターが置かれている生活感たっぷりの砂利運搬船がとろとろ走っていたり、そのすぐ側には、中国海軍の大きな艦船や、中国海警局(海上保安庁にあたる)の巡視艇が何隻か停泊しているのが見えたりした。
 下船一時間前である午前一一時にもなると、船内は下船のための準備が始まって騒がしくなる。カウンターのあるフロアには人が集まりはじめる。私も大小のザックをまとめてカウンター前に集まった。そこに荷物を置いて、デッキに出ると、浦東地区の摩天楼ぐんがひとつひとつ確認できるぐらいにまで近づいた。
 コンクリートの埠頭にはオレンジ色のつなぎを着たヘルメット男たちが六~七人、一〇〇メートルほど向こうには黄色いライフジャケットを着たヘルメット男たちが一〇人ほど待っていた。ガラス張りの小さな、ヨーロッパのモダンアートの美術館のような平屋の建物が見える。しかし全く見覚えがない。これは以前からあったものだろうか。それとも私が忘れているだけだろうか。自分の記憶力の不確かさに気がつき、私はしばしデッキで愕然とした。


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