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数学と物理と神様と私【全文公開】

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数学と物理は似ていると思っている人があるが、とんでもない話だ。職業にたとえれば、数学に最も近いのは百姓だといえる。種をまいて育てるのが仕事で、そのオリジナリティーは「ないもの」から「あるもの」を作ることにある。数学者は種子を選べば、あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子の方にある。これにくらべて理論物理学者はむしろ指物師に似ている。人の作った材料を組み立てるのが仕事で、そのオリジナリティーは加工にある。理論物理はド・ブローイー、アインシュタインが相ついでノーベル賞をもらった一九二〇年代から急速にはなばなしくなり、わずか三十年足らずで一九四五年には原爆を完成して広島に落した。こんな手荒な仕事は指物師だからできたことで、とても百姓にできることではない。いったい三十年足らずで何がわかるだろうか。わけもわからずに原爆を作って落したのに違いないので、落した者でさえ何をやったかその意味がわかってはいまい。 — 『春宵十話』岡 潔著

幼い僕が、「数学」の根っこに疑問を持ち、「物理」に熱狂できなかった理由が、日常の言葉でよく説明されている。その疑問は、いまなお払拭されたわけではない。

今日、ソーシャルメディア上では、高いリテラシーを「気取った」数学者、科学者しか見かけない(正確には少し違って、そういう者「しか」そもそもソーシャルメディア上に露出しないだけであろう)。それにしても、自身を百姓にたとえる感覚を持つ数学者など、いまの時代にどれほど存在するだろうか。岡潔先生が今生きていたらどうだっただろうか。

岡先生の言葉を借りるなら、数学の根本は「種」の中にある。数学者の仕事はじっくりと種を育てること。もし、純粋な知的好奇心などというものがこの世に存在するとすれば、それが向かうのは「収穫量の管理」などではなく「種そのものの原理」であろう。では、数学の種子とは何なのか。おそらく、それは認知的問題として人間そのものに生得的に埋まっていると考えるのが最も「自然」であろうという自分なりの直観はあるが、正直なところわからない。わかるはずがない。数学者も、結局のところ種を育てることに夢中で、種を割って中身を「観察」しようとする人は多くはない。原理のわからないものの「観察」などという野蛮な営みは、数学者たるもののなすべきことではないのだろう。

一方、物理は「指物」とはよく言ったもので、加工物、人工物である。つまり、物理学が宇宙の根っこを解き明かすことは、たぶん不可能である。人間の頭の中にどこまでも精緻な人工の宇宙像を創り上げる。物理学者は、破れない法則で宇宙を捕捉する(ルールで記述する)ことに、ある種の安心や快楽(報酬)を感じているのだろう。フェティシズム以外ではその動機は説明できそうにない。もちろん一概にまとめられることではないが、数学者の動機は「せずにはいられない」であり、物理学者の動機は「したい」であることが多いように感じる。さて、もし宇宙が理論的に捕捉されるとしたら、分野は違うが、「チートで理論をすっ飛ばして結果だけをハッキングした」ラマヌジャンのような「ルールから外れた」才能だけがそれを可能にするのではないかと僕は感じている。観察から「さかのぼる」という科学的手順では神様の意図には届かないからだ。僕が科学に明確な「限界」を感じているのは、そこに理由がある。以下、一応説明だけは試みてみる。

「理論を組み上げて『論理』を解き明かす」という表現がいかに矛盾に満ちているか。ウイスキーの製法を一切知らない者が、成分を分析するだけでウイスキーが作れるだろうか。科学者は「理論的には可能」と言うのだろう。そして、現に宇宙は存在し、人間は存在している。その成分を分析すれば、理論上コピーは可能ということなのだろう。しかし、

無理矢理成分をコピーすることと、「意図」を含んだレシピを知ることは、本当に等価なのだろうか。

たぶん、違う。コピーでは永遠に意図には辿りつけない。意図に辿りつけない限り、コピーはコピー以上のものにはならない。コピーからレシピを改良することも不可能だ。実質に違いがなければ、僕は贋作も真作も同様の価値を持っていると言っても構わないような気はしているが、少なくとも、贋作を作る技術から新作が作れるということは全く保証できない。僕は「神」とは「真」ではなく「新」に在ると考えている。その意味においては、我々は「神様」にはなれないということになる。

それで良い……とは思えない人が多いらしい。

我々はどうしても神様になりたいのだ。だから、「真」なるものに手綱をつけて「神」として信仰する科学の世界を築き上げたのだろう。流石に長年生きてきて、僕の感覚は異常なのだと学びはしたが、僕にはわからない。

「真」だから何だというのか。

これでめでたく、僕は全ての「現代人」との意思疎通可能性を放棄したことになる。

ウイスキーは美味しく飲むために作られたものである。たとえば、成分を分析し、必死こいてコピーしたら、大体似たものが作れた。だから、何だというのか。そう、ウイスキーが作りたければ、さっさと蒸溜所で学べば良い。ちゃんとその「意図」まで含めて製造過程を学べるだろう。神様相手にはこれができない。神様に弟子入りして宇宙の意図を教えてもらうことはできないのだ。製法も意図も教えてもらえないから、我々はやむなく成分分析と答え合わせばかりを繰り返している。

しかし、この「意図」という概念すら、今となっては非科学として無価値なもの扱いされていやしまいかと、大いに不安になる。

そもそも、ウイスキーの話にしても、美味しさ(世界そのもの)に確固たる理由などない。あるはずがない。人の数だけ意図があり世界がある。つまり、本来、理由などというものは無数に存在する。そういう意味で、逆説的に全人類が共有できる唯一の「理由」などは存在しないということである。

しかし、とかく現代人は理由をつけたがる。理由とは、おそらく、「理解」したがる脳の習性に対する説明責任(落とし前)であり、理由をつけるという営みは「ヒト」の生得的な性質なのだろう。実際、有史以来、歴史とは理由の記述である。事実の羅列ではない。そして、いま、現代人がイメージする理由とは、真であることの証明である。すなわち、それは、科学的証拠(論理)であり、データ(数)である。美味しさすらコピーされ、成分で語られる。あらゆる個人の主観もコピーされ、心理学その他のフォーマットで「真」なるものとしてパッケージされる。一人の人間の個人的な「想い」など、「それってあなたの感想ですよね」でしかなく、エビデンスのない話には誰も耳を傾けない。

一人の人間がただ生きていることには「理由」などないらしい。そして、

それで良い

ということが認められない社会になっている。「理由」のつかない(落とし前のつかない)ものは、社会の範疇から除外される。そうやってコピー可能な「理由」で社会を埋め続け、皆必死でコピーされた「理由」にしがみついて生きている。

最後の最後に話を戻すが、我々の意識が、数学や物理に向かえば向かうほど、我々は大いなる「答え(コピー)」にも近づくことはできるのだろうとは思う。より整合性の取れた精度の高い「理由」を世界に与えられるのだろうとは思う。皆が本気でそれを望むのならそうなるのだろうとは思う。

ただし、その答えの中には「私」はいない。そんなことは、考えればわかる当たり前のことだ。「私」はコピー可能ではない。

本当に皆が皆そんな世界を望んでいるのだろうか。

僕にはわからない。

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