見出し画像

【作業メモ】外部化・生きにくさ・ジェイラボ【全文公開】


  • 本記事は全文無料公開しております。価格表示についてはただの字数に応じた設定です。投げ銭とでも考えていただければ幸いです。

  • 『Core Magazine』購読で購読月の有料記事は月額980円で読み放題となります。購読月以外の有料記事は別途購入となります。


しばらく単純作業的な仕事しかしていなかったが、久しぶりにアイデアを外部化し構造化する作業にとりかかっている。そして行き詰まっている笑

そもそも僕は、完全に外部をシャットアウトして一人きりになる時間を作らないとアイデアをまとめられない、とても不器用なタイプの人間である。しかもその「ゾーン」に入るための助走(全く関係ない読書や映画鑑賞をするある種の儀式)として、かなり長い期間(数日から一週間)を必要とする。社会は決してそんな「無駄」は許してくれない。お前は何様だ、どんな巨匠のつもりなんだ、と。そうではなく、浅い思考でもともかく暫定的な解を量産しなければ、社会にはフィットしない。それが若かりし僕には無理だった。無理というのは、不可能ということではなく、耐えられなかったということである。もっとも、広義には「耐えられない」ことが「不可能」の意味であるのかもしれないが。

以前どこかで書いたことがあるが、いわゆる落ちこぼれの生徒の学習指導にかかりきりだった時、自分の思考力の上限が大幅に下がった経験を既にしている。

思考には自分なりのリズム(とスピード感)がある。外部と同調すると確実に引きずられる。僕の場合は、考え事をしている時に脳内で進行中のアイデア抽象化(構造化)作業は、その都度中断されリセットされてしまう。だから、そういう時期には、僕はせめて途中のセーブポイントを作るまでは、誰とも一切口をききたくさえなくなる。これは、一般には逆だろう。多くの方々が問題解決のためにやることは、外部のシャットアウトではなく、その真逆、外部とのより積極的な情報流通だろう。そして、皆でミーティングをしてワイワイ意見を出し合っていれば、そのうち問題は解決されるという安易さこそが、「世間一般」の感覚だろう。僕にはとてもそんなことは信じられない。少なくとも、自分の脳内にある問題の解決において、信じられるのは自分の脳みそだけである。いや、自分の脳みそすら、時に信用に値しない。

もちろん、不得手な専門外の知識を入手するために軽いフットワークでどんどん識者にコンタクトを取って素直に話を聞くことは、生きてゆく上でとても重要なスキルだとは思う。しかし、知ることと解く(ほどく)ことは違う。問題が深ければ深いほど、逆に関わる人数を減らさねば問題は解決できない。深さではなく、大きさがある時は、単純に人手が要るので人数は必要になるだろう。問題が「大きい」とは単に問題の「数が多い」ということである。そして、会議とは単なる意見調整(共有・同調)の場であり、問題解決の場ではない。「皆で知恵を合わせればきっと問題は解決できる」など正気の沙汰ではない。皆で集まると責任の所在がバラバラに剥がされて行方不明になるだけである。独裁者(あくまで心構えの問題)でなければ、アイデアの根っこは捕まえられない。僕のそういう特性は、多分にこれまで(前年度まで)のジェイラボに影響を与えていた気はする。

そもそも、本来ジェイラボを始めた時に想定したコミュニティのイメージは、本音をぶちまけることで「生きにくさを感じている人に生きる勇気を与える」ことだった。そのための皆さんへのアプローチ手段をアレコレ試すうちに、いつしか「生きにくさ」の文言が理念から欠落しつつあるように感じる。いま集まってくれているメンバーは、もちろん「こうでしかあり得なかった」メンバーであるが、強いてバランスを問うなら「能力の高い」人間が集まりすぎた感は、少しある。贅沢な悩みである。いまでこそ「教育系」という界隈に物申すことを、ジェイラボの活動の主目的に含めてしまっているが、本来はもっと各自の人生のコアな部分をさらけ出し共有することこそが、目的であった。市場に決して乗せられないナマの感情をありのままにやりとりできる場を担保すること、マーケティングに塗りつぶされた世の中へのカウンター活動であるという自覚こそが、始まりであった。その「始まり」からすれば、東大京大の入試問題やその他専門科目の学習そのものあるいはビジネス上の学びなども、本当はどうでも良いと言えばどうでも良いのだが、そうも言っていられない実情もある。今後も妥協できるギリギリの線として(ジェイラボを外部の方に知ってもらうための導線作りとして)「教育」的な活動は続けるつもりにしている。しかし、根本にあった「生きにくさ」の共有という理念は、忘れ去られないようにしたい。それが完全に忘れ去られたとき、ジェイラボはいよいよジェイラボではなくなる。

また、コミュニティ内部の話をすると、最もコアなレイヤー限定だが、最近はどうも僕自身がリアルタイムなコミュニケーションの場に露出しすぎではないかとも、感じ始めている。それがメンバー間のコミュニケーションの乖離、偏りに繫がっているような気も、しなくもない。リアルタイムに露出しすぎることは、僕自身にとっても冒頭で述べたような深い思考への導入の妨げになるし、周囲にとってもコミュニケーションの偏りを生む要因となり得る。つまりいずれにおいても真に悪影響をもたらすなら、コミュニティ内での僕の露出は控えるべきという意見もあり得る。しかし、かつてコミュニケーションの絶対量不足にあえいでいた時期からすると、それはあまりに贅沢過ぎる悩みでもある。あるいは、それがコミュニティ内の「限定的な露出」であることが問題なのかもしれない。僕個人の露出は、理念通りに、常に外部に対して完全フルオープン(対称)にするべきなのかもしれない。コミュニティの規模が極小で、コミュニケーションの第一選択が常に僕との「対話」であった時には、メンバーのコミュニケーションにおいて不足こそあれ「偏り」という問題は起きてはいなかったように思う。皆が一つの基準として僕の方をまっすぐに向いていたからだ。少なくとも足並みはそろっていた。もっとも、いまさら「そこ」に戻すべきとも思わない。

答えは出ない。作業を進める。

ここから先は

0字

¥ 200

私の活動にご賛同いただける方、記事を気に入っていただいた方、よろしければサポートいただけますと幸いです。そのお気持ちで活動が広がります。