見出し画像

【資本主義の向こう岸へ泳ぎつくために】僕がゲーム実況配信をしている理由【全文公開】

本記事は全文無料公開しております。価格表示についてはただの字数に応じた設定です。投げ銭とでも考えていただければ幸いです。

『Core Magazine』購読で購読月の有料記事は月額980円で読み放題となります。購読月以外の有料記事は別途購入となります。

いい歳したおっさんがゲーム実況配信をしている。

バカな。何をやっているんだ。幼稚か。政治経済についてプロフェッショナルであることが、いい大人がやるべきことだ。お金を稼ぐ方法こそが、最高の情報だろう。ゲームなんてやってて、恥ずかしくないのか。

まあ、一般にはそう感じるだろうと思う。でも、僕はとっくにそんな世界からこぼれ落ちて、はみ出してしまった。お金など、たぶん一兆円稼いだって、僕はそれだけでは幸せにはなれない。正確には、僕にとってそれは幸せとは無関係だとわかっている。お金がないことは、確かに、不幸と一定の相関性があることは認める。そういう消極的な意味で、現代社会ではお金には一定の意味は、ある。しかし、お金が「ある」ことは幸せとは全く関係がない。そんなこと稼いでから言えよ、と言われてもその気がないのだから知ったことではない。欲しいのは物質ではないし、もっとはっきり言えば、そもそも欲しい「もの」など何もない。

自由な心を持って生き、そして、納得して死にたい。それだけだ。納得とは何か。そんなこと聞かれても、全くもってわからない。しかし、納得したいという感情は在る。強いて言うなら、ただ魂が命じるもの、という稚拙な表現しかできない。ゴーストのささやきと呼んでも構わない。

ゴーストがささやくのだ。この社会の成れの果てを知るには、仮想空間との親和性を保ち続ける必要があると。

これからの時代は、プログラミング教育が大切だ、などとよく言われる。しかし、言っている本人たちは、本当に意味がわかっているのだろうか。

プログラミングをかじっておけば、手に職がつく。就職に有利である。起業ができる。現代社会の必須スキルである。それは結果論であって、本質ではない。プログラミング教育が大切なのは、人間が自らの神経系(脳)の上に構築してきた情報空間(知識体系)というものがあり、それはいまや脳のさらに外部へと延長されているわけだが、その生物としてのヒトの拡大、その根源に関わるのが情報学だからだ。

目先として食い扶持のためにプログラミングを学ぶ。確かに、個人レベルでは現状そういう目的を持ったとしても仕方ない部分はあるだろう。しかし、社会、国家のレベルでの教育は、個人レベルとは異なるもっと大きな枠組みを持っておくべきだ。

現代の若者は、若者の定義にもよるが、まあほぼデジタルネイティブと言っても差し支えはないだろうし、これから生まれ育っていく子供達は、間違いなくデジタルで育つ。

人類が今後アナログに回帰することは、アポカリプス(現代社会の終末)でも起きない限り、あり得ない。社会そのものが既に根っこからデジタルに補強されているため、いまさら土台を引っこ抜くことは不可能だ。であるならば、これからデジタルネイティブの見るであろう夢に対する想像力なくして、人類の未来など見るべくもない。

僕がいい歳をした今でも定期的にゲームをプレイしているのは、もちろん、ゲームをプレイするのが大好きという前提はあるが、しかし、デジタルネイティブの体質を維持するというもっと明確な目的がある。こういう「身体感覚」は思考力で補うことはできない。僕がゲームをプレイしているのは、ある意味では武道の鍛錬と似た行為であるということだ。来るべき時代に適応した身体性を保つのに、ビデオゲームほど適したものはない。もっとはっきり言えば、ビデオゲームへの没入が適わない人は、今後訪れるであろう「真のデジタル社会」への適性を既に失っている。

真のデジタル社会への適性は、デジタルを「語れる」ことではない。デジタルを「生きられる」ことだ。「デジタルネイティブとは何か」をいくら言語で語ることができても、デジタルネイティブにはなれない。デジタル「で」生きることでもない。デジタル「を」生きること、それが真のデジタル社会へとつながる。

もっとも、僕は2020年現在においてビデオゲームがその最前線であると感じているからこそ、ここに自らの「生」を一定量割いてはいるが、いずれビデオゲームは映画その他の映像文化を取り込むだろうし、果てはビジネス上のツール、アプリなども取り込むだろう。そうなれば、ビデオゲームという概念は別な何かになる。

また同時に、そんな社会では、デジタルとの親和性を持たない層とデジタルエリート層の二極化が進む可能性も高い。そこは時代移行に際しての制度設計にかかっている。失敗すれば二極化が進み、同じヒトでありながら、人間であるヒトと人間ではないヒトが分離してしまうだろう。非常に奇妙な話ではあるが、そんなことが起こってしまえば、その二種類の人間は互いに意思疎通を行なうことすら困難になるだろう。同じ言語を持っていても同じ身体を持たなければ、意思疎通は行なえない。ヴィーガンとヴィーガンでない人が意思疎通を行なえないのと似ている。身体感覚のレベルで感じているものが違うとき、その溝は論理(言語)では埋まらない。ライオンが言語を話しても、ライオンと全く異なる食性を持つヒトにはその言語を本質的に理解できないだろうという「言語ゲーム」の概念を持ち出せば話が早いだろうか。余計わかりにくいだろうか。

というわけで、僕は思考力としてではなく身体的な意味でのデジタル適応力を維持するために、日常的にゲームに触れるようにしている。ついでに言うと、ゲームライブ配信の「実況スキル」は、前時代の「営業スキル」に置き換わるものとも感じている。

インターネットによって、前提としての情報の非対称性がある程度解消され、中間もなくなりつつある時代に、前時代的な営業をそのまま引き継いで担当するのは、広告表示を管理するAIだろう。しかし、僕はそもそもの、そういう「ビジネス」の在り方自体に疑いを持っている。要するに、資本主義も次の段階へ移行すべきだろうと感じている。

詳細は別な論考に譲るが、要諦だけを書いておくと、お金という「顔のない」通貨を「顔の見えない」者同士で交換するという仕組みに問題がある。僕はそう感じている。顔の見えない「大衆」からごっそりと手数料を徴収することがそもそも可能であるという仕組みが、既に間違っている。たとえばIT(情報技術)で言うなら、本来人間が労働として行なっていた一定の労力をコンピュータで置換したことで、労働者の頭数によらず一気にエネルギーを集約することが可能になったわけだが、あたかもその価値の全てを権利者(アイデアを出した者)がひとりで生み出したかのごとく、資本主義というシステムに誤認識させることで莫大な利益を一手に集約することが可能になっている。情報技術は資本主義をさらに拡大した。しかし、それはおかしい。古典的な意味での資本主義も問題はあると思うが、こと情報集約において、アイデアを生み出すこととコンピュータが実際の労働(エネルギー)を生み出すこととは、エネルギー的にまるで等価ではない。もし価値を生み出している労働(エネルギー)に対して対価を支払うというのであれば、権利者(アイデアを出した者)ではなくコンピュータに対して支払うべきだ。しかし、当たり前だがコンピュータは人間ではない。だから、ルールがなければその対価は権利者へ向かわざるを得ない。つまり、コンピュータ(広義には単に情報技術)を用いてエネルギーを集約することについて、人類はまだ新しい価値体系(ルール)を作り出せていないため、その抜け穴に手数料という罠をしかけることによって、今日の手数料地獄社会が生まれているのだ。そう、これは植民地貿易と同じ、早い者勝ちの穴なのだ。これについては、「人間そのものの植民地化」というキーワードで『Feel different』シリーズの続きで話す(既にちょっとだけ話したが)予定にしている。

システムの改革そのものの話はあまりに長くなるので一旦置くが、その突破口となるのが、僕は「お互いを認識して(顔を見て)交換が常には成り立たないがその場では意味のある(顔の見える)価値を交換する」という極めて私的で個別的な行ないにあると感じている。現状、まだまだ手数料の概念を排除しきれないのはやむを得ないが、そういう意味で、たとえば、少人数ライブ配信におけるいわゆる「投げ銭」は、マス視聴者から得る広告収入よりは意味のあるものだと感じている。ただ、もっと言うなら、「投げ銭」は投げる側もその身を、少なくとも配信者に対しては晒すべきである。そうでなくては、ストーカー行為の延長としての投げ銭行為を抑止もできなくなるし、そもそもの投げ銭行為自体が、善意ではなくストーカー的動機を初めから含んでしまうことになる。

だから、僕はこのnoteのサークルで運営しているコミュニティで、わざわざ実際に「顔を見て」身分を特定した上でつながっている。

わかるだろうか。金をくれるならまず顔を見せろ。そういうことなのだ。前時代的なビジネス感覚からはおよそズレている。金を払う側もリスクを負え。あべこべに感じるかもしれないが、それが処方箋なのだ。僕は、どこの誰がくれたかもわからないお金など欲しいと思わない。そういうお金が回り回って格差社会を生んでいるからだ。だから、金をよこすならお前こそが顔を見せろと言いたい。そしたら、顔を見て面と向かって感謝してやる。その、ある種原始に捨て去ったはずの「直接性」という価値観が、情報技術の進化によって改めて価値を帯び始めてきている。僕はそう感じている。

そのサイクルを作るためには、そんなつながりを認め合った小規模なコミュニティ(共同体)が必要である。そのコミュニティを作るには、そのコミュニティを外部に伝える手段(メディア)が必要で、その一つとして動画(配信)というのはかなり重要な位置を占める。そして、そこで求められるのは、論理ではなく共感(感情)である。だから、ライブ配信実況スキルが必要なのだ。

自分の都合で作ったストーリーを一方的に喋るだけの動画では、リテラシーある視聴者に対してそこまでの共感を作り出すことは不可能だし、そもそも自分都合の話を一定の分量伝えるには、動画よりテキスト(文章)の方が向いている。テキストを読めない(リテラシーのない)大衆は置き去りになるかもしれないが、動画は、ひとえに感覚のみを伝えるためのものだ。ゆえに、動画は、感覚に素直なコンテンツにした方が良い。そう気づいた。元々、魂を込めてコンテンツ制作することを心掛けてはいたが、より直感に寄せるため、僕は動画制作からライブ配信に方針を切り替えた。

もちろん、教育的に価値あるコンテンツを動画として提供することに意味はある。動画自体に価値がなくなったと言っているのではない。いま僕がしているのは、コミュニティ(共同体)を維持運営するという立場からの話である。誤解なきように。

以上を総合すれば、僕がなぜ視聴者もほとんどつかないゲーム実況配信をしているのか、おわかりいただけるかと思う。わからなければ、何度も繰り返し読んで欲しい。

お互いに顔の見える関係。そこが「始まりの地」である。

ここから先は

0字

¥ 400

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

私の活動にご賛同いただける方、記事を気に入っていただいた方、よろしければサポートいただけますと幸いです。そのお気持ちで活動が広がります。