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ワークショップ「所長所感」 - 第10回[20200608-0614]『予想通りに不合理』

僕は「経済学」というものにはかなり不信感があって、あまりまともに勉強したことがない。勉強していないのにグダグダ文句を言うのはどうかとも思うが、素人の率直な意見として、感じていることをそのままここに書き残しておく。

哲学的なゼロベース思考を中心に据えていると、経済学の思考方法はあまりに仮説に過ぎて、かなり強い拒否感を覚えてしまう。ある箱庭の中から、熱力学的な情報流通のシステムを取り出せば、それは経済学的な理論になるのだろう。もっとも、我々が箱庭に住んでいることもまた事実ではあるので、意味がないわけでは全然なく、それどころか、むしろ数ある学問の中でも最も我々の生活そのものと直結した学問と言えるかもしれない。問題は我々の生活する箱庭は本当にユニバーサルなのかということだ。そこが揺らぐなら経済学もまたユニバーサルではあり得ない。

僕の中には経済学に対する不信感が、根強く存在する。それは、たとえば「ノーベル経済学賞」という賞の通称を「流通」させている「マーケティング」にも見て取れる。この賞はノーベルの遺志に基づくものではなく、正式名称は、英訳では、

"The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel"

であり、和訳においては定訳はないが、

「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」

などである。ノーベル本人の遺志に基づかないのに、ノーベルの名を冠して権威付けをするのは無理があるし、僕のような素人からすれば「スウェーデン銀行経済学賞」で良いだろうと感じる。せいぜい許せて「ノーベル記念経済学賞」だ。「記念」は外してはまずいだろう。もっとも、本家のノーベル賞自体にいかほどの価値を認めるかも、人によって様々であろうとは思うが。

なぜ、いま、わざわざこんな話を持ち出しているかというと、もちろん経済学という学問への不信感の一例として引いているだけである。実際、「ノーベル経済学賞」受賞者の理論が、受賞者の範囲内でも矛盾して対立することもしばしば、ある。サムエルソンを引いて権威付けされた理論が、ブキャナンを引いて反駁される。そんな光景があり得る世界、それは非常に奇妙な世界である。矛盾を内包しようが、そんなことはあまり関係がないらしい。理論の一般性(統一性)というよりは、時代への貢献度の評価が授賞理由になっているのだろう。だからひとしきり「寝かせた」上で授賞というケースが多いのかもしれない。そもそも、経済学とは「そういうものだ」と言われれば、確かにそれもそうなのかもしれない。しかし、純粋な理論の一般性ではなく貢献度を授賞理由にされてしまうと、僕のような素人には混乱の原因にしかならない。研究者でもなければ歴史的文脈への深い造詣など興味がないし、理論という本質しか頼るものがないからだ。理論的一般性(ユニバーサルであるか)だけで価値判断できないのは困る。やはり経済学は好きにはなれない。

そんな中で、今回の課題、「行動経済学」である。ただでさえ胡散臭い「経済学」に、輪をかけて胡散臭い「心理学」を混入させてしまった。なんと胡散臭さ極まりない学問か。しかし、胡散臭さも度を越せば何らかの「意味」を提示できるのかもしれないとは思う。僕自身はあまり「行動経済学」というものをまともに勉強する気にはなれないが、食わず嫌いせずにその研究成果を知ることは、その限界を知る上で重要であろうとは思っているし、ずっと気にはなっている。

そこまで説明した上で、さて、課題である『予想通りに不合理』を読むと、「予想通りに」非合理であった笑 不合理ではなく「非合理」である。合理的であろうとして合理的でない(不合理)のではなく、単に初めから合理がない(非合理)のだ。その理由は、思考のゼロ地点、前提が明示的ではないということに尽きる。「常識的な感覚」というふんわりしたものを前提として語られるので、僕のような「非常識」な読者は前提を共有することができず、実感が全く伝わらない。「ノーベル(記念)経済学賞」受賞者であるミュルダールという経済学者も、同様の意見を述べている。手元の翻訳資料による孫引きになるが、少し引用してみる。

価値前提は明示的に述べられるべきであり、暗黙裏の想定として隠されてはならない。価値前提は、実体の価値評価に必要とされるに十分なほど、明確、かつ具体的に、事実に関する知識の形で述べられなければならない。それらは、事実のみに基づいているとか、「当然のこと」のみに基づいているとして先験的に自明のものとか一般的に有効であるとかいうことはできないので、目的意識的に選択されなければならない。このように、価値前提は、研究における意思選択的な要素であるが、それはあらゆる目的的活動に必要とされるものなのである。それゆえ、意思の傾向が異なる可能性がある以上、価値前提は、仮説的なものでしかない。

これは科学全般においても一定のレベルまでは当てはまるであろう、そもそもの学問の限界ではあるが、経済学という「実験」的要素の強い「応用」数学的手法には、特にその「限界」が効いてしまっている気がする。

仮説に過ぎないものを真実であるかのごとく語る語り口が拒否反応を起こす原因になるのであって、「いや、これ、仮説なんだけどね」という態度が常にあれば、僕のような非常識な人間にも一定の熱意は伝わるはずではある。しかし、この手の「心理」に寄せた「語り」では、およそそうした態度を見たことがない。

一応行動経済学の主張を少しだけ擁護してみると、あくまでも「ヒューリスティクス」として日常をモデル化する理論にとどめるにおいては、確かに一定の「利便性」はもたらされるとは思う。単純化に過ぎるかもしれないが、役には立つだろう。そう、経済学とは確かに「役に立つ」学問である。なるほど、そうか。僕は役に立つことにあまり関心がなかった。

本の内容に入る前に、前提で大きく躓いてしまう、そんな僕は、「予想通り」の読者ではないのだろう。この本は「予想」を語っているのだから、本が悪いわけではない。

『予想通りでない非合理』

なるほど、これではベストセラーにはならない。なんとも不合理な所感を書いてしまった。

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