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ワークショップ「所長所感」 - 第17回[20200727-0802]『ひとり』

かつては、「人前でひとりでいることが恥ずかしくて耐えられない」という空気の支配が、日本にはありました。嘘だと思うでしょう? ありました。でも、いまはそんなことは、ほぼなくなってきていると思います。時代は「当たり前」をある程度許容してくれるようになりました。わざわざ「ひとり○○」なんてことを自意識過剰にアピールして言い聞かせなくとも、ひとりで何かをやるということは、むしろ格好良いまで「ある」時代になりました。

元々、日本人、日本という国が持っていた文化というのは、特に「身体性」に根ざしたもので、理屈ではないというのは常々話してきましたが、それゆえ「無条件に」周囲と空気感を共有し同調するということも、それなりに文化的価値を持ってきました。その「美しかった」はずの文化は、いったん焼け野原にされ、そしてここ十数年でかなり違った形で再生されつつあると思います。

人間は社会性を持った生き物ですから、もちろんひとりでは生きてゆけません。そういう意味で、「人間」の本質はひとりであることではない思います。しかし、「人間」なんて知ったことか、自分は「自分」とこそ向き合うのだ。そういう人にとっては、「ひとり」であることこそが人間の本質です。「ひとり」であることは他者も包含しますから。

自己と他者。どちらが上位概念、どちらがより根源的概念なのか。

意味付けの仕方によってはどちらとも言える気はしますが、基本的には自己も他者も同じものの裏表であり、さして違いはないように思います。ただ、より本質の洞察につながりやすいのは自己の方だろうとも思います。

そもそも、本質なんて言葉をいま使っていますが、「本質って何やねん」という話で、できるだけ思考のゼロ地点に根ざした考えを展開しようと思うと、結局自己をスタートにせざるを得ないというのは、まあある程度は共感してもらえる気はします。

つまり、他人を研究して自分の生き方を模索するより、自分を研究して他人との付き合い方を決める方が、話が早い。

それだけです。どちらが良いとか優劣を決めるようなことではなくて、どっちにしても裏表両方から吟味する場面はいつか出てきますから、単純に初手の打ち方として、自分と向き合った方が話が早い。

他人を気にする。他人とは何か。家族。恋人。親友。知り合い。同僚。上司。ただ近くにいる人。どのレベルまで気にするのか。なかなか面倒臭い。それよりも、毎日24時間ずっと一緒にいる自分と対話した方が話が早い。

僕は、幼い頃から、ずっとそうしてきました。それは、周りの人間と話が全く合わないという自分の意志によらない環境強制力も大きな要因であったと思いますが、結果的に、常に周りとは一定の距離(疎外感)を感じ続けて生きてきました。それでも、たくさん友達は作りましたし、恋人もたくさん(?)作りました。しかし、結果、いま真に人生の意味を共有できていると言えるような伴侶や友人と過ごしているかと言うと、そうでもありません。表面上「いい感じ」に人と付き合うことなど、ちょっと頭を使えば誰にでもできることで、それとこれは話が違います。

ひとりでいることって何だろう。

そういうことを考えられる人というのは、おそらく、ひとりでいるか誰かと一緒にいるかということが「選択できる」という世界の住人なのかなと思います。

僕は、「人間は本質的にひとりでいること以外不可能だ」と感じているので、そういう選択肢はあまり感じたことがありません。ひとりでご飯を食べに行く。友達とわいわいご飯を食べに行く。ひとりだと必要な情報をコントロールできる。他者とコミュニケーション空間を共有していると、情報入力量がアンコントローラブルになる。そういう違いがあるだけです。それが、ひとによっては煩わしく感じるのでしょう。あとは、前時代的ですが、「ひとりでいるのが恥ずかしい」という感覚。これは僕は全く感じたことがありませんが、いまでもそう感じる人は一定数は存在している気がします。大丈夫。あなただけじゃない。人間はそもそも皆ひとりです。

そんなこんなで、基本的に、ひとりが好きも嫌いも良いも悪いもなく、人間はそもそもひとりだと言ってしまえば、話はそれまでということです。

それでも、ひとりでいること、孤独について、そういう内容の言説はたくさん見かけます。ライトな自己啓発系のビジネス書ですらそういうものはたくさんあります。

人間は初めからひとり。社会性という幻想を保つために、様々な組織に属し、様々な権威を引用し、我々は生きています。その幻想にどこまで浸るか。その程度は自分で決めましょうということです。

一切の幻想を断ち切ると、仙人化して誰とも意志の疎通が図れなくなりますし、幻想中毒になると、自分の身体が社会の要請に全面的に置換され外部刺激への単純反応装置として生きてゆくことになります。もっとも、そもそも、本当にただの環境反応ではないオリジナルな自分の自由意志なんてものがあるのかなどということを問い始めると、さらに話はぐるぐるします。

僕は今日も元気にひとりです。

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