見出し画像

VTuberは絵畜生か

『Core Magazine』購読で購読月の有料記事は月額980円で読み放題となります。購読月以外の有料記事は別途購入となります。

ネタとしては全く新鮮ではないが、「VTuberは絵畜生」という表現が少し前にその界隈でだけ話題になった(らしい) 詳しくは知らない。「生身」での配信に一定の自負を持つ、とある配信者が「アバター」での配信をベースにするVTuberに対して放った発言である。

僕は、アンテナの張り方が甘く、リアルタイムにはその状況は知らなかったのだが、普通に考えてVTuber側としては、喜びこそすれ、怒る発言ではないはずだ。そこに「怒る」VTuberは、VTuberとしての本質をまるで理解せずに何の実感もなく活動をしているのだろう。いや、実感などないのがVTuberの本質ととらえるなら、当然であるのかもしれない。

VTuberというのは、「アバター」と呼ばれる「グラフィック表現」を擬人化して、そこに声をあてて活動している、動画制作者、動画配信者のことである。究極までいけば、いずれ声も完全に「擬人化」される時代は来るだろうし、同時通訳まで行なうアプリ(既に一応存在はする)が実用に耐えるレベルになれば、言語文化圏すら超えるかもしれない。現状、VTuberというのはグラフィックによるアバターを利用しているという意味しか指さないが、大きな視野で見れば、今後、何らかのコンテンツに混入する「人間性」をデジタル化してゆくという方向性は、疑う余地のない、当たり前なことである。

「絵畜生」という言葉は、発言者による「対抗意識」を多分に含んだものであり、発言者の意図として多少の「ディスり」要素はあったのかもしれない。しかし、再現可能な「デジタル絵」は完全な「擬人」表現であり、直接的な「身体」表現ではない。だから、強い身体性を感じる「畜生」という表現が想起されるのだとしたら、発言者はその「デジタル絵」に何らかの「身体性」を感じているということだ。つまり、VTuberからすれば、擬人でしかない「デジタル絵」に、まんまと「生身」を感じさせることに成功しているということだ。だから、繰り返すが、これは喜びこそすれ、決して怒りを覚えるようなことではないはずである。にもかかわらず、VTuber側はどうやら一定の反発を感じたようである。

おそらく、VTuberの中の人自身も、もはやある意味で「擬人」つまり古典的な意味での人間を逸脱し始めているのだろう。人間を全体(アナログ)として判断する価値観を持たず、人間を一面的属性(デジタル)で判断することが習慣化している。それが、日常的にアバター活動していることとどれほど相関性を持つかは定かではないが、決して無関係ではないだろう。日常的な身体感覚を薄めるカタチの何らかのフィードバックは、きっとあると推測される。だからこそ、その身体感覚の薄さに、生身の配信者からの「絵を隠れ蓑にしている」という反発を生む隙を与えるのだろう。しかし、まさにその「絵を隠れ蓑にしている」ことこそがVTuberの持つ最大の可能性であるという自覚が、本人達にはないらしい。

VTuberは、間違いなく「コンテンツの未来」の可能性に大きく関わっている。問題は、おそらくそうした配信者をマネジメントする組織にある。単なるビジネスの視点だけで組織を導くなら、VTuberはいつまで経っても、せいぜいが「絵畜生」止まりである。僕は、VTuberには人類を一段階押し上げる存在になって欲しいと願っている。そもそも「デジタル絵」は本質的に身体性など持たないのだ。「絵畜生」という表現は、ある種の「褒め言葉」としては存在し得るが、「絵に描いた餅」と同程度の空疎な表現であり、本来身体を持たぬ神様を現世の生身に縛り付ける表現である。「デジタル絵」は人々の見る「夢」なのだ。実体などない。どうせなら、VTuberには「夢の中」でだけ交信できる存在として、人々に救いを与える神様、教祖様、そんな存在であることに強く「自覚的」であって欲しいと願う。そして、それは何の知性も教養も経験もなく体現できることではないということを、特に運営者には理解して欲しい。ビジネスの文脈でただ消費し尽くしてしまうのは、もったいない。

そして、いつか、全人類はみな夢の中で眠りにつく。

おやすみ、人類。

----

なお、この記事は全文公開しているが、VTuber風に投げ銭価格を設定しておく。

ここから先は

0字

¥ 100

私の活動にご賛同いただける方、記事を気に入っていただいた方、よろしければサポートいただけますと幸いです。そのお気持ちで活動が広がります。