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擬似電脳社会、下から抗うか?横から受け入れるか?【全文公開】

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人間はウェブと直接接続(電脳化)されているのか。まるで、攻殻機動隊のような世界観だが、僕は、わりと真剣にそれに近づいていると感じている。いまだそれは擬似的なものではあるが、一定のポジションは取っておいた方が良い。

少し昔話をしよう。

僕はテレビゲームと共に人生を歩んできた。「テレビゲーム」という日本語の受け持つ領域は、いま「ゲーム」という日本語が指し示す領域より狭く、文字通りテレビにつなぐゲームという意味である。僕の世代は、物心ついた頃にテレビゲームが存在していたギリギリくらいの年代である。僕より上の世代は子供の頃にテレビゲーム体験はしていない。僕より下の世代だとテレビゲームこそが遊びの中心だったはずだ。僕は「山で虫を捕まえ川で魚を捕まえ」しながら、「家ではテレビゲーム」をしていた。そういう「アナログとデジタル」あるいは「自然と人工物」の遊びが混在した幼少期を過ごしたわけである。いまでこそ敢えてアナログな遊びに原点回帰する愛好家もたくさんいるが、「敢えて」ではなく、普通にそれらが混在した時代を過ごした。

まあ、当時のテレビゲームと言えば、デジタルというよりむしろアナログと言っても良いような、デジタルへの没入以前の操作のアナログさが遊びの輪郭を決めていたような、そんな原始的なものばかりではあった。高橋名人の16連射がその良い例である。ドラクエの復活の呪文を、目を皿にして何度も確認しながらメモした記憶がいまも蘇ってくる。ちなみに、ドラクエと言えば、ファミコン版の3のセーブデータが消えまくった記憶が印象に残っている。僕が買ったロットは特によく消えた、つまり初期不良品だったようで、購入店舗にて無償交換してもらった。それでも稀に消えた。いまなら商品のレベルに達しているとはみなされないであろうひどい代物である。当時はそんなものかと思いながらビクビクプレイしたものだ。その辺も自然と触れ合った世代であることは影響しているように思う。

自然の遊びでは期待される当然の結果が出ることなど稀で、虫は捕れないことが多いし、魚なんて捕りに行った日には、魚を捕るどころか、うっかり深みにはまって、逆にこっちが死にかけたりしたものだ。だから「セーブデータが消えました」とか言われても、当時は「そんなものか」という以上の感覚がなかった。

僕は、いい歳こいたおっさんだが、脳の活性化という名目でいまも一定の頻度でゲームはプレイしている。いまは、ちょっと忙しいのと魅力的なタイトルがないのとで、あまりやっていないが、テレビゲームとの関係は今後も一生続くだろうことは間違いない。

僕が子供の頃、テレビゲームは完全に悪者だった。僕の親の世代が子供の頃、「それ」は存在していなかった。自分に理解できないものは「悪」という、ありがちな思考停止により子供にゲームをさせるなという機運はなかなか高かった。少し時代は後になるが、「ゲーム脳」なんていうトンデモな造語も作られたりした。あれは、ヒドかった。何がヒドかったかは、知らない方はグーグル先生にでも聞いて欲しい。とにかく、僕が子供の頃に「いい大人の趣味として恥ずかしいもの」「子供にとっても有害なもの」で「いい大人」が挙げるツートップは、ゲームと漫画(アニメ)だった。いまは、そうした世代が社会の担い手になったこともあり、そういう偏見は減った。減ったどころか、むしろ一周回って、オタク文化の方が先を行っている感すらある。もはや漫画は数多くある表現の一手段に過ぎないし、ゲームも表現手段ないしコミュニケーションツールの一つとしての地位を築いたと思われる。

漫画もゲームもそれ自体が悪であることは、絶対にない。

ただ、勉強教える人っぽいことを言うなら、受験生にとってはやはり要注意ではある。早い話が、漫画もゲームも中毒性が高い。それでも漫画は読み終えてしまえば終わりだが、ゲームは「終わりがないのが終わり」みたいなところがあって、プレイ時間を計画的に管理することが非常に難しい。さすがに、僕くらいのいい歳になってくると、いまやるとヤバイなというときはやらないでいることを覚えたり、そもそも仕事の都合で強制的に時間の制約を受けたりするので、それなりにゲームとの付き合い方、距離感はわかってくる。しかし、若い受験生がちゃんとコントロールできるとはとても思えないので、単純に受験期間中はゲームはやるべきではないかなというのが、現状の僕の意見である。かつて、僕が親に言われたようなことを、いま自分が受験生に言うのは心苦しいところもあるが、それで失敗する生徒が多いので、言わざるを得なくなっている。

ゲームというのは、リアルでの対人関係がなくても成立する娯楽なので、時間の制限を受けずにいつまでも続けられたりする。それが、時間を浪費させるわけだ。時間の感覚なんてあるはずもないプログラム相手に、延々暇つぶしができてしまう。受験生にとって最もヤバいのはスマホゲームだろう。ヤバさは僕が説明するまでもなく、ハマっている人は自覚しているはずだ。ちゃんと自分でコントロールできるようになって欲しいとは思うが、無理なら絶対に封印した方が良い。

僕も、以前、一体何が面白くてそんなに時間とお金をつぎ込むのか調査する目的で、面白さも感じていないスマホのゲームを継続的に二週間ほどやってみたことがある。結果、重課金者になりかけた。ミイラ取りがミイラになりかけたわけだ。それほど、依存性が高いし射幸心を煽られる。ゲームの世界観というのは、ファンタジー路線であれリアル路線であれ、感性が合わなければ全く興味は湧かないと思うが、いったん受け入れてしまうと、果てしなく引きずり込まれる。

では、ようやく「擬似電脳」というテーマに入っていこう。

そもそも、まず、ゲームとか関係なくもはやスマホ自体が、SNSを筆頭にネットワーク接続されることによるリスクを大いに含んでいる。だから、ただスマホを利用しているだけで、リスク管理の概念は発生する。どんなインターフェイスであれ、トラフィックの出入り口には、絶対にセキュリティ対策が必要なのだ。あまりにも認識していない人が多いので、注意を喚起しておきたい。ネットワークに接続することのリスクは、スマホやPCのソフトウェアないしハードウェア接続環境の問題だと認識している人が多いが、それだけではない。

意味がわかるだろうか。

繰り返しになるが、ネットワーク接続のセキュリティ対策と言えば、単に機械やプログラムの問題だと思っている人が多く、だから、セキュリティソフトをインストールして、有線無線にかかわらずとにかくネットワーク接続状態を監視することが対策だと認識されている。それはもちろん当たり前のことだ。でも、それはデジタルレベルまでのセキュリティ対策ではあるかもしれないが、自分自身の生身のセキュリティ対策にはなっていない。

生身の自分自身もネットワークに接続されていることに気づいている人は少ない。

現状(2019年)では、直接脳の電気的活動に有線、無線で通信接続する一般化された技術はない。いずれ実現する可能性はあるだろうが、実はそういう問題ではない。皆さんが「インターネットをする」という言葉を使うとき、何を指しているだろうか。インターフェイスを介して、インターネットに接続し、情報の伝達を行っている状況を思い浮かべているはずである。目で画面を見て、あるいは耳で音を聞いて、情報を脳に入力する。そして、手でキーボードを叩いたり、マウスを転がしてクリックしたり、スマホをタップやフリックしたりして、脳内情報をデバイスに出力する。声に出して音声認識で情報出力することもあるだろう。

明らかに、脳に情報を出し入れしている。

これが接続でなくて何なのであろうか。ただ、この辺の感覚はおそらくインターネットネイティブの世代と僕くらいの世代では少し違うと思われる。僕やその上の世代にとっては、インターネットは当たり前に存在している「自己の延長」ではない。けれども、ネイティブな世代にはそういうインフラを「作られた人工物」と感じる感覚がないようだ。

ネイティブ世代は、ツイートすることやインスタグラムに写真をあげることを内部的なものと感じているのだろう。だから、そこにネットワーク接続されているという特別な認識がない。しかし、本来はインターネットに限らず、電話、手紙、会話、あらゆるコミュニケーションは「接続」である。普通に面と向かって人と話すのも「接続」である。口車に乗せられたり、洗脳されたり、様々なリスクがある。

人類が「言語」を発明して以来、様々な場面で人による人のハッキングは行なわれている。だから、たとえば、人に騙されたりしないように、詐欺にあわない方法をパターン化したり、対人コミュニケーションにおけるセキュリティ対策も行われている。他にもたとえば「カリスマ」なんて、見方を変えれば、ある種の「ハッカー」である。

冒頭で何故、虫捕りやテレビゲームの話をしたかというと、僕にとっては、虫を捕りに行くときの自然というのは明らかに外部世界であって、だから、同時に行なっていたテレビゲームも外部世界と感じる感覚があったからだ。つまり、僕にとってはコンピュータを介して行なうすべての行為が、虫の住む森と同じ「外部」として認識されていて、しかし、そこに自分の「脳」という内部が外延されていることも同時に感じていて、だからこそ、そこにかなりの危険性も感じている。面と向かった一対一ではなく、一対多もしくは対人関係が不在な一対無(プログラム相手)であることが特に恐ろしい。

一対多もリスクが薄められていることにサブプライムローンのような危うさを感じるが、一対無は本当に恐ろしい。プログラム(AI)相手だと危険性に上限がない。

ここに危険性を感じない人が情報弱者ということになる。プログラム相手と言っても、いまのところはプログラムを作っているのは人間である。人間が目的を持ってプログラムを作っている。スマホゲーやSNSで時間を無為に「浪費する」ことは「搾取されている」ことと同義である。僕はスマホゲーなどのアプリやSNSを否定しているのではない。僕も便利なアプリやSNSは、現に利用している。リスクを管理して適切に利用しないとダメだと言っているに過ぎない。

あまり良い方法はないのだが、一応対策を挙げておきたい。インターネット、特にスマホを介した「接続」によって自身がハッキングされないために一番大切なこと。

それは、常に距離感を確認することだ。情報の入出力を無意識に処理しない。それは内部処理ではなく外部との接続なのだ。ファイアウォールを設置すべき最終防衛ラインがどこにあるのか見失ってはいけない。哲学的な意味ではなく生物学的な意味で「自我」つまり「恒常性」を保つためには、内部と外部の明確な線引きが必要だ。線引きがなければ自我は融けて消える。

例えば、毎日毎日ほぼ一日中Twitterを利用し続けていると、そこに限りなく現実感が付与されて、それが生活の全てのような錯覚に陥る。スマホゲーをしていると、ちょっとした隙間時間でもレベル上げをしようとか、期間限定イベントだから参加しなきゃとか、本当は全くどうでもいいことなのに、現実感があまりに強すぎて、架空世界からの強迫観念に抗えなくなる。

オンライン上の仮想空間と自分が生きているオフラインの生身世界との間には、常に一定の距離感を感じておく。オンラインとオフラインを連続的に処理しない。その上で、オフラインにいる自分にとって、オンライン上の活動がどれほどの価値を持つのかを確認して欲しい。まあ、これができればそもそも中毒にならないわけではあるが。

そのオンライン活動は、他人にも堂々と説明できるだけの価値を持っているか?

家族に説明できるか?

先生や上司に説明できるか?

必要性をリアルな場で公表できるか?

100万円課金する。一日中気になってチェックせずにはいられない。そういったことに「価値がある」と堂々と説明できるのなら、やれば良い。止める理由がない。そこまで言えるのなら、それはもはやただの仮想空間ではなく現実世界の一部になっているということだ。しかし、もし他人に価値を説明できない、あるいは躊躇するのであれば、やはりそれは自分でも良くないと感じているということである。よくよく考えるとそこまででもないと感じるなら、即刻制限をかけるべきだ。価値がないとわかっていながらも制限をかけることができないなら、それは中毒である。身近な人にパスワードでロックしてもらって必要な時だけ解除とか、勉強や仕事をしているときは別の部屋に置いておくとか、「そこまでやるか」ということをやらないと、中毒症状は抜けない。そして、その程度の中毒症状は、一旦抜けてしまったら「嘘のように」どうでもよくなる。ただ、自分でこれをやるのは難しい。誰かに協力を求めないと手遅れになることもあり得る。

もう一つ。

中毒というほどではなくて、ほどほどにうまくSNS利用できていると思っている人も、他人事だと思わない方が良い。距離が保てていると思っていても、自分のSNSがほんのちょっと炎上してさらされたりすると、途端に距離感を見失って我を忘れてしまう人が多い。つまり、いまちょうど良い距離感でSNSと付き合えていると思っている人も、それは自分の意志で距離感が保てているというより「たまたま」である、つまり潜在的中毒者である可能性が否定できない。だから、いま問題がなくとも、常に外部と「接続」しているリスクは意識しておくべきである。

繰り返す。

インターネットは「現実」ではあり得るが、内部ではなく「外部」である。

僕が子供の頃からすると、想像もできなかったほど便利な世の中になった。はっきり言って、僕が子供の頃にこの環境があれば、いまと全く違う人生があったと断言できる。僕は懐古主義者ではなく、昔の方が良かったなどとは全く思わない。いまの時代に生まれた若者が素直にうらやましい。しかし、便利になったと同時にものすごく面倒くさい世の中になったことも実感する。自分に関する情報は自分で管理して守ることが求められている。誰も守ってくれない。そして、重要なことを念押ししておく。

そこに関する教育は、現状全く存在しない。

理由は明白である。教育する側の(いい歳の)人間が、それを一番わかっていないからだ。情報リテラシーは自己責任で身につけねばならない。厳しい時代である。

しかし、ここまで話を進めておいて本当に申し訳ないのだが、最後にこれまでの議論全てをひっくり返す問いかけを置いておく。

そもそも、インターネットとの接続に明確な線引きを持たないことで人類が「自我」を融かすことは、悪いことなのだろうか。リテラシーによって自我を保つのではなく、シェアによって人類が一つに融けあっていくことは進化とは言えないのか。

人間の細胞に役割分担があるように、人間一人一人を人類全体における細胞とみなして役割による不平等を認めるなら、それは進化と認めても良いのかもしれない。ただ、人間を細胞とみなすのなら、人間を細胞として統括するメタ人間が必要である。当然だが、メタ人間は人間では務まらない。では誰がメタ人間を務めるのか。

そこまで言えば結論はわかってもらえるだろう。その未来を選ぶのかどうかは我々次第ということだ。

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