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What is e-sports? #3(全4回) 【哲学的研究】スポーツの本質を考えてみる【全文公開】

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続きである。

はじめに

"What is e-sports?" と問いながら、一向にe-sportsの現状に触れていない。が、無論これで良いのである。素人がe-sportsの市場調査のデータを引っ張ってこねくり回したところで、わかるのはe-sportsの市場である。e-sportsとは何かがわかるわけではない。

○○とは何か?

その答えは、いつも輪郭としてしか与えられない。これはとても重要なことであり、既に"Think difficult!"のシリーズ中でも少し触れている。

まだe-sportsに関するこの一連の論考は、全てを書き終えてはいないが、大丈夫、ちゃんと着地する予定なので、引き続き輪郭を塗りつぶす作業にお付き合い願いたい。

オリンピック

さて、今日、スポーツの起源について考えようとした時、皆さんの頭に真っ先によぎるのは、オリンピックであろう。そして、それはもしかすると、古代オリンピック、近代オリンピックの区別なく、何だか「よくわからんピック」である人も多いだろう。

「そもそも古代オリンピックと近代オリンピックは別物である」というところから話を始めよう。

近代オリンピックの父と言われている、ピエール・ド・クーベルタン男爵という方の名前くらいは知っているだろうか。まあ知らなくても問題ないが、ともかく彼の尽力によって19世紀末に近代オリンピックが実現した。しかし、その流れは何もクーベルタンという一個人の着想のみに頼ったものではない。ルネサンス以降、啓蒙主義を経て、当時の文化的な潮流としては、間違いなく「古代ギリシャへの憧れ」というものが存在した。それが、同時代かなり普及し始めていたスポーツなるものを、制度として教育的に取り込もうという社会の意図と見事に合わさったのである。

古代ギリシャにおけるオリンピックが正確にどのようなものであったかは十分解明されないままであったとしても別に問題はなく、ともかく、憧れのギリシャという「イデオロギー」だけが重要であったのだ。

ところで、実際のところ、古代オリンピック競技とはどのようなものであったのか。

知られている範囲では、それは都市国家間の競技ではなく、あくまで個人の競技であったようである。そして、女性や奴隷は、当然参加者からは除外され、競技場に近づくことすら許されていなかったとされている。

競技種目としては、もともとは直線での徒競走のみが行なわれたようだが、他にも様々種目は増えてゆき、格闘技なども取り入れられ始める。そんな中、競技中に競技者が死ぬということも珍しくなくなってゆく。ここは、決定的に近代競技と異なる部分である。

皆さんは、近代オリンピックの一体何が「オリンピック」なのか答えられるだろうか。正直、僕にはよくわからない。いまとなっては、もはや誰にもよくわからないのかもしれない。そういう類のものなのだ。はたして、聖火リレーの「聖」とは何なのか。我々は、もはやそれすら忘れていやしまいか。そもそも聖火リレーが始まったのはベルリンオリンピックからである。そう、すなわち、

聖火の起源はナチスのプロパガンダにある

のである。今日、この事実を一体どれだけの人が覚えているのだろうか。オリンピックとは、政治文化、政治の道具としての歴史を歩んできたものであるという事実を忘れてはいけない。

繰り返しになるが、そもそも、個人競技としてのみ行なわれていた古代オリンピックに「ナショナリズム」なんてものは存在しなかった。しかし、いまやどうだろう。オリンピックといえば、むしろナショナリズムの代名詞でしかない。もちろん、そのナショナリズムは直接的な国家の衝突を避ける代理的な意味合いを持つナショナリズムであり、スポーツが生み出した「新しいナショナリズム」ではあるかもしれないが、しかし、ナショナリズムであることには変わりない。結局のところ、どこをどう切り口にしたところで、近代オリンピックは古代オリンピックとは何の関係もない別競技なのだ

そして、もう一点、オリンピックのイデオロギーとして挙げておかねばならないのは、「アマチュアリズム」である。

今日に接続を持つスポーツにおけるアマチュアリズムは、おそらくイギリスの特権階級、ジェントルマン固有のイデオロギーであろう。アマチュアリズムとは、ある種の美徳(暇を持て余した人間だけの倫理)であり、したがって、万人が生きる上での原理にはなり得ない。いまのところ、世の中は暇を持て余した人間ばかりではないからだ。したがって、スポーツが社会のあらゆる階層に普及し始めた19世紀から20世紀にかけての、教育、産業、政治の近代化(合理化)というシチュエーションに、「アマチュアリズム」という美徳がそっくりそのまま大衆に寄り添ってゆくことは、原理的に不可能だった。オリンピックにおけるアマチュアリズムなどイデオロギー(欺瞞)以外の何物でもない。

一応、形式上、辞書的な意味確認もしておこう。スポーツの語源は、ラテン語まで遡るなら"deportare"という語がそれに当たり、「労働から離れたもの」というような解釈から転じて、「日常から離れたもの」というような意味合いに取れる。すなわち、ざっくり言うなら「余暇」といったニュアンスで捉えてまあ問題ない。つまり、語源のみで考えるなら、スポーツは余暇である。アマチュアリズムが成立していたのは、当然、余暇としてのスポーツに対してである。つまり、語源としてのスポーツは、近代化される前のスポーツとは一定の重なりを持つが、近代以降のスポーツとはもはや何の接点もないのである。今日我々が触れるスポーツは、もはや単なる「余暇活動」でとどまるものではないのだから。そうなってくると、今日のスポーツをスポーツという言葉で呼ぶことがはたして正しいのか、それすら、もはやよくわからなくなってくる。

近代以降、スポーツは資本主義に塗りつぶされた。さらに現代においては情報化の波にも飲まれてメディアと分かちがたく融合し、スポーツは手段ではなく完全に自己目的化している。スポーツは、個人の「心身の健康のため」のものではなく、資本主義の装置としてのみ存在している。何らかのスポーツを始める際、今の我々が一切のマーケティングから切り離して純粋にそのスポーツの精神に触れることは、本当に可能だろうか。

念のために触れておくが、「心身の健康のため」に近所をジョギングするというレベルのものは、ここではスポーツにはカウントしない。それは、スポーツではなく「運動」である。スポーツの要件については検討前であるが、スポーツとして認めるためには、少なくとも「あるルールのもとでゲームを行ない結果を他者と共有する」という程度のことは必要だろう。

また、先の東京オリンピックでは、オリンピックの権威の妥当性についても、数多くの疑義が投げかけられた。個人的には、オリンピックの権威なんてものは失墜したと言って差し支えなく感じるが、まだオリンピックに大いなる正義、権威を感じておられる方はいらっしゃるだろうか。これはおそらく競技者として真摯に打ち込んでいればいるだけその傾向は強いと思われるが、この問題に深入りすることは本論の目的を超えるので、ここまでにしておく。

ただ、程度問題とはいえ、オリンピックがその権威に大いなる疑いを持たれ始めていること自体は疑いようのない事実である。そして、オリンピックは、自らの存在感を取り戻すため、今後間違いなく新たな舵取りが求められるだろう。その中でe-sportsというものが、一定の役割を果たすだろうということは、常識的に十分想像できる範疇である。それは、もちろんe-sportsに素晴らしい理念があるからではない。e-sportsに、今後それだけの市場規模が期待されるからである。

スポーツの要件

お待たせした。さすがに、そろそろ「スポーツとは何か」について踏み込むことにする。

スポーツというものは、一体どう定義するのが自然だろうか。これまでずっと資本主義という実益とのつながりのみでスポーツを論じてきたが、より抽象の観点からもスポーツという営みについて考えてみたい。

スポーツとは、人為的、人工的な世界における遊戯(ゲーム)である。

この定義に積極的に反論される方はおられるだろうか。たぶん、おられないだろう。もちろん、スポーツは自然を取り込んでも成立はする。スポーツにおける運要素というのがどの程度認められるかというのは議論の余地あるところであり、たとえば屋外スポーツであれば大いに天候に条件が左右される。特に、自然環境における記録競技においては、天候、風向きなどにかなりの不公平を感じる方も多いだろう。しかし、運要素にどの程度左右されるかは、理屈から言えば、スポーツの要件として検討するべき問題ではない。重要なのは、それが「ルールブックにどう書かれているか」である。

スポーツとは、ルールとゲームという二つの領域から成り立つ身体的な営みである。

つまり、天候やその他の条件をどう扱うかも、明確にルールブックに書かれていれば、スポーツとしては別に問題にはならないはずである。もし、そこに不公平を感じるなら、修正するべきは、地球の天候ではない。ルールである。

ただし、スポーツには、「全人類の平等」といった欺瞞も与えられているため、結果が不公平に運に左右されることはやはり好ましくないと感じる人は多いだろう。

スポーツは賭博(確率)ではない。

そういう主張が聞こえてきそうである。しかし、本当にそうだろうか。

スポーツが真に実力を反映する競技であるとするなら、実際のところ、ゲーム(試合)など、もはや実施する必要がない。なぜなら、勝ち負けはそのまま実力順に確定するからだ。しかし、人がスポーツのゲームに熱狂するのは、勝ち負けで実力順を確認できるからではない。むしろ、勝ち負けが実力だけでは確定しないからであろう。つまり、

運という要素はスポーツにおいて、実は必要不可欠なものである。

スポーツにおける運要素というものは、あくまでも、それをどの程度取り入れるかという競技デザインの範疇のものである。入れる「べき」とか入れては「いけない」とか、そういう問題ではない。だから、極論するなら、互いにサイコロを振るだけという競技でも、ちゃんとルールが整備されるならば、それはスポーツの条件を満たすことは可能だろう。しかし、現状、そんな競技は存在しない。何故か。それは単に、運要素が強すぎると競技者も観客も楽しめないという、娯楽(気晴らし)としてのバランスの問題に過ぎない。

では、スポーツにおける「楽しさ」とは何だろうか。これは難しい問いであるが、突き詰めると、

勝つことに喜びを感じられる

というポイントに帰着するだろう。サイコロを振るだけの競技では、勝つことに喜びを感じることは難しい。運だけではなく、能力や努力など自分の「力」でこそ勝てたのだと信じられるところに勝者の喜びがある。勝者に喜びがあるからこそ、観客もその喜びを共有できる。

では、最後に、問おう。

自分の「力」とは何だろうか。

僕は、ここにスポーツの最大の本質を感じる。この「力」は競技前の準備段階として高められるものである。競技中、何らかの運要素でこの「力」が多少なり左右されようとも、事前準備の段階で高めておけば勝つ確率は上がる。皆さんもそういうものを「力」として想定しているはずである。

実際のところ、この「力」は、「遺伝に基づく身体能力」がかなりの部分を占め、その能力の「各競技種目への最適化の程度」が最終的な「力」の出力を決める。

これは、平たく言ってしまえば、運である。どの程度の身体能力を遺伝的に受け継いだか。それを競技種目に最適化するための教育を、適切な発育段階で適切に受けることができたか。それがスポーツ選手の能力を決めるが、よく考えて欲しい、そんなものは運でしかない。

しかし、スポーツファンは、決して選手の力量を運とは見ない。運であるにも関わらず、運とは認めない。何故かと言うと、繰り返しになるがそれを全て運と認めてしまうと、観客としてスポーツを鑑賞する楽しみが消えてしまうからである。つまり、

選手の持つ「力」とは、スポーツを楽しむための「物語」なのである。

その「物語」は原則としてリアリティという部品で構成され、すなわち「事実」という建前を持つ。ここで一つ、プロレスという「いかがわしい競技」を持ち出してみる。プロレスをスポーツとして認めることには異論のある人が多いだろう。もちろん、それはプロレスが「八百長」だからである。しかし、数あるスポーツの中で、プロレスのみが唯一「物語」を「事実」と捏造する「嘘」をつかずに、「物語」という嘘をそのまま「物語」という嘘として提供する「真実の」スポーツであるという捻れた理屈もまた成立する。

ただ、現代人はスポーツを「物語」ではなくあくまでも「事実」として認識するため、プロレスは八百長、すなわち偽物の「演技」として扱われてしまう。「演技」が目指すのは「事実」ではなく「現実」の模倣である。それは、「事実」の提示ではなく、「現実」の表現である。よって、既にスポーツからは失われてしまった「死」ですらも、そこでは十分に表現され得る。近代以降のスポーツが、ある種の現実のモデル化、すなわち、勝敗というデジタルな観点での現実の切り取り(単純化)を目指したものであるとした時に、プロレスはそのスポーツの概念を反転する、全く対極のものである。プロレスは、「模倣」であるが故にこそ、勝ち負けというスポーツが本来持つデジタルな「嘘」を無化し、「現実」を物語るのである。

以上のことを考察した上で、先に挙げた定義にもう一度帰ってみよう。

スポーツとは、ルールとゲームという二つの領域から成り立つ身体的な営みである。

結局、全てが運であり、それを楽しむために物語が不可欠なのだということを認めるならば、スポーツの要件としては、これ以上のことを考える必要性はないと思われる。

記号論としてのスポーツ

ルールとゲーム、そのキーワードを眺めていると、どうしてもウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を想起せざるを得ない。「言語ゲーム」の議論まで踏み込むのは逸脱に過ぎるので、表面的な援用に留めるのを許していただきたいが、一定のルールのもとで身体的なゲームを実施するのがスポーツだとして、スポーツが現象するのは、はたしてルールなのか、ゲームなのか。当然、ゲームであろう。ルールブックを眺めることはスポーツではない。ゲームをすることのみがスポーツである。そして、重要なことは、ルールがそのままゲームを決めるわけではなく、むしろゲームの中でルールを含めた様々な創造が行なわれてゆく、ということである。

日常の言語使用の文法の曖昧さとは違い、スポーツにおけるルールは絶対である。にもかかわらず、スポーツゲームの中でも一定の創造性(逸脱)というのは、必ず見て取れる。スポーツにおいて結果が不確定であることこそが、勝者に一定の喜びを生むということは、先に述べた。当然運の要素が関わっているからなのだが、運以外にも、もうひとつ、そもそもルールを守ってゲームを行なうという一見ゆらぎなど生みそうにない活動自体が創造性を内包してしまっているという問題もあるのだ。人間の言語行為に備わる創造性は規則の機械反復を超える。確か、チョムスキーもそのようなことを言っていた気がする。

一定のルールでコードされた空間で身体行為を伴うゲームを行なう。

我々がスポーツについて考えるための思考のゼロ地点はここである。

哲学で言う「言語ゲーム」と大きく異なるのは、用いられる言語が「身体言語」であることだろう。しかし、もちろん競技者当人にとってそれは「身体言語」であるのだが、観客からすればそれはもはや「身体」とは見られていない。その全ての身体性をいちいち自覚していては、我々はとてもボクシングの試合など観ていられない。

現代のスポーツは、資本主義の玩具であり、全てが観客目線(マーケティング)でデザインされている。仮に、競技者の安全性を考慮した競技者目線に見えるルールがあったとしても、それは「そう」した方がマーケティング(倫理規範)に適うということだけが理由である。断じて、「それ」は競技者の無事を願う「祈り」ではない。

そうして、ルール(理論)が先んじた上で、今日のスポーツは洗練されてきた。その中でゲームにおける創造性を楽しんできたわけだが、もっと観客に興奮を与えることはてきないか、より効率的にアテンションを抽出できないか、という動きも活発化してくる。そこで出てくるのが「メディア」である。

メディアの手の中のスポーツ

スポーツには、もともと心身の健康を保つためのある種の「体育」という意味合いもあったようには思う。しかし、体育とスポーツはもはや別物だろう。体育は、ユーザー視点での身体(物理)運動という側面が強い。しかし、消費コンテンツとしてのスポーツは、もはや身体現象ではなく、物質は関与しない。今日、スポーツが生産するもの、それは記号であり情報である。

スポーツとは身体言語を通じて社会的な差異を描き出す表象活動である。

スポーツを、社会的な側面から定義すれば、このように言うこともできるだろう。

スポーツは勝負事であるから、当然勝ち負けという結果はついて回る。勝ち負けという記号はデジタルなものだ。そして、勝ち負けとは、単一の個の特性のことではなく、複数対象を比較した結果としての「差異」のことだ。スポーツは特に「差異」に特化した表現装置であるため、社会的にも利用価値が高い。様々な差別や格差といった「差異」にまつわる問題の「はけ口」としてとても有効に機能する。

結果、どうなったか。スポーツは完全にデジタル化(情報化)され、その全てがメディアに飲み込まれた。スポーツは、資本主義の玩具であるが、それを実現しているのはメディアである。

スポーツを定義づけるのはその競技のルールでありゲームであるはずだが、それすらも、実はもうかなりあやしい。我々はメディアを通じてスポーツに触れる。そこには、当然ながら様々な情報の加工がある。そうした情報の加工は、何もスポーツに限ったことではないが、スポーツ「程度」のものであれば、ソースが加工されてもさほど問題にされない。スポーツの本質は結果ではなく物語であるが、一般大衆の多くは結果こそが重要だと勘違いしている。だから、メディアが物語を多少捏造しようとも、結果が正しく伝えられていれば、それ以上疑問は抱かないのだ。

こうなってくると、スポーツを会場で直接観戦するというのは、今後はとんでもなく高いリテラシーが求められる行ないになってゆくだろう。メディアで加工されたスポーツ中継観戦に慣れた人間が、会場で「正しく」スポーツ観戦できるとは思えない。

まとめ

スポーツの定義を、哲学的な観点から一言で言うなら

一定のルールでコードされた空間で身体行為を伴うゲームを行なうこと

で良いと思う。その際に、運に左右されるとか、実力通りの結果が出ないとか、そういう問題をどう捉えるかについて、本文中で説明した。

そして、スポーツの正当性のようなものが存在するのかということに関して、オリンピックの話からプロレスの話までの議論の中で、「物語」というキーワードを通じてある程度明らかにした。

最後に、スポーツというものは、いまや物理世界にではなく記号(情報)としてメディアの中にのみ存在するということに触れた。

本論とこれまでの一連の論考とを合わせて考えてもらえれば、e-sportsというものが今後スポーツとどう関わってゆくかは、明らかにできるのではないか。

次回その部分について最終的な検討を加えようと思うが、僕なりの結論を待つ間に、皆さんもそれぞれに考えを巡らせてみてほしい。



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