見出し画像

Think difficult ! part3「わかりやすくする難しさ」 -本質的アナロジー思考【全文公開】

"Think difficult!"という感覚の重要性を理解いただくために段階的にお話ししてきた。

part1で「抽象化」という力の大切さをお話しした。

part2では難しいことを「正しく」理解するには、原則として難しいまま受け止める必要があることをお話しした。

今回は、難しいことを敢えて噛み砕くことの難しさについてお話ししたい。

前回の話と少し矛盾しているのではないかと感じる方もおられるだろう。良い勘である。しかし、前回の話は原則論なのだ。

前回、難しいことを簡単に伝えると中身が変わると言った。それは紛れもなく事実である。しかし、それがそのまま悪だとは言っていない。

たとえば、初めてスマートフォンに触る、ITに疎いご年配の方をお迎えしたとしよう。そうした面々にスマホの使い方をレッスンするという状況を想定して欲しい。

これまでの携帯電話の進化の歴史、時代背景から見たスマートフォンの位置付け、スマートフォンでできることの詳細、そしてスマートフォン自体の仕組み、クラウドとは何か。そこから話を始める者は、先生失格である。

ここで求められているのは、各々の立場に応じて生活の中で役に立つであろうスマホの使い方を具体的にピックアップし、概念ではなく手順だけを教えることである。

そして、ここが初学者の学びを狂わせる、まさに最前線である。

初学者は、何が大切なのか、何が役に立つのかがわかっていないし、場合によっては概念的な抽象思考が苦手な方もいるだろう。そういう方に、手順を踏む中で可能な限りスマホの本質を理解してもらえるようなレッスンプログラムを組む。これは、皆さんが想像している以上に難しい作業である。

しかし、ここをナメている人が、あまりにも多すぎる。

レッスンプログラム自体は、ただの作業的手順なので、当然、誰にでも理解できる。だから、このレッスンプログラムを「組む」という手続きが「簡単」だと勘違いしている人が多いのだ。

僕が前回お話しした「サルでもわかる○○」というのは、ここを「ナメてる○○」を指している。

100%は無理にせよ、可能な限り本質に近づいてもらえるようなレッスンプログラムを作ること。それは、教えようとしている事柄について非常に深い理解が求められる。そして、深い理解を元にわかりやすく噛み砕かれたものは、実は「サルでもわかる」類のものと同列にはない。それは、構造を保ったまま量だけを落とした「本質情報」である。

複雑な理論、つまり情報量の多い理論というのは、分析して抽象化することでシンプルにはできる。微分されるイメージを持てば良いであろうか。情報は落とされているので、そこから複雑な理論をそのまま再現することはできない。不定積分が一意に定まらないことと似ている。

「二次関数のグラフの形を説明する」というたとえで言うなら、それは「グラフの傾きの変化を説明する」ということが本質であり、すなわち「二次関数の微分である一次関数を用いて二次関数を説明する」ということと同義である。

こういう抽象的な概念操作を深いレベルで行える者であれば、「サル」用ではないレッスンプログラムが作成できる。しかし、そうではない者が圧倒的多数である。

いや、自由競争があるのだから、能力のない人間は淘汰されるだろう。そう思うかもしれない。だが、真相はむしろ逆なのだ。

なぜなら、まず、そこまでの深い思考手続きを行える人間が、そもそも少ない。だから、作られたレッスンプログラムが、「サル」用なのか「本質情報」なのかの判断ができる人間も少ない。そして、これが真相であるが、実は「本質情報」よりも「サル」用の方が「サル」受けが良いのだ。

僕は、初学者がネットなどを利用した無料のソース(情報)で何かを学ぶことには大反対なのだが、それはこうした部分に理由がある。

情報を、構造を維持したまま量だけを削ぎ落とすというのは、本当に大変な作業なのだ。だから、自分が判断できないような疎いジャンルの情報を入手するときは、ある程度確かな「筋」から行なうべきである。

単に自分の直感だけで「わかりやすいものが素晴らしい」と感じることには、相当のリスクがある。僕が今回言いたいことは、究極にはそれだけだ。

世の中には、本質を維持したわかりやすい情報は、確かに存在する。しかし、本質を知らない者がそれを見つけることは難しい。いわゆるユーザーレビューによる評価も、多少の参考にはなるが、信用には値しない。

だから、それを見抜けるようになる為に、日頃から本質をとらえる訓練として抽象思考を続けて欲しいのだ。そして、今回、抽象思考の中でも特に重要である「アナロジー思考」について触れておく。

別に、何かアカデミックな世界でそういう用語があるわけではないが、僕の中ではそう読んでいる。メタファー思考と言っても良いが、詩的なニュアンスは含意していないので、単にアナロジーとしておく。

要するに、物事の説明にアナロジー(類比)を使うというだけのことなのだが、これがとてつもなく深い。

難しいことをわかりやすく人に説明するための最も定番の方法は、たとえ話である。しかし、僕が言いたいのは、たとえ話を多用しろという話ではない。「正しい」たとえ話をしろということなのだ。

説明したいことと使用するたとえ話の本質的な情報構造を把握し、やむを得ず犠牲にする情報構造があるならば、そこまで把握しておかねばならない。なんとなく似てるものを連れてきて、「そらよ、たとえ話だ」と言えば済む話ではない。

こうしたたとえ話、すなわち「アナロジー思考」の化物みたいな人が、僕がよく名前を挙げる養老孟司氏である。アナロジーというのは類比、比べるということが基本であり、比べるというのを言語的に処理すると、構造の対応という話になる。養老氏は解剖学者だったわけで、当然それは大いに関係している。「正しい」ということは、論理の規則を守っているかどうかという「ゆく河の流れ」の中にはない。流れをいくら調べても、それはもとの水にあらず。そうではなく、そもそも正しい「源泉」から流れ出したものは、全て正しいのだ。

その「源泉」を持つこと。それが知性ある教養人であるために最も必要なことだと思われる。前回、僕は自分の意見は断言でしか述べないと言ったが、結局のところ源泉を持っていれば、そもそも断言できる話しか湧かないのだ。そのレベルにある人が書いた「わかりやすい本」にはものすごく価値がある。

いいだろうか。

わかりやすい本がダメだと言っているのではない。価値あるわかりやすい本は、とても貴重でかつそれは一般のユーザーに評価できる者ではない。だから、非常に見つけづらいのだ。

そうなると、結局のところ、自分でそれを見抜ける人間になるのが一番手っ取り早い。そのためには、"Think difficult!"を続けてもらうしかない。

いつか、傲慢ではなく謙虚な気持ちをもってしてもなお、自分の思考から断言しか出てこなくなったら、その時には情報の本質が見抜けるだけのアナロジー思考が身についているだろう。

そこまでいけば、目の前の噛み砕いた解説本に価値があるのか、ちゃんと原典にあたるべきなのかということが、自分で判断できるようになっているはずだ。

最後に、言っておこう。

おそらく、池上彰氏というのが、難しい話を噛み砕くプロとして、日本では最もポピュラーであろうと思う。僕もかつて、リサーチ目的で、彼の書いた「わかりやすい」本を何冊も購入して読んでみたことがある。正直に話すと、彼の本からは、いくら丁寧に読んでも本質的な構造がまるで見えてこなかった。読者に寄り添おうという、人としての「優しさ」は本当なのかもしれない(本心はわからない)。確かに、口調は優しい。でも、少なくとも、真実と向き合ってのたうちまわって苦悩したような経験が、彼にはないのだろう。表面的な知識の紹介に終始していて、読者の世界観を変えるほどの真実を伝えてやろうという姿勢がまるで欠如しているのだ。だから、絶望的につまらない。彼が自身のオリジナルの思想を語るというなら別だが、彼の「わかりやすい」解説は僕には全く不要なものであった。


私の活動にご賛同いただける方、記事を気に入っていただいた方、よろしければサポートいただけますと幸いです。そのお気持ちで活動が広がります。