ワークショップ「所長所感」 - 第09回[20200601-0607]『公教育のデジタル化』
公教育のデジタル化。
このご時世、自学自習のためのビデオ教材などを含め、かなり広く意識されただろうテーマと思われます。しかし、結局大きな変化もなく、何もなかったことにされてゆくのではないか。そんな危機感を持つ先生も現場におられます。その一方で、逆に、何もなかったことにできて心底安堵している先生もおられるでしょう。しかし、教育のデジタル化は、本質論としては、不可避です。「こんなもの」を恐れているような人間が子供という未来(財産)の教育(育成)に関わるなど、本当に恐ろしいことです。教育において絶対に変わってはいけないこと。それは、子供という社会化の不完全なある種まだ「人間以下」である存在を、その時代に適応した人材(人間)に育てるという目的です。間違っても、教育者個人の偏った倫理観や知識体系を植え付けることは教育の目的ではない。つまり、先生も、自身がいまの社会に本当に適応しているか、を常にチェックしなければならない。僕はそう感じます。大枠でそこを外していなければ、先生の個性として多少偏った知識を追加要素として含めることは、全く問題ないと思います。
教育の「大枠」とは何か。
先生には、その答えを明確に持っていて欲しいと願います。
さて、今回のテーマであるデジタル化について考えてみましょう。
そもそもデジタルて何やねんという線引きの話から。『知的生産のために』というシリーズの中でデジタルとアナログの話は既にしました。
単純化して一言で言うなら、アナログは加工なしの「一回性」を持つデータで、デジタルというのは加工ありの「再現可能性」を持つデータだと思います。もう少し「クセの強い」言い方を許してもらえるなら、アナログはありのままの自然で、デジタルはヒトの脳内です。だからこそ、全てを再現可能かつ理想的に管理できるわけですね。ヒトの脳がそれを願っているからこそ、そんな世界を作り出しているわけです。そして、それはヒトの願いそのものなので、止めようはないと思います。デジタル化に反対意識を持つ人間は、「進化論」風に言うなら淘汰される存在でしょう(僕が進化論を支持しているという意味ではありません)
教育におけるデジタル化のリスクの話として、今回のワークショップ内で「個性的な授業」の話が出てました。僕はその「文脈」にリスクがあるとは全く感じてません。人間が扱うべき情報量はもうあまりにも膨大なので、授業そのものに付随する個性は、優先度の低い単なる「余剰」だと思います。もちろん、そういうちょっとした形式的「逸脱」が記憶のフックとして価値を持つことがあるのは認めますが、人間の個性という貴重なリソースは、授業という一方的な出力形式ではなく対面での双方向のコミュニケーションに集中させるべきだと思います。まだまだ「個性的な授業」という形式を経由して育った世代はたくさんいますので、そうした「ノスタルジー」は残留してゆくと思いますが、僕はそれは既に終わったもの、単なるノスタルジーでしかないと感じています。テキストの媒体が紙か電子かというのと、本質は同じでしょう。「手触り」というノスタルジーからどうしても離れられない。デジタル化に感じるリスクのほとんどは、リスクではなく単なる未知への恐怖、あるいはもっと手前の、ただただ既知から離れることへの恐怖であろうと思います。
アナログをデジタルにして失われるものは、原理的に言えば「一回性」です(そして獲得されるものは「再現可能性」です) だから、デジタル化で面白い授業が画一化する、そんな批判が出てくるのでしょう。でも、たとえば、既に確立された知識体系としての「微分」は(確立した体系の逸脱を目指すような「最先端」の研究の場でなければ)いつも同じ、再現可能なもので、「面白い」微分なんかありません。でも、確かに微分を「面白く」語ることはできる。僕は旧来の「良い授業」というのは、再現可能性を持たせることをこそ目指したものだと思っています。毎回違っては困りますからね。ですが、まさにそれこそデジタルで良い。そして、生身の先生には「一回性」の体験に集中して欲しい(僕がYouTubeでのマスへの情報発信よりこうした小規模なコミュニケーションの場を愛しているのもそういうことです) せっかくの生身の身体は、「再現可能性を目指した個性的な授業(という矛盾!)」ではなく、「毎回不確定な要素に揺らぐ一回性のコミュニケーション」に集中して欲しい。そのためにこそ、「ぬくもりのない」デジタル教材を利用して前提部分は徹底的に効率化して欲しい。そう願ってます。教育を効率性で置換したいのではなく、あまりに進んだ情報化社会において、むしろ機械的効率性の導入によって、教育の本来の「ぬくもり」を回復して欲しい。そう願っています。
ちなみに、デジタル化による効率の追求は、ある程度人間性が確立して知識の高度化に集中でき始める、高校生くらいの年代以降にやるべきだと、僕は感じています。小学生なんかは、むしろ哲学に特化したような先生が徹底的に「再現不可能な生身のコミュニケーション」をやるべきだと感じており、形式的にプログラミングや英語のスキルを導入するのに人的リソースを使うのは、無駄も甚だしいと感じています。原理的には、デジタル化を進めれば進めるほど、人間は人間にしかできないことに徹底集中しなければ、「人間性」が薄まってしまうということになると思います。でも、それを阻むのは「恐怖」という最も「人間らしい」感情であるという矛盾。人間らしくあることを人間らしさが阻む。おそらく、いま、人間はコンピュータ(デジタル)という外部へ脳を拡張したことにより、新たな次元を目指しています。まさに、旧人類としてのヒトが新しい何かへとドラスティックに変わっていく、そのせめぎ合い、その瞬間こそが、今の時代なのでしょう。「人間性とは何か」まで踏み込まないと、全く答えがわからない。本当に難しい時代だと思います。
教科書を電子化する、授業を電子黒板でやる、ビデオ教材で反転授業化する、タブレットでノートをとる、そんなもの、全て些細なことです。いちいち異議を唱えるなど、馬鹿馬鹿しいにも程があります。なのに、その導入が進まない。教育者というのは、確かに知識を垂直に伝達する機能を持つゆえ、古き時代の守護者としての機能をついつい拡大しがちですが、それはあくまで時代への適応という「大枠」の中での話です。古きを守ることは、教育の本質ではありません。何故改革が進まないか。「偉い」とは「守られている」ということです。教育という世界では、特に人は「偉く」なりがちです。そんな人に改革などできるはずがありません。だから、僕は自分より遥かに若い世代への情報伝達チャンネルを持つために、いまの活動を実験として続けています。人間は、愚かな生き物であり、愚かであることこそが人間の条件と言ってもいい生き物です。その愚かな人間の、僕はその遠い遠い未来を見て生きています。現場の先生は、目の前の近い未来と格闘しています。その意識をリンクしてゆきたい。
人間(アナログ)は愚かである。それを素直に認めることができる。その世代が人間を新しく(デジタル化)してゆくと思います。そのまさにつなぎ目の今の時代においては、現場が混乱するのは当然だと思います。それでも、「信念」をもって小さな活動を継続すること。その束が閾値を超えれば、きっと新しい波は起こる。大変かと思いますが、現場の先生には、どうか、「いまを守る」ためではなく「未来を守る」ために頑張って欲しいと思います。
僕も気持ちとしては同じものを持って、小さいながら活動を続けています。応援しています。
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