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無防備なるアフォリズム

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現在、僕は自分の思考をまとめるために、断章という形式を採用している。かつてなら間違いなく、全てを体系化して構造を顕にすることを目指しただろうと思う。しかし、いまとなってみれば体系化とはすなわちシステム化であり、そう感じた瞬間、そこに大きなモチベーションを持てなくなってしまった。

すなわち、もはや学術論文自体にすら興味を失いつつある。明確に構造化され得る知識体系というものに僕が知りたい何らかの「本質」は、たぶん存在しない。断章形式と言えばニーチェ氏だろうか。僕はニーチェ氏にはあまり傾倒しなかったが、たとえばウィトゲンシュタイン氏が断章形式で論考をまとめたことにはそのモチベーションが実感として感じられる。

アフォリズム、断章形式というのは、要するに徹底的な理論武装を放棄する形式である。それゆえ、無垢な思考がそのままむき出しとなる。短い箴言の類であれば、もし何か反論でもしたいと願うならいくらでも反論できるだろう。体系化された論文であるなら、その反論の全てと向き合う責任を負う。しかし、断章として記録された思考にその責はない。反論する側も、無防備過ぎる短文に反論すればするだけ逆にその無垢なる思考の泥沼に絡め取られ、自らの無防備さを露呈してゆくことになる。無垢に対峙した者は無垢を晒さざるを得ないのだ。

つまり、完璧に無防備であるということは、防備として役目を果たしているということだ。完全主義の極みは、むしろ体系化からは遠ざかるということである。

というアイデアを、とある文章から得たので、断章としてここに記録しておく。

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