【小説】NYC 2003-トムとナンシーの現在地

土曜の夜。
俺はバスルームにいて、生まれたままの姿で、
鏡に向かってInterpolのヴォーカルの物まねをしている。
感情を殺す。頭を小刻みに揺らす。
喉の奥のほうを、震わせて、歌う。
ドアをノックする音がして、我に返る。
すこし開いたドアの向こうでナンシーが手で口を押さえて笑っている。
ナンシーがうちに帰ってきていたことに俺はちっとも気がついちゃいなかった。
「トム、いつまでそんなクレイジーなこと続ける気?」ナンシーが言う。
「Radio City Music Hallを黒装束の連中で埋め尽くすまでさ」俺はそう答える。

BANANA REPUBLICの灰色のボクサーパンツを履く。
American Aparelの黒色のTシャツを着る。
髭を剃りおえたばかりの顔に、BURT'S BEESのローションを塗りたくってからバスルームを出る。
リビングのIKEA製のカウチに腰を下ろす。
BOSEのスピーカーからLCD Soundsystemの騒がしい曲が流れている。
テーブルの上に置かれたPower Bookは電源がはいったままで、
サイバデリックな模様がゆらゆらとディスプレイの中を漂う。
届いたばかりのNEW YORKERとTime Outの新刊にそれぞれざっと目を通す。
何か目ぼしい映画はやってないかと、テレビをつける。
Sundanceチャンネルでジャームッシュの古い映画がやっているのをみつける。
足元に中身が詰まったままのWhole Food Martのロゴ入りプラスティックバックが置いてあるのに気がつく。
キッチンで夕食の支度をしているナンシーが俺に声をかける。
「ねえ、そこにある食べもの、全部冷蔵庫にいれといてちょうだい」
「イェッサー」テレビを消して俺は腰上げる。
冷蔵庫のドアを開ける。
ダイエットコークの6缶パックと、コロナが何本かと、ライム風味のぺリエが2本と、
モツァレラチーズと、ほとんど空っぽのピーナツバターと、
アプリコットのジャムと、セロリの束と、しなびたライムが転がっている。
プラスティックバックの中身をひとつひとつ丁寧に冷蔵庫の中に移しいれる。
オーガニックミルク、ローカーブエッグ、ノーファットプティング、ノンカロリージェロ
オールナチュラルドレッシング、ローカロリーサーモンクリームチーズ、ソイヨーグルト、トーフソーセージ、
セサミベーグルが2つ、1パウンド6ドル99セントのサラダが4つ。
プラスティックバッグの中には、
地球の水を汚さないとうたうエコロジー洗剤とアンチ動物実験を標榜するTee treeのボディオイルだけが残る。
この街に暮らす連中はこの手の商品に目がない。
この街に暮らす、スノッブな連中は、この手の、スノッブな商品に目がない。
欺瞞に満ちた企業モラルは愛すべき地球ためにあるのではなく、
全ては消費者の自意識を満たすためのものにすぎない。
本当の菜食主義者はトーフでできた代替ソーセージなんてものには興味がなく、本当の環境保護主義者はプラスティックバッグの二枚重ねを許すはずがない。

ダイエットコークを一缶とぺリエのボトルを取り出してから、冷蔵庫のドアを閉める。
ダイニング用の丸テーブルにそれらを置き、グラスをふたつ用意する。
冬の室内は効きすぎのヒーターのせいでひどく喉が渇く。
スツールに腰かけ、ダイエットコークの蓋を開け、一缶の、その半分ほどを一息に飲む。
やがて、テーブルの上に、エンドウ豆のスープと、輪切りにされたオランダブレッド、できあいのミートローフ(これは俺だけのために)、ボウルいっぱいのサラダ(ほとんどがナンシーのために)が並ぶ。
「イタダキマス」
両の手のひらを合わせて、アクセントのある日本語でナンシーがいう。
ナンシーは、ティーン時代の一時期を父親の仕事の都合により日本で過ごしたことがある。
「イタダキマス」
俺もまた同様に、交換留学生として日本で暮らしたことがある。
そのときに、俺たちははじめて出会った。

「知ってる?3rd Avenueに新しいSUSHIレストランができたのよ」
ナンシーが小さくちぎったオランダブレッドをスパイス入りのオリーヴオイルに浸しながらいう。
「どこ?」
「78th Streetのとこよ」
「ちゃんと日本人はいるのかい」
「わかんない。東洋人はいるけど、韓国人かもしれないし、中国人かもしれないもの」
「日本人であることを願うよ」
この街の、スタイルばかりに気をとられた軽薄なSUSHI屋には我慢がならない。
ジャパニズムを履き違えた間抜けな装飾を見る度に、その店の窓に石を投げこみたくなるし、メキシコ人が粘土細工みたいにして作るSUSHIなぞを有難がって食う連中を見る度に、そのケツを思い切り蹴り上げたくなる。
食事を終えた俺たちはそれぞれに着替えを始める。
「ねえ、ナンシー、今夜俺はどんな服を着ていくべきかな」
「さあ。なんだっていいんじゃない。どうせホームパーティーだもの」
「なんだっていいってことはないさ。アートスクールの連中に笑われたくないもの」

この街の夜はパーティーに溢れている。
Village VoiceにもL Magazineにも載らない、そんな小さなパーティーたちがこの街の夜には溢れている。
その気にさえなれば、毎晩パーティーに繰り出すことだってできる。
人々はパーティーのために働き、パーティーのために生きる。
ショーウィンドウに飾られた服の全てはパーティーに着ていくためにあり、マガジンやニュースペーパーの記事の全てはパーティーでの気の利いた話題のためにあり、より洗練された会話を望む人々は、映画館やギャラリーや朗読会に足しげく通う。
俺はH&Mの人工的に色落ちしたジーンズを穿き、
Tシャツの上にArmarni Exchangeのストライプのシャツを着て、
イーストヴィレッジの古着屋で買った革のジャケットを羽織る。
Gravisのサンダルを脱ぎ捨て、買ったばかりのPUMAのスニーカーに履きかえる。
「なによ、いつもと変わらないじゃない」
United Bambooの真新しいワンピースの上に、Dieselの分厚いコートを着たナンシーが口をとがらせる。
「笑われない程度でいいんだ。何も気張ってお洒落する必要なんかないさ」

家を出て、地下鉄の駅までを歩く。
道すがら、このアッパーイーストに立ち並ぶ飲食店の中を覗き込む。
イタリアンレストランの中に、裕福な家族が優雅な晩餐を楽しんでいるのがみえる。
ハッピータイムのスポーツバーの中に、クールカットのヤッピーたちが赤い顔で得意の自己主張を繰り広げるのがみえる。
低カロリーのアイスクリーム屋の中に、この寒い季節にもアイスクリームを必要とするスイーツ狂いどもが列をなすのがみえる。
ダウンタウンへと下る6ラインに乗り込む。
ドアのすぐ横の、HSBCの広告の前に二人分のスペースをみつけて、腰を下ろす。
あたりを見渡せば、世界の主な人種がこの地下鉄の中にすべて揃っているのがわかる。
ブラック、ブラウン、イエロー、ホワイト。
ヒスパニックの若い母親が、騒ぐ子供をスペイン語で叱り付ける。
なりきりラッパーが安物ヘッドフォンから盛大に音を漏らしながら、ぶつぶつと出来合いのライムをつぶやく。
エイジアン系の若者の一団がお揃いのカリアゲ頭を並べて大きな声で何か楽しそうに話をしている。
サリーを着た女が鷲鼻の男と手を握りあい舌足らずな愛の言葉を交わしている。
ワンダラー、ワンダラーと呪文のように声をあげて中国人の中年女が乾電池を売り歩く。
右足をひきずった黒人ホームレスが小銭の入った紙コップをジャラジャラと鳴らしながら金をこう。
向かいの、闇だけを背景にしたガラス窓に、微笑を浮かべた白い肌のナンシーがうつっている。
「トム、あれみて」
ナンシーが声をひそめていう。
その細い指先の向こうに、サイズの大きな服を着てヤンキースの帽子を斜めに被る日本人風の若者がいる。
その隣に、POKEMONと書かれたスウェットを着て英訳された日本製MANGAを読みふける黒人の若者がいる。
「とんだ国際交流ね」ナンシーが笑う。
「笑えないね」俺はそういう。

Union SquareでLラインに乗り換える。
地下鉄はイーストリヴァーの下を走り抜け、マンハッタンからブルックリンへと渡る。
ブルックリンに入って一つ目の駅、Bedfordで地下鉄を降りる。
うす汚い階段を上り、地上に出た瞬間、マフラーをしてこなかったことを後悔する。
リカーショップで適当なワインを二本とデリでよく冷えたRed Stripeの6本いりケースを買う。
イーストリヴァーから来る冷たい風を正面に受けながら西へと歩く。
途中いくつかのバーやレストランの前を通り過ぎる。
どこも広いだけが取り柄の下品な店だ。
そのうちにこのエリアにもスターバックスやマクドナルドが立ち並び、
観光客がカメラ片手に練り歩くのだろうか。
パーティーが行われているはずのロフトアパートに到着する。
何度もビープを鳴らすが、誰もスピーカーフォンには出てこない。
鳴り止まぬ音楽と喚くようなお喋りのせいで、誰もその音に気がついていないのだ。
「なあ、ナンシー、今日はもうパーティーはやめて、そこのNorth Sixでライヴでもみていこうぜ。今夜はAnimal Collectiveがやってるはずだ」
「だめよ。ジョンやメアリーたちが待ってるもの」
「だって、誰も俺たちのことに気がついてないようだぜ」
俺は乱暴にビープを押しまくる。
すると、突然に、クイズ番組の中で不正解をつげるときのような音がして、ドアの鍵が開かれる。
ロフトアパート特有の重い金属の扉を開けたとたん、
ヒステリックな電子音が耳につきささり、単調なリズムのベース音が腹に響く。
早速ナンシーが友人を何人かみつけて、ハグをしている。
ナンシーが俺の腕をひっぱる。
無神経に賑やかなハードハウスの洪水の中で、
紹介されたひとりひとりの耳にむかって、自分の名前とnice to meet youを叫ぶ。
キッチンとリビングとが一体化したその部屋には、ゆうに50人を越える若者がいる。
隅に押しやられたテーブルの上に様々なハードリカーのボトルが並ぶ。
氷水で満たされたクーラーボックスの中にワインやビールが浮かんでいる。
冷蔵庫の隣でDJがプレイする。
そのまわりを踊り狂う連中と、それを遠巻きに眺めて酒を飲む連中。
まるで真冬のハドソンリヴァーに浮かぶ流氷のように、人々がひしめきあい、
ぶつかっては離れ、くっついてはどこかに流れていく。

古い友人のメアリーとジョンをみつけて世間話をする。
彼らともまた、日本で会って以来の仲だ。
お互いの近況を話し合う途中で、どこかであったはずの坊主頭の灰色の目をした男に声をかけられる。
男の名前はもう忘れてしまったが、男がドイツから来たこと、カメラマンの助手をやっていること、
はじめたばかりのこの街での生活にいささかDepressedしていたことは覚えている。
握手をかわした後で男にたずねる。
「その後調子はどうだい」
「最高にいいかんじだよ。万事良好さ」
「そう。それを聞けて俺も嬉しいよ」
「まったくあんたの言うとおりだったよ」
「なんのことだ」
「ほら、この街のことだよ。慣れればその良さがわかるって、あんた言ってたろ。俺、もう慣れたみたいだ。毎日が最高にご機嫌だよ」
「そうか。そういつは良かった。本当に良かった」
「ちょっと彼女を紹介させてくれよ。あれ、あいつ、どこにいっちまったかな」
そのまま男は人の群れの中に吸い込まれてやがて消える。
俺は彼に、この街に慣れたその先のことを尋ねられずに済んだことに、ほっと胸をなでおろす。

ナンシーを見失う。
アパートの中をあちこちに歩き回る。
メアリーとジョンにつれられて、黄色に塗られたドアの向こうの、
小部屋の中にはいるナンシーの後姿をみつける。
俺もその後を追う。
小さなコーヒーテーブルの上に、白い粉末のラインをのせた鏡が一枚置かれている。
短く切ったストローを鼻にあて、いままさに粉末を吸い込まんとするジョンがいる。
そのすぐ後ろでメアリーとナンシーが互いの洋服を評しあってる。
俺に気がついたメアリーが、「トムもどお?」と声をかける。
俺は何も答えない。
「トム、いいでしょ、パーティーのときくらい」
ナンシーが上目づかいに俺をみる。
「勝手にしろよ」
そういって俺は部屋をでる。
すっかりハイになったナンシーは、髪をピンクにそめたDJのすぐ前で、
ディスコパンクのビートに乗って踊り狂っている。
ドレッドヘアーの背の高い黒人が、ナンシーの横に滑り込み、その腰に手をあてる。
俺は苛立ちを紛らわせるために、誰か話し相手を探して、部屋の隅をうろつく。

退屈そうに壁にもたれて酒を飲む男に声をかける。
いくつかの牽制しあうような会話の後で、男が俺と同じ学校の学生であることを知る。
「メジャーはなんだい」男が俺に尋ねる。
「英文学と日本語のダブルメジャーさ。君は?」
「似たようなもんだよ。哲学をメジャーに、フランス文学をマイナーにしている。英文学のクラスもいくつかとったことがある。あんた、学年は?」
「シニアさ。この学期でおしまい」
「じゃあ、俺とまったく一緒なんだな」
男が口を歪めて静かに笑い、手にしたHeinekenのボトルに口をつける。
それから俺たちはOther Musicに並ぶ新譜CDのことや、
AngelicaやAnthology Film Archivesでやっている外国映画のことや、
嫌いな教授の悪口に花を咲かす。
ひとたび訪れた沈黙の後で、唐突に男が話題を変える。
「なあ、あんた、卒業したらどうすんだい」
「さあね」俺はあいまいに首をすくめていう。
「英文学専攻だと就職も難しいだろ」
「まあね。でも君だって同じことだろ」
「俺か?俺はNYUのロースクールに行くことが決まってるから心配ないさ。あと二年間、法律をみっちり勉強して弁護士になるんだ。哲学にはもうサヨナラだよ」
「そいつはすばらしいね、うらやましいよ」久しぶりの社交辞令を口にする。
「あんたもどこかのプロフェッショナルスクールに行けばいいんだよ。きっといい就職口がまってるぜ。GPAはどう?数学は得意かい?だったらMBAにしなよ。なに、別にアイヴィーリーグにいく必要はないんだ。さいきんはCUNYだって評判いいらしいぜ」
急に始まった男のくだらないお喋りを止めたくて、つい、俺は口を滑らす。
まだ誰にも話していない事実をこんなところで告げてしまう。
「実は、卒業したら日本にいくつもりだ。JETプログラムってやつの選考に合格したんだ。日本へ行って、公立中学の英語クラスのアシスタントとして働く。住居も用意されてる。日本政府から金も出るんだ」
そこまで一息にいい終えてから、俺はひどく後悔する。
ウィスキーがはいったグラスをふたつ手にしたナンシーが、俺のすぐ隣にいるのに気がついたからだ。
「なんだ、そうだったのか。そりゃいいな。あんた、日本語勉強したんだもんな。そりゃいい。日本に行って、その英語教師ってやつをやって、日本語にもっと磨きをかけて、そのまま日本の企業でも入ったらいいよ。あいつら渋チンだけど、外国人には甘いってきいたことがあるぜ」
無言で俺をみつめるナンシーが気になって、男の声がうまく耳にはいらない。

Bedford Avenueまでの道を俺たちは黙って歩く。
行きかう人々は一様に陽気で、酒臭い息を吐き散らして騒いでいる。
ピザ屋はいまだ営業を続け、夕食どきよりも繁盛しているようにみえる。
手を上げて、タクシーを止め、後部座席に乗り込む。
頭にターバンを巻いた運転手に行き先を告げる。
運転手は何も答えぬまま、タクシーを発車させる。
暗くて陰気なブルックリンを抜けて、ワシントンブリッジを渡ると、
右前方にマンハッタンの夜景がみえてくる。
戦闘を待ちわびる軍艦のような、そんな不気味な夜景が黒い海に浮かんでいる。
「トム、日本へ行くって本当?」
ナンシーが頭を俺の肩に乗せて、酒臭い息をはいて言う。
「ああ」
「そう。いつから?」
「来年の8月から。2年間」
「そう」
二人の間に重い沈黙が横たわる。
運転手は携帯電話に繋がれたハンズフリー用のマイクで誰かと話をしている。
行ったことのない土地の、知らない言葉が耳にからみつく。
「トム、日本に行ったら、」
「うん」
「日本に行ったら、またあの変な英語教えるの?」
それが何を意味するのか、しばらく考えてから俺は答える。
「そうだろうね。またあの、変な英語を」
「Hello, Tom. How are you?」ナンシーがおどけた調子で言う。
いつか日本でやらされた、妙に堅苦しい英会話を思い出してこう答える。
「Hello, Nancy. I'm fine. Thank you. And you?」
ナンシーがけたけたと笑い転げる。
初めてナンシーと会った日、
ケンやケイコやタローやヨシコに英会話を教えた初めての日、
あのときもナンシーは、同じように笑い転げていた。
その屈託のない笑顔に、14歳になったばかりの俺はクラッシュしてしまったんだ。
お決まりのテキスト英会話の、そのつづきをやりたくて、もう一度俺はいう。
「Hello, Nancy. I'm fine. And you?」
ナンシーの顔に、もうスマイルはない。
「I'm not fine....because」
車窓からはいる街の灯りがナンシーの顔を照らす。
その瞳に潤いがあるのを知る。
「Because you are leaving me!」
そのままナンシーは顔を伏せて、嗚咽をこぼし始める。
「ごめん。また戻ってくるから」
そんなふうにしか、俺は言葉をかけられないでいる。
「トム、なんのために日本へ行くの?」
顔をあげたナンシーの顔は涙に濡れて、
溶けたマスカラを手の甲で拭いたせいで、
目の周りがアスタープレイスに集うゴス少女たちみたいに黒くなっている。
「この街を離れたいんだ」
「なぜ?」
「すこし疲れたんだよ」
「トムはこの街のことが嫌いなの?」
俺はうまく答えられない。
わからない。
俺にはわからないんだ。
愛しているのか、憎んでいるのか。
かつて、インディアナの田舎で恋焦がれたこの街のことを、
両親をいいくるめ、カレッジ時代を過ごすためにやって来たこの街のことを、
ダウンタウンの大きな古本屋で、日本でサヨナラを言い合ったナンシーと、
偶然に再会したこの街のことを、
愛しているのか、憎んでいるのか、
俺にはよくわからない。
みんなはどうなんだ。
セントマークスでくだを巻く黒いTシャツを着たモヒカン頭のパンクスたちは、
ユニオンスクエアにたむろする不健康な青い顔したスケートボーダーたちは、
ウィリアムズバーグで名刺を配る小ずる賢い顔をしたアーティストたちは、
この街のことを愛しているのか。
この街は変わった。
ソーホーもヴィレッジもいまはネクタイを締めた連中のものに変わった。
42ndのタチンボたちはダンキンドーナツのあまりものと一緒にゴミ収集車で撤去された。
チェルシーホテルは単なるケバいだけのホテルになりさがり、その神話性を失った。
男と女のことしか歌えない腰抜けバンドがCBGBのステージに立ち、伝説を踏みにじった。
ジョンレノンが死んだ場所で何万人もの観光客が、能天気なピースサインをして笑った。
そしていまも、この街は変わり続けている。
大きな変化は2001年の9月11日に、
小さな変化は増殖し続けるスターバックスと移民家族のぶんだけ、
上昇し続ける家賃とMetro Cardの値段のぶんだけ、
確実に存在している。
憧れのビートニクはどこにいっちまったんだ。
西部や南部の砂埃と一緒に消えちまったのか。
この街に残された腑抜けのピースニクは、ブッシュの悪口を言うだけで何もできないクズばかり。
筋金入りのヒップホップはどこにいっちまったんだ。
レコードの山のなかに埋もれて窒息したのか。
ギャングあがりの不良どもに不相応な豪邸を与えるだけのお子様ヒップホップにはもううんざりだ。
本物のアヴァンギャルドはどこにいっちまったんだ。
酒や薬でおっちんだのか。それとも檻のついた病院の中か。
ジャパニメーションの模造品を芸術と崇める馬鹿どもほど、その顛末がふさわしいはずなのに。
ホールデンはまだセントラルパークで冬の鴨の行方を気にしているのだろうか。
17歳のジム・キャロルはどこでピュアになりたいと呟いているのだろうか。
ブライトライツ、ビッグシティの残酷な朝にパンのにおいを嗅ぐ者はいるのだろうか。
いまこの街に溢れ返るまがいものたちのことを思うと、
あのウォーホールのクソったれな缶詰の絵だって微笑ましく思えるし、
モヒカン頭のタクシードライヴァーが原爆をつくりだす日も近いように思えて、
なんだか惨めな気分になっちまう。

インチキだ。
インチキがこの街にのさばってるんだ。
俺はこの街がこれ以上汚されていくのに我慢がならない。俺はこの街を愛しすぎているから。

タクシーは、とうにマンハッタンに入り、3rd Avenueをアップタウンにむかって走り続ける。
出来たばかりのガラス張りの豪華マンションと、ブラウンストーンでできた古いカレッジの校舎の間を通り過ぎる。
「考えすぎなのよ、トムは。いつだって」
ナンシーが俺を見透かしたようにいう。
「考えすぎて、よくわからなくなってるのよ。本当はこの街のこと好きなのに、考えすぎちゃうせいで、おかしなふうになっちゃってるのよ」
「ナンシーのいう通りだよ」
俺はナンシーの頬にキスをする。
塩辛い涙の味を舌に感じるとともに、
俺はこの街に来てよかったと、こころから思う。
「14歳のとき、Naritaであなたとお別れをしたとき、」
「うん」
「あたし、あたなとはもう二度と会うことはないんだろうと思った。悲しくてすごく泣いたけど、そうなることが運命なんだって、あのときのあたしはそれを受け入れた。大学生になって、この街で暮らし始めて、あなたと、StrandのMishimaが置いてある本棚の前でばったり会ったとき、すごく嬉しかったし、それこそ神様だって信じらる瞬間に思えたけど、あの悲しい別れをまた繰り返すことになるんじゃなかって、そんな気がした。覚悟してたのよ、ずっと前からこうなることを」
俺は黙ってうなずく。
「行きなさいよ、日本。あたしもたまには遊びに行くから。身長が6フィートを越えて、あの頃よりずっと大きくなったあなたと手を繋いで、また日本の街を歩けるなんて、そんな素敵なことってない気がするわ」
「ありがとう、ナンシー。ありがとう」
それ以上の言葉は声にならず、たまらずナンシーの額にキスをする。
「でも条件があるわ。日本へ行くまでの間、あたしのいうことは何でもきいてもらう」
俺の返事を待たずにナンシーが続ける。
「ね。いいこと。約束だからね」
俺は安堵混じりの溜息をつく。
タクシーはいま、ダウンタウンを走り抜け、ミッドタウンにはいったところ。

「トム、いまiPodもってる?」
「もってるよ」
「ここに出しなさい」
ジャケットのポケットからiPodを取り出す。
ナンシーが白いイヤホンの片方だけをつまみあげ、自分の右耳の穴にいれる。
もう片方を俺の左耳の穴に乱暴にねじこむ。
「痛いよ、ナンシー」
「黙りなさい。日本に行くまで、あたしに口答えは許さないからね」
「わかったよ」
「わかればよろしい」
「なにが聴きたいんだい」
クリックホイールを親指で撫でながら、ナンシーに尋ねる。
「Interpol」ナンシーがいう。
「Interpolをかけてちょうだい、ニセモノinterpolさん」
その言い方が子供みたいで俺はすこし笑ってしまう。
「Interpolの何の曲をかけましょうか、お嬢さん」
「NYC!」

人差し指を外の景色に向けて、ナンシーが微笑む。
PlaylistのTop25から"NYC"をさがしあて、クリックする。
すぐさま、あの物憂げなギターリフが流れ出す。

NYC。
この街のことを歌った憂鬱で感傷的な曲。
曲の途中でナンシーがいう。
「トムも歌ってよ」
「いやだよ」
「歌いなさいよ。あんなに練習してたじゃない。歌いなさい。これは命令よ」
「わかったよ」
バスルームで練習した通りの歌い方で声を出す。

It's up to me now turn on the bright lights
It's up to me now turn on the bright lights
New York Cares (got to be some more change in my life)
New York Cares (got to be some more change in my life)
New York Cares (got to be some more change in my life)
New York Cares (got to be some more change in my life)

夢中で歌い終わり、いつのまにか閉じていた目を開くと、
ナンシーが、体を震わせて、手で口を押さえて笑っている。
三日月型に細めた目と、こらえた笑いで膨らんだ頬が、ひどく愛しい。
「ナンシー、何がそんなにおかしいんだい」
「だって、トム、ぜんぜん似てないんだもの」
「君が歌えっていったんだろ」
自分でも思った以上に大きな声が出て、運転手が振り返る。
髭面の大きな目をした中東人の運転手と目が合う。
運転手が無表情のままで、親指をたてる。
「ユアソング、ベリーグッド、サー」
「サンキュー」
タクシーは走り続ける。
ナンシーは声をあげて笑う。
「トム、今度一緒にKARAOKEに行きましょう。もっと練習が必要だわ」
俺はナンシーを乱暴に抱き寄せ、開いたままのその口に、キスをする。

瞼をきつく閉じているせいで、いまはもう、どこにいるのかわからない。

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