見出し画像

JICA横浜 海外移住資料館、リニューアル前最後の公開(2/26 ZOOM講座拝聴録)

JICA横浜 海外移住資料館リニューアル直前、という訳で久々のZOOM。企画展示が変わる毎に年2〜3度訪れてはいるのだけれど(「日系人のレシピ」11/17等参照)、ここ2年は度々クローズされたり、秋からは改修工事中。漸く4月後半に再オープンする運びらしい。その前のおさらいという企画だったのだが、秋に機種変以来初ZOOMで音声トラブル、メカ音痴でワタワタ、最初の7〜8分聞き逃す失態😅… 恐らくチラシ掲載のローズ🌹フェスティバル山車(@ポートランド)について説明があったのだろう。因みに1920年に日系農家が野菜で飾り付け、一等賞を授与された時のレプリカだそう。
入館すると目の前に山車があり、更に移民先の分布や出身県の表等。ハワイ、カリフォルニア等西海岸、ブラジル等南米。広島、沖縄、和歌山(カナダでサケ漁に従事した三尾村出身者多し)。意外に愛知からも際立って大勢移住した地域があるんです(元 海部郡佐織町)。移民の理由は様々、水害や災害の為に出稼ぎとして、また次男三男だから、あるいは一攫千金の夢を抱いて。そして大抵は短期滞在の予定が、いつしか現地に根を張り、移民ISSEIとなっていった。

ハワイへ漂流ではなく自らの意思で渡った最初の方々は「元年者(1868)」と呼ばれ、その後ハワイ王国カラカウア王の依頼で官民移民が始まり、1885〜94年の間に渡った人は述べ29,000人、月26日(1日12h)3年契約のサトウキビ農園に入植。1900年にハワイがアメリカ本土に統合されてからは自由移民として、更に滞在が長期化した独身男性は故郷から「写真花嫁」を呼び寄せ、その数はハワイ2万、本土1万人とも言われるとか(その名も"Picture Bride"という映画あり。工藤夕貴主演)。

アメリカ本土では西海岸への移民が増えてゆき、鉄道、製材所、農業以外にもschool boyとして、現地家庭に仕えながら夜間で勉学に励む若者も。家業の伊万里焼を広めようと夢見てサンフランシスコに渡り、うまくゆかずにスクールボーイをしているうちに洋菓子に興味を持ったのが森永太一郎。それが森永製菓誕生秘話。他にもキッコーマンの創業者一族の人も戦前の一時期にいたという話を聞いた事が。確かに今もKikkoman USAの本社はサンフランシスコ。
さて北米ばかりではなく、南米への入植者も増加。国策移住として、ブラジルのアリアンサ計画移住地(現在でもサンパウロからバスで10h以上!)等が有名。鳥取、信濃、富山、熊本出身者が多かった由。戦後1950年代に15歳で家族とともにサンパウロへ渡り、コーヒー農園で働きながら陸上競技選手として活躍、ブラジル遠征中の力道山の目に留まったのがアントニオ猪木氏ですな👊

さて時は1941年12/7(日本時間8)、Pearl Harborにより、北米西海岸にいた日系人12万人(うち1/3は日本生まれの1世)は、スパイ容疑で全財産没収の上、手荷物2つで砂漠の中の日系人強制収容所へ送られる事に(貼り紙写真↓参照)。人口の1/3が日系人だったハワイは主導的立場の人のみ収容された(本土でも日系新聞社関係者、日本語学校教師、お坊さん、三井や横浜正金等銀行員、日系商店店主等、コミュニティリーダーと目星をつけられた方々は速攻でFBIに連行)。南米日系人にも北米へ強制連行の上、収容された方々がいる。
収容所暮らしは過酷な強制労働があった訳ではなく、医師や看護師、教師等の資格を活かして働けたり、子供の学校も設置されていたが、監視塔のライフルは常に内側を向いていたのだった(暴動の際や柵の外に物を拾いに行った人に対して発砲されている)。そんな中で日系2世が徴兵され、アメリカ軍兵士として欧州戦線へ(442連隊や100大隊)。テキサス部隊救出やダッハウ強制収容所開放で知られている。戦闘で右腕を失った故ダニエル・建・イノウエ氏は、日系人初の連邦議員となった。
そして1988年になって漸く、時のレーガン大統領により、市民の自由法(Civil Liberties Act of 1988)に署名がなされ、日本人日系人収容者の生存者へ謝罪と共に、1人当たり2万ドルの補償金が支払われた。「Nidoto Nai Yoni」
(カナダやメキシコでも日系人立ち退き政策で、多くの方が収容所暮らしを余儀なくされた。イギリス連邦、オーストラリアやニュージーランドでも実施された。この辺り、タイミング的に改めて色々考えさせられる。戦争は敵味方の白黒で片付けられる問題ではなく、狭間に陥る立場の方々を更にどん底に突き落とすのですね。そしてどう行動すれば良いか正解も無い)

日本からの移民の最後の船、日本丸はブラジルサントスに向けて出港、1973年の事だった。移住者へ移住前後の宿泊斡旋、手続きで代理店的な役割を担ったのが移民宿で、熊本屋、廣島屋、長野屋等がかつて横浜にはあったとか。
そして現在、既に6〜7世が生まれている中、LAのNisei Week、バンクーバーのパウエル祭り、ハワイやアルゼンチンでの盆踊りなど、日系に因んだお祭りが今なお各地で開催されている(シアトルでも夏に盆踊りがある。ただしこの2年はオンライン開催)。

他にも展示物についてあれやこれや、よもやま話はあったのだけれど、今回はこのぐらいで。個人的には2世の活躍で442を例に出すのならば、強制収容の不当性を身を挺して訴えたフレッド・コレマツ、ミノル・ヤスイ(よろずやの安井商會の再現展示がある位なら)等を紹介しても良かったのではと感じた。あと徴兵忌避者No-No Boysも。

リニューアル後はもっと立体的に?リアルな展示にしたり、日系人日系社会の変遷に関する解説パネル、終戦直後の日系社会から日本への支援コーナー(ララ物資?)、日本と海外の絆に関する展示とか、様々な改編があるらしいです。写真はこれまで訪れた中からコラージュにて(撮影可の物のみ)。

追記。「勝ち組」と「負け組」の語源ですが、その昔戦後直後のブラジルで、短波放送も届かず情報が錯綜したあまり、日本が戦争に勝ったと信じた人々が「勝ち組」、負けたという情報を得ていた人々が「負け組」と呼ばれ、双方との間で激しい抗争が起こり死者が出たという事があったそうです。今の言葉のイメージとは真逆というか…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?