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サクランボとの一期一会

在宅勤務中も、家の周りは緑が豊かなせいか、休憩時間は思う存分リフレッシュすることが出来た。
ただ縁側で緑を見つめる事もあれば、畳でたれぱんだのように少しうたた寝をする事もある。特に、庭にあるサクランボの木になっているサクランボを取る時には、童心に帰ったような気持ちになり、とても楽しい。

今週は梅雨が近いのか、一日雨が降る日があった。雨の日は基本的に家で過ごす事が多く、ただ雨が降り続ける様子を縁側で見つめるだけであった。
次の日は快晴。これを逃すと、また雨が降る日が続くようだったので、布団カバーを干したり、畑の雑草を少し取ったり、近所のおばちゃんとお話をする。ああ、そう言えばサクランボの木はどうなっているのだろうか?そう思って、庭のサクランボの木を見ると、つい先日まで沢山なっていた実がほとんどなくなっていた。

恐らく昨日の雨でほとんど落ちてしまったのだろう。思い返してみると一瞬の出来事であった。今までサクランボというものをスーパーでしか見た事がなかった私は、そもそも木からサクランボがなる事に驚いた。そして、とにかく嬉しくて、暇さえあればサクランボを取って食べていた。
しばらくはサクランボがなっているものだと考えていた為、一週間も満たなかった実りの期間に寂しさを覚えた。しかし、自然の中で花が咲いて枯れていく事を考えれば、実をいつしかは雨で落ちたり、生き物が食べたりして無くなるものなのだ。ふとそんな事を考えた時に、人間同士に限らず、自然や生き物、全ての出会いは一期一会だ、と感じた。

自宅の近くに繁華街やコンビニ、スーパーがない事もあり、食事はほとんど自炊するようになっていた。たまに行くスーパーでは、白菜や大根など旬の野菜ではないものも販売されている。サクランボとの一瞬の時間を経験した私は、その白菜を見て、便利ではあるものの、違和感を感じた。
トマトや白菜が年中スーパーに並ぶのは、他でもない農家さんの努力である事は周知の事実であるが、私は今まで旬でない野菜もスーパーに並んでいる事が当たり前のように感じていたのだ。
最近の子どもは魚の切り身が海を泳いでいると思っているらしい、とたまに聞く。たしかにこの例は極端かもしれないが、魚や鳥、野菜など食材として販売されているものに対する経験や体験がないと、そのように考えてもおかしくないだろう。実際に私はサクランボはイチゴのようになるものだ、とつい最近まで考えていた。だからと言って、現代における便利さを否定するつもりもない。

在宅勤務が始まって初めての週末、家が職場となった事もあり、何となく休日という感覚もなく、落ち着かなかった。心の中がずっとモヤモヤしている。この感覚は何だろう?と考えていると、会社に出勤するようになればモヤモヤも解消するのでは?と感じた。そうなのか?と踏みとどまって自問していくと、0か100かのような、そんな分かりきった答えを私は求めていない事に気付いた。
そうなのだ、私の今の課題は「私の生活」の中にいかに仕事を入れ込んでいくかという事なのだ。出勤という行為において強制的に分離されていた世界が突然融合するようになった。しかも相手は自然。圧倒的に強大な力を持つ自然に対して、人間的思考や世界をいかに入れ込んでいくのか。まるで森に迷い込んだ原始人の気持ちだった。

自らも気付かないうちに、永遠さや便利さを当たり前のように感じてしまう。私もきっとサクランボとの経験がなければ、一期一会のような一瞬一瞬の愛おしさを改めて感じる事は出来なかったかもしれない。
全ては巡り巡っている、そんな事を考えていると、美味しいサクランボを食べれたことは本当に有難い事である。そして私の畑には、先日まいた野菜の種たちが少しづつ芽を出してきた。

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