見出し画像

我が家に作品がやって来た

夏以降、生活がガラリと変化したが、暑さが徐々に和らいでいくと共に、生活リズムにも馴染んできた。
朝はだいたい早めに起きて庭作業を行うか、のんびり起きてそのまま会社に出勤するかのどちらかだが、会社は歩いて15分以内にある場所なので、晴れた日はのんびり自転車や徒歩で会社に向かう。農作物やそれらの加工品、動物のお世話と秋の繫忙期ともなればやる事は沢山ある。とは言え、心穏やかに1つづつ作業がこなされていく。

会社の人は皆、ワイルドでハーブなどが生えていると、すぐに嗅いだり、口にしたりする。お昼ご飯の時には、ハーブを摘んできて「どんな味になるか、試しに飲んでみよう」とお茶を入れる。私も最初は少し動揺したものの、だんだんとハードルが下がってきたのか、知らない葉っぱはすぐに匂いを嗅ぐようになった。最近では庭で採れるドクダミをどうやってブレンドしたら美味しいのか考えている。

「ここは素材が揃っているから、やろうと思えば何でも出来る」と会社のある人は言った。その時は、きちんとその意味を受け取れていなかったが、きっとそれは根性論のような話ではなく、アイディアとそれを具現化する手法の問題の話だったのだろう。日々、私達が触れるものはどんなモノで、何と相性が良いのか、本やネット、誰かに聞いた事ではないにしても、些細な挑戦が確実に自らの力となるのだ。
久しぶりに舞台の手伝いをしに街中に出た時、スプレーボトルのストッパーがなくて、ストッパー代わりになるものが無いか、皆で考えた。ふと5分ほど前に捨ててた紙ゴミを思い出し、それをノズルの間に詰めれば、ストッパー代わりになるのではないか?と思い、提案した。「なるほど」と周りの人が言っている様子を見て、今の生活で培われているモノの大きさを知った。

私の住んでいる古民家は1階がカフェになったり、イベントスペースになる空間だ。その前提で設備も整えられている為、1階の縁側の廊下にはカーテンはなく、外からでも中の様子が分かる。加えて、集落の人は私たちの様子をよく観察しているので、お庭の雑草を刈っただけでもすぐにその変化に気付く。
古民家の中の様子が外からでも分かる事もあり、私はあまり日常的に1階を使う事がない。とは言え、とても良い空間であることは確かなので、何か良い方法はないか?と考えるようになった。
ある日、縁側って舞台っぽいなと思った時、「ああ、あの空間を劇場やギャラリーとして捉えれば良いのか」と気が付いた。主な観客は集落の人。その人達に向けて、外からやって来たアーティストの作品を置いたり、上演する事で新しいコミュニティや場所を作り出せるかもしれない。そう考えた私は早速、知り合いのアーティストに相談し、作品を置いてもらうことになった。

それがほんの1~2週間前の話で、気付けば屋外屋内に3点作品が置かれている。作品を設置してくれたアーティストはいずれも同じ人で、彼は近くの美術大学に通う学生だ。彼とは小学校の同級生で、たまにFacebookで連絡が来たり、私の企画演出をした舞台を見に来てくれる人だった。ある時、彼が今通っている大学を中退して美大に入りなおすという話を聞き、そこから定期的に連絡を取り合うようになった。

作家である永島慎太郎は、大学で彫刻作品を制作している。主に木工作品がメインで、基本的には手彫りで作品を作っている。彼は私とは異なるベクトルで不器用だ。永島は大事な所で失敗する、手は早いが粗さが目立つ、少し頭でっかちで会話の仕方が大正時代の書生のような人だ。(これを本人に言うと「ヒドイ」と言われた)恐らく、私も同級生として少しムキになっているのかもしれない。とは言え、そうやって考えを改め直そうとする度に、彼はまた何か起こす。
そんな彼だからこそ、最新の3Dプリンターを駆使して制作するような彫刻ではなく、真正面からの手彫りを手法として選ぶのには納得がいく。

画像3

「むしかんのん」
ヒノキ、家具塗料
6本のあしにやどるほとけの心

最初に設置された作品はこの作品だ。私が古民家で永島と会話をしている時に、ふと現れたムカデを迷いもなくトングで掴んでトイレに流した様子を見た永島がそのムカデの供養のために設置すると言い出したものだ。次の日、永島は早速この作品を持って現れた。
屋内ではなく、屋外に設置した方が面白いように思え、畑の入り口に設置した。

画像6

「ぼうずのチネマコ」
ヒノキ、柿渋
おふざけも見る角度によって、お祈りにみえたりしませんか?

郵便ポストの上に置いたこの作品は、上下で違う顔を持つ作品である。一つは虫の蛹、もう一つはお坊さんの合掌。タイトルを見た瞬間「ダサいな」と感じてしまった私だが、手彫りの彫刻作品と聞くと真正面なイメージを持つ事に対して、それを超えていくかのような遊びがこの作品には込められているのかもしれない。それを証明するかのように、この作品をまじまじと見る人は皆、少し目がキラキラしている。

画像1

画像2

「土びだしぼうや」
ベニヤ合板、アクリル絵具
地面をけずられて失われた精霊もとおります

この作品は私が一目見て、「これ、設置する」と言い出したものだ。まず、飛び出し坊やが持つ強さが大きく、さらにその表象をズラしている事でインパクトが強い。
このズレに対して永島は「断層」と言った。なるほど、これはとんでもない作品かもしれない。彼の作品は手作業である事や祈り、魂などがモチーフとなっている事から土着的とも言える。そんな彼の思考からは逆行するような「断層」という言葉が出てきた時、この作品や彼自身に対して可能性を感じた。

画像4

画像5

「魚面菜」
ヒノキ、アクリル絵具
野菜と魚は見た目のかたちも、料理の味も相性がとってもよいです

先ほどの飛び出し坊やとは相まって、この作品はとてもホッコリしている。そのまま過ぎるキャプションには、少しツッコミを入れてしまいそうになったが、実際に本の近くに置いてみると、何となく内容が馴染んでいく感覚がある。
昨年、私が修士論文を執筆している際に、彼と連絡を取り合う事が何度かあった。その時にエマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学』や國分功一郎『中動態の世界』などを挙げていた事や淡路島の農家にインターンに行った話を聞いていたので、「自然」というものが彼の中で大きな影響力を持っている事は感じていた。だから、魚と野菜が一体になったこの作品は、植物や野菜がろ過しか水の中で魚が生きて、魚が出した糞などを植物や野菜が養分とするような「循環」の流れをコミカルに見せているように思えた。
しかし、いざ本の近くに作品を設置してみると、それは野菜と魚だけの問題ではなく、それを調理して食べる私達も含まれた問題のように感じ取る事も出来て、「ダサい」とつい一蹴してしまいそうなユーモアさえも、感服せざるおえないように思えた。

永島は現在3回生で来年には卒業を控えている。作品の話をしながら、大学の先生は作品を見てどんな反応なのか聞いた。すると「新種のアートではないけれど、自然と精通したアートの時代が来るとは思う」と言う反応らしく、作品の核となる祈りや虫、自然などについてはあまり議論していないらしい。
確かに、手彫りで尚且つ、祈りや魂と言われると宗教のようなイメージを連想してしまう。しかし、彼のよく話を聞いてみると、仏教や特定の宗教を何か意識している訳ではなく、むしろその逆で個々のささやかで自由な余白を大事にしている事が分かった。

農作業をしていると日々感じるが、ネットも電気もない昔の人々の生活はアイディアに溢れている。収穫した野菜の保存方法一つでも、冷蔵庫を使用せずに土や雪に埋める事、色んな葉っぱをお茶にして飲んだ事、あらゆるモノがアイディアでそれが今でも受け継がれている。街中に暮らしていると、工夫して暮らす事を忘れてしまいがちだが、古民家での空間や作品を通じて、それぞれの余白が次なるアイディアの源泉になっている事を痛感した。



100円からサポートを受け付けております。こちらの記事が気に入った方は、サポートして頂けると幸いです。よろしくお願いします!