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藤原辰史『食べるとはどういうことか』

今年に入ってから、「循環」が生き物と関わる上でも、作品の中でも私の中でキーワードになっている。当初はドーキンスの『利己的な遺伝子』などの生物学の視点から情報を収集していたが、最近は専ら、発酵や分解、食べ物系の本をよく読む。

この本に辿り着いた過程を話そうと思うと、いつも以上に長い。
初めはアンスティチュ・フランセ日本が開催した第8回「哲学の夕べ」オンライン・エディション:「植物の生」を視聴したことだった。エマヌエーレ・コッチャ氏が執筆した『植物の生の哲学』を元に哲学者の星野太と写真家の山本渉による対談で行われたセミナーだった。

その対談の話の中で、藤原辰史氏の『分解の哲学』が紹介された。この時期はとにかく色々知りたい時期だったので、紹介された本は大体手に入れていた。
後日、藤原辰史氏の『分解の哲学』を読んだ時に、「循環」というキーワードが歴史的な視点で書かれており、新しい発見にワクワクした。今までは「循環」と言うと、自然的な暖かい巡りのようなイメージしか持っていなかったのだ。

ナチズムやスターリニズムを振り切ったうえで、なおも生命と人間社会の多元的で連鎖的なふるまいをとらえるためには、どうすれば良いだろう。「国民」とか「一体性」といった粘着性を取り除きながら、他方で、各所と接続が可能な、いわば身体を飛び出た神経回路的な概念が必要であることも一方で感じた。さもなければ、たちまち労働という荘厳な生命循環過程を重視して、国民の統一をはかったナチスの罠にはまってしまう。

藤原 辰史. 分解の哲学腐敗と発酵をめぐる思考 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.227-231). Kindle 版.

私が用いようとしている「循環」というキーワードの背景にはナチズムやスターリニズムがある事をこの本から知った時は、驚く反面、少しホッとした。なぜなら、私達は何かしらの表現者である以上、自らが行おうとする表現の良い面、悪い面どちらも知った上で、人に伝えたり、表現する事が重要なのだ。
学部の卒論では観客論を執筆した。その際に、当時の担当教員の先生から教えて頂いた本の中の一つに辻田真佐憲著『たのしいプロパガンダ』があった。この本は所謂「プロパガンダ」と言われる作品がどんな戦略で観客(国民)に伝播していったのか、日本やドイツ、中国、アメリカ、北朝鮮など様々な例を挙げて紹介されている。

表現を行う事は毒にも薬にもなる事だが、どの点が毒で、どの点が薬になるのか、それを知っているのと知っていないのでは大きな違いが出てくる。

少し話は飛んでしまったが、藤原辰史氏の『分解の哲学』に戻る。この本は「循環」以外にも、おもちゃの積み木から分解を思考した話など、「分解」に関わる話が沢山あり、とても勉強になった一冊だ。

後日、何かの縁で私はこの著者と繋がっているのか、同じ大学院のゼミの人が『ナチスのキッチン』を参考文献として発表していた。

同じような時期に大学院の教授から「料理が出来ると面白いかもよ?」と言われていた事もあり、こちらも図書館で借りて読んだのだ。
私は普段、両親と暮らしている為、あまり料理をすることはない。一番よく作る料理は親子丼か雑炊である。あとはアボガドのグチャグチャ。(アボガドと豆腐とごま油と醤油を混ぜたもの)
基本的に料理を作っていないので、「キッチン」「料理を行うこと」にどんな思考や戦略があったのか知りたくて手に取った。私は生まれてからずっとシステムキッチンが標準イメージとして搭載されている。だからこそ、それがどんな背景で構築されたのか知ることが出来たのは大きな収穫であった。その後、また親子丼を作ろうとして、いつもの濃縮白だしを手に取った時に5分ほど「どうしてこれは濃縮される必要があったのか?」考えた時があったのも嬉しいお土産だろう。

同じ著者の本を2冊も読んでいると、著者と問題意識は異なれど、私も彼と同じような興味範囲であることが分かってくる。もう少し、同じ著者を追っかけてみようと思い、本を調べていた時に『食べるとはどういうことか』という当時の私にドンピシャな本を見付けたのだ。

この本は12歳から18歳までの8名の中高生達と、著者が一緒に3つの質問に対してみんなでディスカッションを行った内容がこの本には収められている。その3つの質問とは以下の質問である。

◎いままで食べたなかで一番おいしかったものは?
◎「食べる」とはどこまで「食べる」なのか?
◎「食べること」はこれからどうなるのか?

藤原辰史. 食べるとはどういうことか (Japanese Edition) (Kindle の位置No.9-11). Kindle 版.

初めの質問である「いままで食べたなかで一番おいしかったものは?」に答えていく中高生に対して著者は「いいね〜」とか「驚いた!」とか(父親が作ったマグロの浸け丼と答えた人に対して)「どうしてお店じゃなくてお父さんが作ったマグロの浸け丼なの?」と聞いたり、かなりフランクな姿勢でリアクションしていく。
同じ本の中で、著者は自らが中高生から学んでいく姿勢が大事だと述べる部分もあり、この本は「食べるとはどういうことか」という問いを切り口に哲学的な思考過程のエッセンスを凝縮したような本だ、と感じた。

例えば、著者が「Wienun?」という言葉を訳すのに6時間掛けた事を話す。その上で、徹底的に論じることが哲学の営みである、と中高生に伝える。他にも一つの議論に対して自らの中で対立意見を持つ事について話す。
著者が中高生とのディスカッションの要所要所で哲学的な思考の話を行うと、中高生たちの議論がどんどん深まっていく。

私が感動したのは、「食べることは生理的欲求と文化的な欲求があり、ただ食べるだけでなく、自分に合ったもの、適応するものを求めるうちにそれが文化と変化する」と参加者の子が発言したことだ。
他にも「人間とは何か」という問いに対して、「身体がそこにあったから、人格が生まれた。人間という乗り物に乗っている感じ」と発言した子がいた。ふと、リチャード・ドーキンスと同じような事言ってる!と感じ、つくづく考えることに年齢は関係ないのだ、と実感させられた。

そんな素晴らしいディスカッションを繰り広げる中高生に著者は「この話を本にするなら〜」とか「俺もかっこよくなりたい」と言ってさらにドライブを掛ける。実際にディスカッションの場を見ていないが、きっと凄い時間だったに違いない。

藤原氏の哲学的なエッセンスの注入は最後まで抜かりない。著者は研究における身体感覚の重要性を中高生に話しつつも、一方でこんな助言もしている。

そもそも初発の問いというのは、言葉にならない怒りとか、喜びとか、悲しみとか、からだに根ざした感情が必ず伴っています。初発の感覚抜きの冷静な叙述は、緊張感がなく、訴える力も弱い。
ただ注意しなければならないのは、その感情は何かと思考を邪魔するということ。なぜかというと、純粋にあるものを見たいと思ったときに、そういった感情があると、本来はこうあるべきだった自分にとって不都合な真実が見えなくなるんですね。ここからは訓練で、心は熱いままで、頭はできるだけ冷静に、予見が入らないようにものを見る。

藤原辰史. 食べるとはどういうことか (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1847-1850). Kindle 版.

「心は熱いままに、頭はできるだけ冷静に」でいる事が感覚的に重要だと考えつつも、こうして言葉にされているのを見たのは初めてだった。
感情とは中々難しいもので、気付かないうちにコントロールが効かなくなってしまうことが多々ある。私は学部時代の演技の授業で少し泣いてみせるシーンで何故か涙が止まらず、結局1時間ほどずっと泣いてしまったのは苦い思い出である。

ふと、この本を読み終えた後に別の授業で教授が話していた「初期衝動を大事にする」という言葉を思い出した。私は初めて演劇を作った作品はまさに「食べること」をテーマに扱った作品だった。なんか戻ってきちゃったなぁ、と思いながらも、今あの作品を再演するならどうしようかな?と考えてしまう。
当時は食物を食べることよりもカニバリズムに興味があった。昔付き合っていた彼氏の腕に歯型を付けて、それが日に日に青く滲んでいくのが個人的にワクワクする経験だった。そんな事を思い出すと、ふと「食べる事」とは世界と繋がる行為なのであれば、私は「食べる事」を通じて人間と繋がりたかったのかもしれないと、考えた。我ながら面白いぐらい不器用さが滲み出ている手法だと感じる。

『食べるとはどういうことか』を読み進める中で、点滴やチューブから栄養をもらうこと、それから完全栄養食の話もあった。その時に、よくご高齢の人でもうご飯が食べれなくなって弱ってしまうのは、「食べる」事を通じて世界と交わる事が出来なくなってしまったからかもしれない、と考えた。人間は人間社会の中でなるべく清潔に生きることを考えるけど、実際は本当に多くの生き物と循環を行いながら生きている。そう思うと「食べる事」は本当に奥深い。

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