夏になった瞬間
夏がくると必ず思い出すことがある。
それはなんていうことはない風景。中学生のころ、自転車で部活へ行くときのこと。
夏休みの練習で、町のなかほどにある体育館へ毎日昼過ぎに行っていた。
そのときの、自転車のサドルにまたがっていた感触とか、太陽の照りつける強さとかをなんとなく思い出す。
*
その記憶はそれで終わっていて、自転車に乗っていた記憶は、別の記憶へとつながる。
中学生になると自転車通学が始まった。ぼくが変速ギアの自転車にまたがると、決まって当時健在だったばあちゃんが家の外まで見送りに出ていた。
家の中の狭い通路から自転車を外へ出し、それなりの量の車が行き交う県道へペダルを漕ぎ出す。背中から「いってらっしゃい」とばあちゃんの声。
50メートルくらい走ってから後ろを振り返ると、ばあちゃんはまだ表に立って自分のことを見送っていた。その姿を見て、ぼくも後ろを見ながら手を振る。
また50メートルくらい走ってから後ろを振り返ると、まだばあちゃんは表に立っている。その姿を見て、またぼくも手を振る。
県道はまっすぐな道が500メートルくらい続いていた。
そのまっすぐな道が終わるまで、振り返っては手を振り、振り返っては手を振るというの繰り返していた。
*
中学一年の4月が慌ただしく終わると、ばあちゃんが「もう後ろ振りかえらんでいいよ」と言った。「あぶないから」
「わかった」とこたえて、それからは家を出たあとに振り返ることはなくなった。
その後、ばあちゃんはいつの間にか見送りに出なくなり、ぼくもひとりで家を出発するのが習慣になっていった。
ぼくが振り返らなくなってからも、ばあちゃんは見えなくなるまで外でみていたのだろうか。振り返らなくなったので、それはわからない。
*
ということで、夏になると決まって、ばあちゃんが家の外まで見送りに出てきた春先の通学のことを思い出す。
そして不思議なことに、思い出す最初の風景は、ぼくの姿を眺めるばあちゃんからの視点なのだ。
自転車を漕いでいるぼくは一度も振り返ることもなく進んでいくのだけど、見えなくなる寸前に視点が自分に変わり、ばあちゃんのほうへ振り返ってみる。
そこには、視界に小さく残るばあちゃんの姿。
その瞬間に、「あんなこと言って、ばあちゃんは手を振ってほしかったんだな」とふと気づいてしまう。
だから夏になった瞬間は、いつも少し悲しい気持ちになる。
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