国語科教員になりたかった私の話3「山の学校を経て」

 端的に言うと、拗ねていた。
 昨年度まで面白くて楽しかったはずの国語に興味を持つことができなくなっていた。

 理由は単純。
 担当がK先生ではなくなったからである。
 普通に考えれば、担任でもない限り続投ということはないのだが、十代前半の私は担当教員が変わるということをまったく想定していなかったのである。
 最後だからということでK先生は本を配ってくれたはずなのに、愚かだ。

 中学二年生になったH組の国語科担当教員は、T先生だった。
 大学院を卒業後この学校に着任して三年目、新三年生であるところのK組の担任であった。当時27歳。

 T先生は、男子校出身だからだろうか、男子生徒をいじることが多く、いじっている雰囲気も男子同士で許される独特の空気があった。言いたいことをはっきりと言う先生で、そのためか女子生徒よりも男子生徒からの人気が高かった。

 とは言うものの、私はK先生のことしか考えておらず、T先生だろうが他の先生だろうが、大した興味がなかった。
 授業中、とても失礼なクソガキだった私は、教科書を読み進めたり、小説を書いたりしていた。この頃から創作活動を始めた。

 さて、一学期をこんな感じで過ごし、夏休みに突入。
 中学二年生の恒例行事は、「山の学校」。一学期の体育の授業で行われるスポーツテストの結果を元に、槍ヶ岳・白馬・唐松の三つのランクのコースに分けられ、南アルプスの山を登るというイベントだった。
 この頃既にインドア派の素質は十分にあった私ではあるが、実は意外なことに体育はとても得意な科目だった。特に陸上競技のジャンプ系の競技はトップクラスで、クラス内であまり目立たない生徒であったものの体育祭では重宝された。
 つまり、流されるままでいると、一番キツイ山である槍ヶ岳に登らされることになる。
 外泊も嫌い、自然と触れ合うのも嫌い。しかもコースによって泊数が違い槍ヶ岳コースは一番日程が長い。
 そこで私は嘘を吐いた。膝を負傷しているので一番下の唐松コースにして欲しいと申告したのである。実際には半分くらい本当なのであるが(中学一年時の「海の学校」という遠泳イベントで膝を負傷している)、この時にはサポーターを着けなくても問題はなくなっていて登ろうと思えば登ることができたのであるが、とにかく嫌だという気持ちが強く、私はのんびりコースに編成してもらった(しかしそれでも出発前日に家でごねるという始末である)。

 「山の学校」当日、唐松コースの引率の先生の一人にT先生がいた。
 特に嫌いだとか好きだとかいう感情を抱いてはいなかったのだが、ここにきてやっとT先生とのコミュニケーションが増えた。
 道中はもちろん、宿泊先でもT先生とたくさん話した。先生になった理由を聞いたり、恋愛の話までした。すると、びっくりするほど話がはずんだ。今考えると、ただの人見知りをしていただけだったのかもしれない。

 雑談時の一瞬の静かな時間に、
「天使が通った。」と私が言うと、
「とうとう見えてはいけないものが見えちゃった?この辛い登山で。」
「西田、イイ感じだよ。」
と返された。こんな感じで、以前よりもかなり扱いが雑になった。

 先生は、山頂で日の出を見るために早起きをして外出している時も、「早く帰りたい。」と言うような、決して熱血なタイプの教員ではなかった。しかし、そこが私にとって心地が良かったのかもしれない。

下山する頃には私はすっかりT先生に懐いていて、二学期からの授業中、男子に混ざって私もいじられるようになった。


(国語科教員になりたかった私の話4に続く。)

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