島本理生『ファースト・ラヴ』に記されたとある被害者の姿

もう、何年前だろうか。書評依頼が来たのをきっかけに、島本理生『ファースト・ラヴ』を読んだ。本当に驚いた。驚きと戸惑いがあった。
そこに私がいたからだ。
その書評を加筆・修正しながら、またここでも紹介したい。
就活中の女子大生が父親を刺殺した。臨床心理士の真壁由紀は、この事件を題材にしたノンフィクションの執筆を依頼され、彼女や、彼女の周囲の人々と面会を重ねる―という帯のあらすじに目をやった上、カバーを読む。
そこには、こんなせりふが記されていた。「正直に言えば、私、噓つきなんです。自分に都合の悪いことがあると、頭がぼうっとなって、意識が飛んだり、噓ついたりしてしまうことがあって」
覚悟して、本を開く。
ああ、彼女は何らかの虐待を受けていたのだ。せりふだけで、私はもう、「わかって」しまっていた。だから、私は読み進めるのが怖かった。彼女の父親はもう死んでいる。私の義父も、死んでいる。彼女も私も、過去をさかのぼることなどできやしない。書評依頼を断ろうかと思った。しかし、逃げたくはなかった。この小説は、虐待を受けたかわいそうな美しい少年少女を、めずらしくてきらびやかなアクセサリーのように配置する創作物ではない、という確信があったから。
性的虐待と聞くと、強制性交などの「重い」被害だけを思い浮かべる人もいるだろう。実際、たくさんの保護者による子供への強制性交が報道されている。報道されていない虐待は、もっとたくさんある。
しかし、性的虐待の範囲はもっと幅広い。そしてどんな被害も被害は被害である。先に明かすと、彼女は、「強制性交をされたわけではない」。そうこの括弧内を、現実でもあらゆる性被害に関して、世間は結局感じているのではないか。重い軽いをジャッジして、善良な顔をして二次加害をする。そして、強制性交自体までも、結局は「殺されたわけではない」と、なるわけだ。全てにおいて、性的虐待の実態を軽んじているのではないか。そして、被害者本人が軽微な被害「なのに」自分がおかしいのは自分の責任だと追い詰められているのではないか。
この本は、そのようなケースを見事に描いている。彼女は、父親と、そして「善良な者」たちによる加担によって傷つき、そして自らも自分を傷つける生活を送る。そして、大人になって、最終的に、父親を、殺した。
真相を探る由紀は、優しい夫と小学生の子供と幸せな家庭を築いているように見える。仕事も順調だ。逮捕された彼女も「幸せそう」と面会した由紀に言う。
しかし絵に描いたような幸せだけで人生はできていない。距離を置いていた義弟と仕事を進めるうち、由紀の人生と見え隠れする心の澱が、センセーショナルな事件の中心にいる彼女とシンクロしていく。
理解できない気持ち悪さ、不快感。お互いを傷つけるしかない、若く危うい関係。密室の暴力。消える意思。彼女は噓を吐き続けてきた。由紀は責めずに、記憶を、事実を辿り、その根本を探っていく。
この本を読んだ私は……何も語ることができない気がした。あらゆる言葉が私の思考をよどませてしまったのだ。頭がぼうっとする。私も「噓つき」と言われてきた。その私が一体なにを言うことができるだろう。今やっと、少しずつ自分のために過去を記しているが、そこに、明瞭さは、ない。
ただ、この作品が注目されてほしいと思う。
記憶が混濁していく、なにも説明できない、噓つきで性的に放縦な「彼女」の感情と過去とその全てひとつひとつ、読まれてほしい。
繊細に編まれた物語が、ただ、読まれてほしい。


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