それは引っ越しではなく、

私がよく見る夢がある。
どこかに軟禁されていて、逃げようと頑張る夢。外に出ても「彼ら」は追いかけてくるから、私はあらゆる手段を使って必死に逃げる。見ない日はない、は言いすぎだが、少なくとも見ない月はない。

実際に私は、2回、「逃げた」ことがある。
どこかに軟禁されていたわけではないけれど、子供には大人のような移動の自由はないので、似たようなものかもしれない。子供は、保護者の保護の元で生活する。それが当たり前のことだからだ。勝手に他所の家に行ってはいけない。
そういえば、学校でもらった「こども110番」の電話番号の紙は、なんだか親に見られたらいけない気がして、こっそり捨てた。
もちろん、電話することなんてなかった。だって自分の部屋に電話機なんてないもの。

1回目、「逃げた」のは、4年生になったばかりのことだった。8ヶ月ほど住んだその家は、郊外のニュータウンの近くにある旧住宅街で、義父ことXの知り合いが所有している平屋の一軒家だった。経済的に厳しくなり、福岡市の博多からそこに転居したのだった。
幼稚園時代ぶりに自分の部屋ができて、引っ越したてのときは、私は喜んでいた。
花柄のロマンティックな壁紙、もともと持っていたベッドと机とテイストがぴったり合う上に、なんと、その部屋にはピアノまであった。幼稚園の頃、少しだけピアノを習っていたから、そのときの楽譜を引っ張り出して、弾いたりもした。
広い庭もあった。白樺の木がお気に入りで、少し登って、白樺の木が出てくる本の世界に浸ったりした。
家ばかりが続く静かな住宅街に、少し圧迫感は感じていたけれど、近所の公民館では友達が集まっていて、ドラえもんの漫画も読み放題だったし、学校もゆったりした敷地にぴかぴかの校舎で気に入っていた。広いホールにいろいろなものが展示してあって、図書室も広い。

ある夜、いつものXの不機嫌が始まったとき、なにかを察した母が、私に「荷物をまとめておくように」と言った。暴力から逃れるために数日外泊するのはよくあることだったから、私はいつもと同じように、少量の下着と、お気に入りの小物と、貯金箱に入れていた現金をまとめて、小さな白いリュックに入れた。
言い争う声が大きくなって、ちょっと覗いたら、母はズズズッと引きずられていた。私はその間をすり抜けて、靴を履いて、外に出た。近所の人が通報したらしくて、警察も来ていた。
母は2歳の弟を連れて出ようとしたが、力付くで弟を奪われ、命からがら裸足で庭に出てきた。私は、洗濯物干し場のスリッパを母に差し出した。用意がいいのだ。
パトカーが来てるのは、ちょっとわくわくした。赤く光るいつもの道。
たぶん、警官は説得したんだろうけど、でも、弟を取り戻すことはできなかった。
弟にとって実父であるXから、弟を取り上げることはできないのだ。たとえ、いまさっき妻に暴力をふるい、意識も不明瞭で、養育能力のない男でも。
そうして、私は保護され、迎えに来てくれた伯母の車で、「逃げた」。その先の話がこのみずいろである。
数週間後に再開した弟はガリガリに痩せていた。本来、ぷにぷにであるはず幼児が、ガリガリに痩せている姿は、あまりにも恐ろしかった。満足に食事も与えられてなかったのだろう。でも、それでも、なんの違法性も問われない。ああ、親権とは強力だ。


本当は、1回目に逃げ切れていたら、2回目は起こらなかった。2回目は6年生の、夏だった。
これが、家庭内暴力の恐ろしいところである。
よくあるスカッと話のように、一発殴られたらスパッと復讐して縁を切る、というわけにはいかない。
多少妻を殴ろうが、息子に食事を与えなかろうが、継娘を弄ぼうが、実際は、大抵は、なんの罪にも問われない。家庭内暴力の被害者は、逃げる気力を失っていく。訴える気力を失っていく。あらゆる方法で囚われていく。加害者は、社会、善良なる者をも使って被害者を捕らえる。

ただ、2回目があったことは不幸でもあるが、2回目でなんとか逃げおおせたのは幸運である。

それと、これも書いとこう。
2回目に逃げた数ヶ月ほど前、福岡市の児童相談所は、虐待の事実を知っていながら、私を保護しなかった。
「外傷などがないと」と、相談者は言われたらしい。

So it goes.

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