イグジステンス あるいは存在のイっちゃいそうな軽さ 【1/13】
いわば彼の魂をその少年のなかに投げ込んで、
彼の声で語り、彼の声で笑うのだ。
~サマセット・モーム 「人間の絆」~
エロ小説みたいな出だしで失礼。
「おら! おら! おら! おうら! おら! おら! おら!」
わたしはベッドに顔を押し付けるようにして、後ろから突かれていた。
飯田はいつもわたしをバックから突く。
たいていの場合、ほとんど濡れてないのに入れてくる。痛い。
はっきりいって、飯田とのセックスは苦痛だった。
わたしはスカートと下着を剥ぎ取られ、上半身はTシャツを着たまま。
飯田は、シャツも脱がず、ズボンを下げただけの格好。
いつも、ちゃんと脱がしてもくれないし、自分もちゃんと脱ぎはしない。
苦痛だけど、飯田とわたしは恋人同士なので、飯田が求めてきたら、それに応じなければならない。
「おら! おら !おら! おうら! おら! おら! おら!」
「うっ……ああんっ……あんっ……あああんっ」
ときどき、声を出してみた。できるだけウソっぽくないように。
飯田のセックスはアホまるだしだった。
とにかく、がんがんと、餅つきみたいに突き続ければいいと思っているらしい。
わたしは感じてるふりをしなけれないけない。
そうしないと、不機嫌になる。
飯田は暴力的な男ではなく、口でオラオラ言うだけなので、不機嫌になったからといって危険はない。
危険はないけど、不貞腐れてめんどうくさくなる。
「ああんっ……あっ……あっ……」
「ほうら、いいか? いいか? 気持ちいいかああ?」
ハアハア声で飯田が後ろから聞いてくる。
「いいよっ!」わたしは叫んだ「すっごくいいっ!」
「いきそうか?」
「いきそうっ!」
飯田が「いきそうか」と聞くときはつまり、自分がいきそう、ということだった。
で、自分がいくときは、わたしも同時にいかないと、収まらない。
だからわたしは、ぎゅうう、っと中の筋肉をひきしめて、腰をがくがくがくっと揺らし、思 いっきりイった素振りをしなければならない。
そうしないと、また拗ねる。
そういう男だった。
なにもかもが自分本意。というかわがまま。
というかしつけがなっていない子どものよう。
この男とつきあって長いけど、付き合い始めてからというもの、わたしは一度たりともこの男の思いやりというものを感じたことはない。
はじめて合った のは友達に誘われた飲み会で、その次に二人で『鳥貴族』に行ったが、そのときは『あ、ここは俺が払うから』と勘定を持ってくれた。
それ以降、飯田がわたしに何かをしてく れた、ということはまったくない。
部屋にやってきては、わたしをバックで攻めて、終わってタバコを吸って帰っていく。
あるいは、鳥貴族で晩御飯をたべる。
それが飯田との交際だった。
「いくっ……いくっ……いくっ……いくっ……いくうっ!」
わたしはいつものように、ぎゅうう、と意識して括約筋を締めた。
そして、ブルブルブルっと腰をベリーダンサーのように振って、飯田の目を楽しませてやる。
われながら、すごいサービス精神だ。
「おうっ………すげえすげえ……スゲエ締まる……うほっ……」
“うほっ”て、サルかこいつは。
わたしは力を抜いて、ニュルっとお尻を飯田のアレから逃がした。
「おうほっ………!」
飯田が超マヌケな声を出すと同時に、わたしの腰に熱いのをぶっかける……飯田は、コンドームをしたがらない。
『愛してるから』だそうだ。
学校に納入する パソコン機器を取り扱っている会社の営業をやっているというこの男の知能は、わたしの見積もりでは中学校2年生レベルだ。
というか、わたしはこれまでに中学校2年生レベル以上の男と付き合ったことがない。
わたしの少ない経験から言わせてもらうけど、日本全国の男の精神年齢というのは中学2年生レベルなんじゃないだろうか?
……と思っていたら、太平洋戦 争に負けたとき、マッカーサーが『日本人の平均精神年齢は12歳の少年』と 言っていたらしい。
マッカーサーは、わたしより点が辛い。
「いやあ……よかったよ……結衣」
「えっ」
マッカーサーのことを考えていたわたしは、飯田の声で我に返った。
「……最高だったよ……ほんと、最高だよ、結衣」
「ああ……うん……」これは、飯田なりの気の遣い方なのだろうか。「……わたしも……」
にやり、と飯田のアホ面が歪む。
“毎回もイッちまいやがって……このインランどスケベ女が”
と思っているに違いない。
“俺のテクニックに掛かればこんなもんよ”
とか思っているに違いない。
わたしのようなかわいい、きれいな女……スタイルも、自分で言うのもなんだが悪くない……を、バックでひいひい言わせて(苦労して言ってやってるんだ が)、不敵に“良かったよ”とつぶやく、そんな自分に酔っているのだろう。
飯田はわたしより3つ年上で、来年30歳になる。
少し腹が出てきている。
このあと、飯田はシャワーに行く。
わたしも一緒に行くときもあるが、今日はやめておいた。
そのあと、わたしもシャワーに行くかもしれない。
そのあと、二人で近所の居酒屋にでも出かけるかも知れない。
支払いは割り勘だ。まあ、それはいい。
飯田は貯金している。だからお金のムダ使いはしない。
そして、別れて、わたしはまたこの部屋にひとりで帰ってくる。
そして、テレビを見て、ネットとかをちらっと覗いて、ちょっと泣いてから寝る。
たぶんそうなる。
来週も、再来週も、来来週も。
泣きそうになったが、あと3時間くらいは我慢しないと。
このまま、違う人間になれたらいいのに、と最近よく思うようになった。
まあ飯田の存在だけがその理由ではないけれども、何もかもが面倒くさい。
仕事も、帰ってから寝るまでの時間も、一人で過ごす休日も、そして飯田といる時間も。
だってあいつ、「おらおら。パンパンパン。良かったぜ」だけのつま んない男だし。
いっそ、別れたらどうかな? と、自分でも思う。
飯田と別れたとして、失った彼の存在の大切さにはじめて気づく、なんていうのは……
明日の朝、東の空から真っ黒な朝日が昇ってくることくらいありえない。
消費財がまた5%に戻ることくらいありえない。
わたしが総理大臣のなんとかいうあの息子の奥さんになることくらいありえない。
鏡を見たら、わたしが十代にっていた、なんてことくら いありえない。
目覚めたたら突然、わたしが巨大な甲虫になっていた、というようなことくらいありえない。
沢尻エリカが次の朝ドラのヒロインになることくらいあり得ない。
いや、それらのこと以上に、ずっとありえない。
別れるなら、風呂から上がってきた飯田に即、別れを告げてもいい。
でも、それで、わたしはどうなるのだろうか?
新しく生まれ変わるのだろうか?
そんなわけはない。何も変わらない。
これを読んでいるあなたが男性なのか女性なのかは知らないけれども、性別を問わず誰にだって……そんな気持ちはわかるよね?
たとえば、仕事も、友達も、恋人も、家族や親類も放り出して、どこかに逃げ出してしまいたくなる。
ちょっと昔だったら夜行列車に乗って、日本海を観に行ったりしたい気分。
それどころでは収まらないから、連絡船に乗って津軽海峡を、いやいやもう、オ ホーツクでも何でもいいから、どこか果てしなく遠くに旅立ってしまいたい気分。
身分を証明するものを何もかも捨てて、髪型を変え、髪の色も染め替え、なんだったら整形しちゃってもいいけど、まったくの別人になって、誰も自分のこと を知らない街でなにもかもをやり直してしまいたい気分。
「シャンプー、使い切っちゃっていい~?」
ユニットバスから飯田の声。
どこかで逐電するなら、こいつを殺しちゃってからにしようか、とさえ思う。
でもわたしには明日、しなきゃならない仕事があって、クレジットカードも身分証明書も捨てたくなくて、縁を切りたくない友達や家族や親族がいる。
それらもろもろのことを積極的に「もういいや!」と捨て去ることができるくらい、わたしには切実な動機がない。
ただ、今の彼氏がアホというだけで、これから作る彼氏にも期待が持てないだけだ。
だからわたしは、「いいよ」と元気な声を作って部屋からユニットバスの飯田に答えた。