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【官能時代小説】手 籠 め 侍 【4/12】

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 ぐったりと腹這はらばいに横たわっていた紫乃のからだが、突然、敏捷に浮き上がった。

 そして百十郎の脇をすり抜けて障子を開け、全裸のまま前転する。
 まさに、山猫やまねこの動きだった。
 柴乃は隣室の床の間まで転がると、刀掛から打刀を両手でつかむ。
 
 その一瞬の動きを百十郎は寝間で胡座をかいたまま、感心したように見つめていた。
 自らの枕元に置かれた刀には、触れるどころか目もくれようとせずに。
 
 柴乃のさやから白刃が滑り出る。

 素裸すっぱだかの娘武者がその刃のきっさきを胡座をかいたままの百十郎に向けたまま、じり、じりと間合いを詰めていった。

「おいおい、どうしたってんだい? ……おめえの仇討ちは二年前に俺が済ませた、ってんだよ……まあ、お嬢ちゃんがあいつを追ってたってのはおれの預かり知らんことだったけどよ、行きがかり上……」

黙れ!

 汗で背中に、肩に、胸元に張り付いた乱れ髪。
 まだうっすらと桃色に染まった肌。
 百十郎によって乱された息も、まだ落ち着いていない。

 かすかな両の乳房も、あわい股間の茂みもすべてを曝け出した一糸まとわぬ姿にあっても、紫乃の構えにはまったく隙がない。
 百十郎を見据える目も怒りと憎しみに満ちていた。

「なんだよ……? これからおめえら姉弟は、仇討あだうちなど忘れて気楽に、心安く過ごせるんだぜ? それの一体、どこが気に入らねえ……? なあ、小僧……おえめもそう思わねえか?」

 と、百十郎が突然、天井を見上げた。

(……なにっ? ……き、気づかれていた?)

 天井裏に隠れていた慎之介が、すくみあがる。
 自らが覗いていた板の隙間から、百十郎が下卑た笑みを浮かべて自分を見上げるのが見えた。

「出て参れ、慎之介っ! ……わたしも、そこからそなたが覗いておったことは知っておる!」

 隣りの部屋から、紫乃が厳しい声で一喝した。

(あ、姉上にも? ……姉上にも気づかれていたのか? ……)

「まったく助平な小僧だなあ……てめえの姉ちゃんがなぶり倒されてるのをそんなところから覗き見しながら、ずっと千摺せんずりこいてたんだろ? ……てめえら姉弟、ほんとにどうかしてやがるぜ……へっへっへっ……」

「ゆ、ゆ……許せぬっ!」

 慎之介は脇差わきざしを抜くと逆手に持ち、左手を頭に載せ、垂直に構えた。

 そして、柄の梁から飛び出し、そのまま天井板を突き破る。
 落下した先には、百十郎のにやけ面が待ち構えていた。

 ……あとは落ちるに任せれば、あの面のど真ん中に刃のきっさきが……
 慎之介は「いける!」と確信した。

 が、次の瞬間、自分のからだが下に向けて落下しているのではなく、横に向かって飛んでいることに気付く。 

 遠く離れた国、英吉利えげれすの学者、尼通ニュートンが木から落ちる林檎りんごを見て万有引力を発見した、とされるのは、それより百年ほど前のことだったが、慎之介はすべもなく部屋の 壁に激しく身を打ち付けていた。

 何が起こったかわからず、あわて身を起こす。
 己の着物は蜘蛛の巣塗まみれだった。

 なんと、百十郎はどっかと布団のうえに座ったまま。

 座ったままの相手に、慎之介は軽々と投げ飛ばされたようだ。

 そこに全裸の紫乃が刀を中段に構えたまま、素早く飛び込んでくる。

「……わたしのかたきを殺したとなれば、貴様はわたしの仇の仇っ!」

 慎之介の眼に、姉の影法師が見えた。
 乱れ髪に全裸を晒し、刀を構えるその姿は夜叉やしゃそのものだった。

(あ、姉上……いくらなんでもその理屈は無茶苦茶ですっ……)

 投げ飛ばされたままの惨めな姿の慎之介には、とてもその想いを口にする勇気はなかった。

「おれとおめえは……どうやらからだ相性がいいらしいぜえ……もう仇討ちなんか忘れて、おれと風まかせの無頼ぶらい旅と洒落しゃれ込もうじゃねえか……」

「黙れ!!!」

 一喝する柴乃。

 そのとき、百十郎の手が、す、と脇差に伸びた。
 その脇差は……なんと、慎之介が取り落としたものだ。

「……黙れっ……黙れ黙れ黙れっ! き、貴様などにっ……」姉が呟く。「なんのために……わたしはっつ……」

「素直になろうぜ。さあさあ、その物騒なもんを脇に置いて、続きを楽しもうじゃねえか……」

「黙れと言っておろう!」

 紫乃のうごきはいつにもまして素早い……
 慎之介には、姉が刀を上段に振り上げる瞬間さえ見て取れなかったほどだ。

 びゅん、と刃が風を斬る。

 しかし、血飛沫ちしぶきは飛ばない。
 代わりに、紫乃は灯篭あんどんを真っ二つにしていた。

 そこにいたはずの百十郎は……?
 いまは紫乃の背後にいる。

 そして慎之介の脇差の頭を、姉の腰のじんのあたりに当てていた。

「かはっ……」

 信じられない、という様子で目を見開いた柴乃が、声にならない声をあげる。

「思ってたより速えな……気ぃ抜いてたら殺られるとこだったぜ……お嬢ちゃん」

 紫乃が、がちゃり、と音を立てて刀を落とす。
 そして、その場に両膝をついてしゃがみ込んだ。

 その首筋に、百十郎がぴたりと白刃のきっさきを押し付けた。

「……殺りたくはねえ……わかってるな?」

 腎を頭で打たれ、刀を取り落としてしゃがみ込んだ紫乃は、そこにきて正気の羞恥しゅうちを取り戻したようだ。

 自らの両肩を抱き、細い腕で晒していたささやかな乳房を隠す。
 しかし、燃えるような意志は損なわれていないようだ。
 肩ごしにきつと百十郎を睨みつけ、言い放つ。

「こっ……殺せっ……」

「そんなに死にてえのか? よせよせ……止めな」

 百十郎はすでににやけ面を浮かべ、恥じらいを思い出した柴乃の肢体を舐めまわすように眺めていた。 

「……好きにすればよかろう。あの奥方にしたように、わたしを弟の前ではずかしめるつもりか? ……命乞いのちごいいなどはせぬ。 いくら辱めを受けようと……この命ある限り、貴様を地獄の果てまで追い詰め……まずその魔羅まらを払い落としてから、十分に苦しませてから首を頂く……」

「……そいつは面白れえ……たまんねえぜ」

 そう言うと、百十郎は手にしていた小刀をぽい、と慎之介の元に投げ出す。

「ひっ……」

 どすん、と音を立てて、やいばが畳の上に突きたった。

「まだ殺る気があるか、小僧? ……屋根の上から降ってきやがるとは、さすがの俺も魂消たまげたぜ……なかなか根性があるじゃねえか、なあ?」

「……くっ……」

 畳の上に突きたった刀の柄は、慎之介に「早うつかめ」と誘うように揺れている。

 今、百十郎は丸腰だ……刀が誘うままに柄をつかみ、死に物狂いで斬りかかるべきか?

 慎之介は、揺れる刀の柄と、百十郎のにやけ面を交互に眺めながら考えた。
 そしてそこにきてはじめて……
 自分の腰が抜けており、立つこともままならないことに気付いた。

「まあ無理するこたあない……俺も一日に二人もガキを片端かたわにしたとあっちゃあ、明日の朝飯がまずくなる……やめ止めやめとけ」

「……おのれっ……」

 口ではそう言う慎之介だったが、刀に手を伸ばすつもりは端からはなかった。
 乳房を庇いながらうずくまる姉が、横目でいつもの冷たい目線を送りながら、言った。

「……不甲斐ふがいない……どこまでも情けない弟よ……」

「まあお嬢ちゃん、そんなに弟をいじめるなよ……命がしいのは当たりめえだ……」

 そう言うと百十郎は、布団の上に脱ぎ散らかしていたふんどしはかま、黒い小袖こそでを拾い集め、悠々と身に付けはじめた。

「に、逃げる気かっ!?」

 紫乃も百十郎に剥がされた浴衣を掻き抱き、裸身を隠しながら言う。

「ああ、こんなおっかねえ姉弟きょうでえがいる宿じゃあ、おちおち眠れやしねえや……お嬢ちゃん、おめえ、今度は俺をかたきとして追うつもりなんだろ?」

あたり前よ!」

 紫乃は素早く浴衣に袖を通すと、慌てて襟を寄せた。

「まったく、どうかしてるぜ……お嬢ちゃん、仇討ちに生きる以外の生き方を、もう忘れちまったんだろう? それ以外の生き方を知らねえだけだろう?」

「何とでも申せっ! ……逃げてもわたしは追うぞ……泥をすすってでもっ!」

 だらしなくではあるが、一応、着るものを身につけた百十郎が、はあ、とため息をつきながら枕元の打刀と脇差を取り、脇に差し込む。

「まあ好きにすりゃいいさ……さっきも言ったが、てめえらの仇、八代松右衛門は、俺が殺った。ここから北に三つばかしとうげを越えてさらに山奥に、饅鰻寺ま んもんじという古寺がある。そこの念甲ねんこうって坊主が松右衛門をとむらったはずだ……あのなまぐさ坊主に聞きゃあ、俺が言ったこと が本当かどうかわかるはずよ」

「ほざけ下郎っ!」

 浴衣の前を両手で合わせたまま、紫乃が叫ぶ。

「……俺を追いたければ追いな……おめえが仇を追うことだけを頼りに生きてるように、俺は追われることが楽しくて楽しくて仕方ねえんだ……今日、料理した あの母子を含め、一体、何人がこの俺の命を狙ってるやら、自分でもはっきりわからねえ……でも、俺にとっちゃあこれは遊戯あそびよ。お嬢ちゃんも、俺 道楽に……進んで加わってくれたってことさ」

 そのとき、にやりと笑った悪鬼の如き百十郎の顔が恐ろしかったこと……。
 慎之介は、その日の昼に浸かった沢の水より冷たいものに、全身を覆われたような気がした。

「……じゃあ、またな」

 百十郎はそう言い残すと……悠々と布団を踏みしめ、畳を踏みしめ、隣りの部屋の障子を開けて、出て行ってしまった。

 しばらく、しんと静寂が部屋を包む。
 慎之介は床の間で腰を抜かしたまま、萎れたようにしゃがみ込んだままの姉を見ていた。

 その肩が震えている。
 鼻を啜り込む音がする。

 慎之介は信じられなかった。
 柴乃が……あの姉が……泣いているのだ。

「あ、姉上っ……」

だまれっ! 言い訳など聞きとうないわこの臆病おくびょう者! 軟弱なんじゃく者!」

 取り付く島などなかった。

 しばらく、姉が涙をすすり込む音を聞きながら、慎之介は消え入りたいような気持ちで床の間で脚を投げ出していた。

 と、突然、紫乃が立ち上がり、背筋を伸ばして慎之介の前に立った。

 帯をしていない浴衣の前がはだけ、乳房の間と、臍と……股間のあわい茂みがはっきりと覗いている。

「……わたしはあの男を追う。そして隙を見て、仇の仇を討ってみせる! ……慎之介!」

「は、はいっ……あ、姉上っ!」

 茂みもあらわな姉の足元に、すがり付くように這いつくばる慎之介。

「そなたは……あの男が申しておった饅鰻寺まんもんじという寺へ向かえ! ……そして和尚の念甲ねんこうとやらに遭ってまいれ! 『手篭め侍』がほんとうにあの男に討たれたのか、とく()と見届けてくるのだっ!」

 羅刹らせつのごとき姉を前に、慎之介は異論をはさむ隙も与えられなかった。

「は、ははっ……で、では姉上……ど、こで……いつ、われわれは落ち合うのです?」

 打刀を拾い上げた柴乃が告げる。

「半月後……梅雨の雨が降り出して三日目、鬼百合おにゆり峠で落ち合う。たがいに命あらばな!」


「……それでわざわざこの山の中の古寺まで、岨道そばみちを抜けてやってこられたというわけか」

 蝋燭の炎が、ちらちらと揺れ、その年老いた僧の顔に浮かんだ凹凸おうとつの影をうねらせる。

 正面に座した慎之介は、その僧の顔をまともに見ることができなかった。

 剃り上げられた頭のいただきは、奇妙に盛り上がっている。
 そのちょうど真上に、地割じわれのような切り傷が見えた……
 まあ、それくらいは我慢できる。

 僧のあまりにも凹凸の多い顔立ちは、左右が余りにも不対象で、片端かたわじみている……
 まあ、それもまた我慢できる。

 しかし、もっともおぞましいのは……

「夜分に申し訳ございません。なにせ、山が予想以上に奥深かったもので……かなり道に迷うてしまいました。ただ、お話にだけ伺ったつもりでしたが、夕餉ゆうげまで……」

「たいしたものが出せなくて誠に申し訳ない。何分、このさびれた寺では、あれが精一杯でな」

 確かに、具のない汁に麦飯、ひと切れの香の物と、寂しい食事だった。
 しかし、紫乃と別れてから三日、ほとんど飲まず食わずだった慎之介には、みるほど旨かった。

「どうじゃ、今宵はもう遅い。闇夜にこの山奥の獣道けものみちをお帰りになるのも難儀じゃ……この荒れ寺でよければ、泊まっていかれてはどうか」

かたじけない……しかし、どうしても今夜中に、確かめておきたいのです。ここに、八代松右衛門が葬られているという事実を」

 しばしの間、間があった。

 蝋燭の火が揺れて、本堂の壁に本尊の巨大な影を映し出す。
 紅蓮ぐれんの炎を背に、目を見開きながら牙をむき出し、剣を捧げ持った不動明王だった。

 かなり古いものらしく、煤に塗れたその禍々まがまがしい姿は情けというものを知らぬように見える。

 蝋燭の火が揺れるたび、本堂の壁にその本尊の暗く巨大な影がうごめいた。

 今夜の風は強い。
 古寺のあちこちが、びゅう、と風が吹くたびにがたごと、と音を立てる。

「……声を聞いたところでは、そなたはまだお若いな……まだ、声がおとこに成りきっておらぬ……」

 慎之介は蛞蝓なめくじの感触を肌に感じたように、ぶるっ、と震えた。

「そ、それが……どうかいたしましたか?」

 その僧、念甲ねんこうは明らかにめくらだった。

 両のまなこに、まるで生きながらからすにでもつつかれたかのような、見るも無残な傷があり、閉じたまぶたは何層もの瘡蓋かさぶたに固められている。

 かく、ひどい有様だった。

 相手がめくらだとはわかっていても、その無残な傷が失われた目の代わりに慎之介の姿を捉えているようで、いかにも不気味だ。

「確かにここに、八代松右衛門と名乗っていた浪人者をとむらった墓がある……その、もう一人の侍が申していたように」

「蜂屋……蜂屋百十郎にてございます」

 にやりと笑った念甲の顔は、慎之介を震え上がらせた。
 目の上の瘡蓋かさぶたも、醜く歪む。

「その男が、そなたに“おれが八代松右衛門を討った”と言った……その男が言ったとおりに、この寺にその男の墓があることを、そなたはあらためる……それで、そなたはかたきが本当に死んだと、まことに知ることになりましょうか……?」

 いかにも僧侶らしい、わかるようでわからない話であった。
 慎之介は困惑するしかない。

「……そ、それ以外、何か手だてはあるでしょうか?」

「そなたは、かたきの顔も知らぬ。生きている姿も知らぬ。姉上の話でしか、その男が生きたあかしを知らぬ……ここで、そなたが見ることができるのは、かたきの名が刻まれた墓だけじゃ……それを知って、何になる?」

 慎之介は、この薄気味悪い僧侶の前から逃れたかった……一刻も早く。
 しかし怯えを気取けどらるのはいやだったので、いらついた調子で言った。

「わたしは姉に、“見て参れ”と言われたから来たまでのこと」

 ふ、ふ、ふ、と三回に分けて念甲が笑う。
 まるで怪談話だ。

 不吉さを払うために、慎之介が何か言おうとすると、念甲がつ、と顎を上げた。

香蓮こうれん

 す、と慎之介の背後の障子が空いた。
 ずっとそこに控えていたのだろうか、小柄で華奢きゃしゃ小坊主の姿があった。

 さきほど、慎之介に食事を出してくれたのも、その小坊主だ。
 めくら和尚の一切の身の回りの世話を、その小坊主が担っているらしい。

「はい、和尚様」

 慎之介はほんの一瞬、その姿を目にしただけだったが、これまた念甲とは別の意味で……ぞっとさせられた。
 それ程までに、美しい顔をした小僧だった。

 歳の頃は慎之介と同じか、もしくは一つ二つ下か。
 あおいまでの色白。
 半眼に、やけに長い伏せたまつげが目立つ。

 細い鼻筋、少し厚めの艶やかな唇が奇妙になまめかしく、剃髪されているせいでその頭のかたちの良さが際立っている。

(……おのれこの妖怪和尚……どうせこの美しい小坊主を衆道の相手として夜な夜な……)

 と、そこまで考えて、慎之介は慌ててそのみだらな考えを振り払った。
 どうもここのところ、蜂屋百十郎の毒気に当てられているようだ。

「慎之介どのを……寺の裏手まで……八代松右衛門の墓まで、ご案内してさしあげなさい」

「はい、和尚様」

 香蓮の声は、まるで密やかになるすずだった。

「では慎之介どの、案内はあの香蓮が……しかと見届けるとよろしい。そなたのかたきの墓を……わしはそろそろ休むとしよう……よければ風呂はどうかな。長旅でお疲れじゃろう……香蓮、慎之介どのに風呂の支度を……その後は……」

「はい、和尚様」

 和尚に答えたあと、香蓮は長い睫毛を伏せてうつむいた。

 その後は……何だというのだ?
 と、喉まで迫り上げて来た言葉を、慎之介は慌てて呑み込んだ。
 

 その後、慎之介は香蓮の持つ、まさに妖怪のような破れ提灯ちょうちんの灯りのもと、寺の裏手にある墓地へ向かった。

 鬱蒼うっそうとした森で覆い尽くされたその界隈には、夜も昼もないのかも知れない。
 闇がどっしりと重く、湿りを帯びて全身にまとわりついてくる。

 先を行く香蓮の小さな背中から、できるだけ離れないように小走りで歩く。

「香蓮どの、この饅鰻寺まんもんじに来られて……何年になられる?」

「……二年……ちょうど、二年になります」

 香蓮は、振り返らずに言った。
 細い首筋になだらかな肩幅。

「失礼ながら……なぜこのような山奥の寺に?」

 と、そこで香連が足を止める。
 そして、肩ごしに慎之介をちらりと見た。
 
 提灯の薄明りに照らされた切れ長な目から、漆塗うるしぬりのような大きな黒目が慎之介を冷たく捉える。

「では、あなた様は何故なにゆえ、十年も……顔も知らぬかたきを追ってこられたのです?」

 答えにきゅうする慎之介。

「な、なにゆえ、と言われても……」

 香蓮が薄く笑う。

「それは、あなたの本意だったのですか? ……姉上のご意向ではなく?」

 提灯の灯りにぼんやりと照らされた香連の横顔は、幽霊じみて美しかった。

 慎之介は逃げ出したくなるような居心地の悪さを感じた……
 この寺では、これまで己が見知ってきたものが、すべて闇に呑み込まれてしまうような気がする。

「……姉上は、かたきを追い、旅を続けながら、わたしを育ててくれた。わたしにしてみてば、母替わりのようなもの。そんな姉上とわたしは、一心同体……思いは一つです」

「そうですか……それでは、そのかたきが二年前に討たれたと知ったあと……これから、慎之介さまはどうなさいます?」

 と、香連が破れ提灯で一つの粗末な墓標を照らした。

 其処には、「八代松右衛門之墓」とだけ記されている。
 あまりにも素っ気ない結末だ。

 あの畜生ちくしょう浪人……姉・柴乃を夜通しはずかしめ、不敵に去っていった蜂屋百十郎の言ったとおりだ。

 その寺の裏には、慎之介が紫乃とともに十年の間、追い続けきたかたきの墓があった。

如何いかがですか。ご納得いただけましたか?」

 矢張やはり、小さな鈴のような声で、香連が呟く。

「…………」

 実際のところ、慎之介には何の感慨もなかった。

 失望も虚しさもない。
 
―――何もかも、これで終わったのではないのですか? 姉上?)
―――「仇の仇は仇」などと、蜂屋百十郎を追い続ける姉上は、一体、どんな魔物に取り憑かれているのです?

「姉上のことを、お考えですね……」

 慎之介は、ぎくりとした。
 心を見透かされたようで。

「それは……」

「迷っておられるのではないですか? ……これから先、どう生きるか」

「わ、わたしは……わたしは姉のかたきを……」

「そのかたきはとうの昔に死んでおります……いままで慎之介どのは、幽霊ゆうれいを追いかけて旅を続けてきたようなもの……では、慎之介どのは、これから誰を追うのです?」

 自分と同じくらいかもしくはその下の、年端もいかぬ小坊主とは思えぬ、落ち着いた言葉だった。

「…………」

 慎之介は黙るしかなかった。
 どこにも、その問いに用意された答はない。

「……お風呂の用意をいたします。本殿の離れにございますので、ご案内しましょう」

 歩き出した香蓮の後ろ姿を、慌てて追いかける。
 闇にひとり取り残されることの恐ろしさもあったが、どうしても香蓮の後ろ姿に惹かれる。

 白い僧衣に浮かび上がる小振こぶりなの線は、実をつけたばかりの果実のようだ……。

 とまた、慎之介は自らのよこしまな考えを振り払うはめになった。

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