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彼女はシークヮーサーの味だった【2/5】

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 タクシーが走っても走っても……道の両側にそびえ立つフェンスは途切れることがない。 

 フェンスの向こうには本土のどこでもお目にかかれないような、広大な芝生が広がっていた。

 そういえば、いつかあの社長に連れて行ってもらったゴルフ場もかなり広大でその芝の美しさに唖然としたものだが……

 今道の両脇に広がっているフェンス越しの芝生には到底及ばない。
 青い空に美しい芝生。どこまでも続く芝生。

 そういえばあの社長はゴルフが下手だったな。

 運転手は無口だった。
 東京でもくだらないことをぺちゃくちゃ喋る運転手は嫌いだ。

 それにおれはその時、まったく口を効く気分じゃなかったし……
 それは後部座席で隣に座っている女も同じみたいだった。

 女はおれの左隣に必要以上の距離を置いて座り、開け放たれた窓に肘をかけ、頬杖をつきながら外を見ている。

 延々とフェンス、フェンス、フェンス。

 少し見上げれば青い空。
 そればかりで、実に退屈な眺めだ。

 事実、女の横顔を見ると、その風景を楽しんでいるようにはちっとも見えなかった。

 そういえば……ひとくちに米軍基地といってもいろいろあるに違いない。

 まったく興味のない話題ではあったが……考えてみれば今を逃せばもう一度聞くチャンスは二度と訪れない。
 おれは少し身を乗り出して、運転手に尋ねた。

「この両側のは……空軍の基地? 海軍の基地? 海兵隊の基地?」

「さあ……」運転手は言った「僕も沖縄に来てまだ3ヶ月なんですよ。すみません」

 会話は終わり。
 苦笑いを作って女のほうを見たが、女はその短い会話にもまったく無反応だった。

 女はさっきまで髪をまとめていたゴムを外していた。
 女の長い髪が風にそよぎ、その毛先が狭い車内でできるだけ距離を置いているおれの横っ面をびしびしと打った。

 女はまったく意に介する様子ではない。
 
「……楽しい?」

 おれは女におずおず声を掛けた……
 聞き取れないなら聞き取れないでいい、というくらい小さな声で。

「……え?」女がおれに振り向く。そしておれを睨んだ。「何か言った?」

「……いや……その、ずっと外見てるから……」

「……見なきゃ損じゃん。せっかく沖縄まで来たんだし」

 と女はまた外を見る。

「沖縄ははじめて?」

 今度はもう少し大きな声だった。

「おじさんは?」
 
 どうせもうすぐ死ぬわけだし……なんと呼ばれようと平気だった。

「ああ、初めて……って、そういえば名前、まだ聞いてなかったよね」
 
「りみ」

 女が顔をこちらに向けずに答えた。

「……嘘だろ?」……さっきカーラジオからなぜか今頃『涙そうそう』が流れていたからだ。「まあ、いいけど」

「おじさんは?」その女……“りみ”が振り向く。今度は睨まれなかった「……名前なんての? ……“おじさん”って呼ばれるのがスキなんだったら、そう呼ぶけど」

「それも悪くないなあ……」

 事実、悪くないかな、と思った。

 睨まないりみの顔は……そりゃ絶世の美女ってわけでもないし、稀代の美少女って言うには少々年を食いすぎているが……それなりに魅力的だ。

 携帯を捨ててしまったのでもうそれは叶わないが、振り向きざまの彼女の顔は、思わず写真に収めて待ち受け画面にしたくなるくらいには魅力的だった。

 薄い顔立ちに薄い眉。
 薄いまぶたに薄い唇。

 「りみ」とは名乗ったが、まったくもってその顔は一般的な沖縄人女性の顔(それほど数を知ってるわけでもないが)と比較して、まったく印象的ではない。

 実際の話、ケータイに写真として抑えておかないと明日には忘れてしまいそうな顔だ。

 しかし、その顔はどこか涼しげだ。
 それを弱っていたおれの心が好意的に解釈した結果、どこか儚げで……
 なぜかおれの心の奥で胸がズキンと高なった。

 いや、これから死のうっていう人間はやっぱりまともではない。

 こんな少女のおもかげを残す自称“りみ”に“おじさん”と呼ばれ続けるのも、案外悪くないのではないかと思ったりした。

「どうする? “おじさん”で決定?」

 とりみ。

「うーん……」

「あんまり人前では呼びたくないね、あたしも」りみがまたぷい、と外を向く「……あたしもいい歳してんだし」

「……ホリエ」とりあえず名乗ることにした。「ホリエってんだよ」

「………」りみが横目でおれの顔を見る。冷ややかな目だが、その目は少し笑っていた。「嘘でしょ?」

「いや、ほんとだよ」

「……まあ、どうでもいいけど」

 実りのない会話を続けているうちに、いつの間にかおれたちを乗せたタクシーの両側からフェンスは消えていた。

「もうすぐ砂浜ですか」

 おれは無口な運転手に声を掛ける。

「みたいですね」

 運転手は言った。前方をじっと見たまま、身じろぎもしない。

「海開きはまだよね」

 とりみ。

「じゃないですか」

「まだだよ、いくら沖縄でも」

 なぜかおれが助け舟を出した。

「ちっ」

 りみが舌打ちする。

「……なんでまた海に?」とおれはりみに聞いた。海に行きたいと言い出したのはりみだった。「まだ泳ぐには早いと思うけど……」

「あんた何しに沖縄来たのよ」みりは窓から近くなる海を見ている。「ホリエさん」

「何って……」

 確かに沖縄まで来たのだから、海くらいは見ておかないといけないのは道理だ。
 
 そうだな……とおれは思った。
 今すぐ、という訳にはいかないが、海で溺れ死ぬ、というのも悪くはない。

 たとえば、夕暮れ時に砂浜で酒でも飲む。
 当然、沖縄まで来たんだから泡盛を。

 たしか古酒(クース)って言うんだろ? あれ。

 強いのでは40度を越えるやつもあるらしいが、それでも結構飲みやすくて口当たりはまろやかだと言う。

 あれを一本ほど一気に開ける……40度もあれば、それほど酒に強くない(だが酒は好きだ)だったら多分かなり酔っ払えるだろう。

 そしてそのまま……砂浜に首だけ出して埋めてもらう。

 よく夏の海水浴場でやるよりもしっかりと埋めてもらって……自分の力では起き上がれないようにする。

 できるだけ波打ち際近くにだ。そのままおれはぐうぐう眠り込む……あとはただ潮が満ちてくるのを待てばいいわけだ。
 

 しかし……埋めてもらうとするなら、一体誰に?
 おれはりみをちらりと見た。

 今のところ、彼女に頼むしかないだろう。

 彼女はそんなことに応じてくれるだろうか?……ふつうは無理だわな。

 それに……せっかくの泡盛なんだから、できれば何かツマミと一緒に味わいたいものだ。

 豆腐ようか、島らっきょうでも……いや、そんなツマミを一緒に味わってるとちゃんと酔っ払えないかも知れないな。

「……着きましたよ」
 
 気がつくと車は停車していた。
 りみが一目散に空いたドアから飛び出す。

 ……代金のことなど、まったく頭にない様子だ。
 おれは無口な運転手に支払いを済ませると、続いて車外に出た。
 
 道路を挟んで……すぐのところに白い砂浜があり、その向こうは青い海で、そのさらに向こうはそれより青い空だった。

 海風がおれの目の前に立っているりみの髪を撫ぜて……その毛先がまたおれの顔を撫ぜた。

「てーか、ちゃんと見張ってる?」

 みりが岩陰から聞く。

「まあ平日の昼間だからなあ……それにオフシーズンだし」

 おれはただただ砂浜と水平線に見とれていた。

「あーもう、どーなってんの。コレ」

 すこし首を曲げれば……肩甲骨の浮き出たりみの背中と、背骨が浮き出た腰と、あばら骨が浮き出たわき腹と、固そうな尻が見えた。

 青白い太股の裏も、膝の裏も、ふくらはぎも。

 りみは砂がかからないように用心しながら……海水で濡れた躰をごしごしとバスタオルで拭いている。

 近くの岩には、先ほどりみが脱いだばかりのグレーのブラジャーとゴムの伸びたパンツがぺったりと貼り付けられている。

 そしてそれとは並行に彼女が着ていた靴下とジーンズと、薄手の黒いセーターが。

 コートは空港のロッカーに預けてきたので、ここには今ない。

「あのさあ」おれは言った「……なんで水着くらい持ってこなかったんだよ。泳ぐつもりだったんだろ?」

「つーか、何見てんだよ」

 りみが肩越しに冷たい目線をくれる。

「……君ね、人として恥ずかしくないわけ? ってか羞恥心あんの?」

「そのために見張っててって言ってんじゃん……つーか、見るんだったら見物料ちょーだいよ」

 
 りみはほんの数分間だけ……履いていた下着のまま海水浴を楽しんだ。
 おれはこの人気のない砂浜に腰掛けて、黙ってそれを見ていた。

 透明な海の水面を、りみは何度も浮き上がったり沈んだりした。

 泳いだ、という感じではない。
 ただ単にそれを繰り返しただけだ。

 多分、彼女はちゃんと泳げないんんだろうな、とおれは思った。

 あっという間に彼女のブラジャーは水に透け固くなった乳首が浮き上がった。

 水は温かなんだろうが、その身体は冷やされてますます青白くなった。

 自ら浮き上がった瞬間、束ねていた髪から飛沫が舞った。

 でも相変わらず顔は仏頂面のままだ。
 どう考えても泳ぎを楽しんでいるようには見えない。

 何らかの宗教儀式を、義務的にこなしでもしているかのようだった。
 
「ねえ、ホリエさん」水面から顔を上げてりみが言った「あんた、泳がなくていいの?」

「水着持ってないって言ったろ」

 おれは砂浜から答えた。

「あたしも持ってきてないじゃん」

「だったらふつう泳がないだろ」

「沖縄に来てんだから、泳ぐでしょ。フツウ」
 
「いや、別にいいよ。おれは」タバコに火をつける……あと4本。どこかで買い足さねば。「……泳ぎに来たんじゃないから」

「じゃあ、何しに来たの?」

 りみが聞くなり、そのまま潜ってしまう。
 答えを聞く気なんてはなからないのだろう。

「……死にに」

 おれはりみが潜っている間に言った。

 さっきは砂浜に身体を埋めて、泡盛で酔っ払って満ち潮を待つ……なんていう結構ロマンチックな案を考えたもんだが……どう考えてもあまりにも現実感に乏しいアイデアだったな。

 おれのような人間の最後を飾るには……少しそうしたセンチメンタルな方法はあまり相応しくない。

 どうせ死ぬなら凄絶な方法で死んでしまいたいものだ。

 おれはりみの浮かび上がってこない海面を見ながら考えた。

 そうだ……沖の方へ……かなり沖の方へ泳いでいく。
 腰にはよく切れるナイフかなにかを忍ばせて。

 ひたすら沖のほうへ泳ぐ。
 陸が見えなくなるくらいまで。

 そこまで泳ぐには多分、浮き輪が必要だろう。
 よく切れる刃物と浮き袋。その二つが必要だ。

 いまはないが……

 とにかく、陸が見えなくなるまで泳いだら、そこで手首を切る。
 そしてそのまま水面に顔をつける。

 これでどうだ。
 かなり確実に死ねそうじゃないか?

 片方の手首だけじゃ心配だから、もう片方の手首も切る。
 念のため、余力があれば頚動脈も切る。

 そうすれば、確実に死ねる。
 おまけに死体も発見されない。
 
 さらに上手くいけば……海中に流れ出した血の匂いを嗅ぎつけて……がおれの死体を片付けてくれるかもしれない。

 完璧だ。

 そうすりゃ、誰もおれの死体を発見できない。
 その鮫がいずれ漁師に捕らえられて、カマボコかなんかになって……あの食道楽の社長がどこかでそのカマボコに舌鼓を打つかも知れない。

 それはそれで愉快だ。

 ただ……問題は、海面で手首を切ったり、頚動脈を切ったり……そんなことが上手くやってのけられるかどうか、ということだ。

 しくじって……中途半端に出血した状態で、海面を漂流……なんてことになったらどうする?

 で、血の匂いを嗅ぎつけた鮫がやってきて……
 おれを生きたままむさぼり食う

 確かに凄絶な死に方を望んではいたが……ちょっと凄絶過ぎやしない?

 鮫がやってきたときにまだ手元にナイフが残っていたら……おれは思わず襲ってきた鮫と戦うかも知れない。

 そして鮫を刺し殺して、無事陸に生還する。
 そして、新聞にこんな風に報道される。

 “沖縄で男性、サメに襲われるも包丁で反撃!無事生還

 だめだだめだ。
 それでは何の意味もない。

 「ひょっとして……あれ?……自殺しに来たんだったりして」
 
 気がつくと目の前に、海から上がったりみが立っていた。
 全身に雫をしたたらせながら。

「…………」

「……よく居るらしいねー。なんだか、沖縄に行ったら死ねるんじゃないか、って思って沖縄来るヒト。そーだよねー……あたしも死ぬんだったら富士の樹海じゃなくて沖縄かなあ……シンキ臭いじゃん。なんか樹海って。」

「……沖縄のヒトにしてみれば迷惑な話だけどなあ」
 
 答えながら……りみの濡れた肢体をおれはゆっくりと見上げていた。

 小さく丸まった足の指先。
 細い脛には打ち身の後ひとつない。

 色のついていない膝小僧に、引き締まった……というと少し褒めすぎかな……固そうな太股。

 当然のことだが、グレーの下着はぐっしょりと濡れていて、そこには薄い茂みが透けていた。

 透けているだけではなく……ゴムの弛んだ下着は腰骨の引っかかるべきところからかなりずり落ち、そのゴムの上端からは茂みの上部が覗いている。

 そこからも雫が落ちている……

 まったく、どうなってんだ最近の女は。けしからん。

 臍は……縦型でのっぺりと平坦な腹の上で申し訳なさそうに窄まっていた。 
 
「……てか、何見てんだよ。どすけべ」

 そう言ってりみが手で股間を隠す。

「……じゃあ隠せよ」

 おれは言った。
 透けたブラジャーからはしっかり乳首が浮き立っているのに、そっちのほうはノーガードだった。

 あえて目は逸らさなかった……
 別に悪かないだろう。これからおれ、死ぬんだし。

「身体拭くからさ、ちょっと見張っててよ」

 そう言ってりみは岩陰に引きこもった。
 そんな訳でおれはやる気のない見張りを続けているというわけだ。

「……で、水着もなしに君はなにしに沖縄に来たわけ?」おれは岩陰で髪を拭いているりみに聞いた。「あれ? 傷心旅行かなんか?」

「空港で、ヒトの電話、盗み聞きしてたんじゃねーの? ……なにカマかけてんの?」

 と、りみ。

「……死ぬとかなんとか言ってたけど……」

「やっぱ聞いてんじゃん」

「カマかけるなよ」

「お互い様でしょ」

「………で、死ぬ気なわけ?」

 おれは岩陰の方に足を進めた。

 りみはまだ全裸で……尻をこっちに向けて髪を拭いている。

「……なに?」

 とりみが振り返る。その目は相変わらず冷たい。

「……死ぬ気、あるわけ?」おれはりみの尻を見ながら言った。「おれは、あるけどね」

「つまんないことで威張んなよ」りみはまたガシガシと髪を拭き始める。「……で……なに? 死ぬ前になんかあたしとやーらしい事でもしようってわけ?」

「いや、その……別にそんな」

 図星だった。

「……あたしはいいけど?」りみが……タオルを首にかけたまま振り向いた。「どうせあとは死ぬだけだし」

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