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人間太陽説の話

明治時代末期に刊行された雑誌「青鞜」の創刊の言葉、「元始、女性は太陽であった」は平塚らいてうによる女性運動を象徴する有名なエピソードです。

平塚らいてうによって設立された青鞜社は女性のみによって構成され、女性の地位向上、選挙権獲得などを求めて活動した団体として知られています。

しかしながら、この「元始、女性は太陽であった」を取り巻くもうひとつのエピソード、人間太陽説(女性太陽説)はその馴染のなさもあり、あまり世間には知られていません。今回は少しだけ、人間太陽説をクローズアップして取り上げたいと思います。

①女性解放運動と青鞜社
明治維新により旧来の幕藩体制が解かれ、近代的な憲法や議会の設立、官営工場の設立等急速な近代化が実現します。1890年には第一回衆議院議員選挙が開催され、庶民も政治へ参画することが可能となりました。
一方で女性の権利は厳しく制限され、参政権や集会の権利が厳しく制限されました。平塚らいてうは、大日本帝国憲法の改正や女性参政権の確立を求めて、文化的側面から大衆に問題意識を提起すべく「青鞜社」を設立し、雑誌「青鞜」で女性文学を通じて社会への啓蒙活動を行いました。

雑誌「青鞜」創刊にあたって寄せられた平塚らいてうの言葉が「元始、女性は太陽であった。」から始まる一文です。
女性を太陽に擬えて、その輝きを取り戻すよう大衆へ呼びかけた言葉として知られています。

②誤った解釈の流布と女性太陽説
一方で、この一文によって平塚らいてうは「女性太陽説」論者であるとの風説が広まります。平塚らいてうを摘発したい警察が、突飛もない意見を投げかけることでその地位低下を狙ったものともされますが、真偽は定かではありません。

女性太陽説とはその字の通り、もともと女性は太陽であったため昼間は鏡を持ち歩き太陽光を反射させることで日本を遍く明るく照らし、夜は家に入り家庭内を明るく照らすよう求める思想です。
この女性太陽説自体は古くから存在し、アマテラス信仰や卑弥呼の銅鏡の文脈、果てはマヤ文明の太陽神信仰でも引用されることがあります。

他方で、この時代の女性太陽説は、一層の女性酷使や搾取を強くすすめる思想だったとされています。
※1872年に日本初のガス燈、1878年に日本初の電灯が導入されました。当時は電柱等が存在せず、手持ちの照明であり、各々が必要とする範囲を照らしていたためこれを持つ役割を女性に担わせようとしていました。

平塚らいてうが女性の地位向上を掲げながら、裏では女性差別の拡大を目論んでいるといった噂は、警察による陰謀論も囁かれたことで大衆へ広まりませんでした。

平塚らいてうによる女性解放運動は、こうした地位低下を目論む風説にも打ち勝ち、1925年の普通選挙法成立として実を結びます。

③科学技術の進展と太陽としての人間
第二次世界大戦中は、原子力・核の実用に向け世界中が躍起になって研究開発を行います。

日本の物理学研究の第一人者であった仁科芳雄は、1940年(皇紀2600年)には皇紀2600年記念事業として一般大衆への講演会・科学ショーを開催、題材は「放射能人間」と称したもので、安全な分量の放射性ナトリウムを飲んだ理化学研究所所員にガイガーカウンターをあてるもので、大変好評を博したとされています。

1943年には仁科が、一般大衆への啓蒙として科学誌「太陽にもなれる人間」を刊行。しかしながら放射能に対する知識のない一般大衆の正確な理解は難しく、一般大衆では人間は放射能を有しており、人間は太陽と同格であるといった誤った解釈が流布します。

特に「太陽にもなれる人間」にアクセス可能であった都市部の中等教育を受けた層で、誤った解釈が広まります。こうした層は戦争の激化、空襲により地方に疎開していきますが、放射能への中途半端な理解から、地方部に居住する層へ噂のように誤った解釈で伝播していきます。

人間太陽説とは仁科による「太陽にもなれる人間」を誤って解釈した「潜在的に放射能を抱える人間は太陽のように物理的に光り輝きうる存在」であるとする説です。

また、中等教育を受けた層では、平塚らいてうの唱えた「元始(原子)、女性は太陽であった」の一文が、放射能により人間が光り輝きうること、男性より女性の方が放射能含有量が多く、男性よりも光り輝きうる存在であることを示唆していることを発見します。

平塚らいてうの地位を貶めるべく叫ばれた「女性太陽説」は、平塚らいてうを高位の理論核物理学者として蘇らせ、「人間太陽説」の第一人者として喧伝させることになります。
平塚らいてうはキュリー夫人、レントゲン博士と同格の物理学者であり、仁科に先んじて人間太陽説を示唆した人物として神格化されることとなったのです。

人間太陽説は各地で様々なバリエーションを持ちながら多様化し、「陰陽師は人間の中に眠る放射能を活性化させる伝統的な実践核物理学者」「肌の色や瞳の色は、個人に含まれる放射能含有量に起因する」など、根拠のないエピソードが各地で信じられていきます。

④湯川秀樹と科学教育
戦後、1949年に日本初のノーベル賞受賞者:湯川秀樹が誕生します。
湯川は仁科に多大な影響を受けた人物で、市中では放射能に対する誤った理解が流布していることを嘆いていました。湯川は日本の科学技術振興を願い、当時の文部省へ直談判し、正しい科学教育を行うよう学校教育制度の改革を要請、また、日本各地で正しい科学技術に対する公演を行います。

また、文部省では検定教科書制度がはじまり、正しい科学技術に対する教育が行なわれていく中で「人間太陽説」は次第に世間から姿を見せなくなりました。

仁科によって残された理論核物理学の成果物や科学ショーの履歴、「太陽にもなれる人間」をはじめとする様々な科学誌はGHQにより接収され、現代日本にはほとんど残っていません。

人間太陽説は、学校教育の振興とGHQによる核研究の接収により日本から姿を消したのです。

⑤現代に残る人間太陽説
人間太陽説は全く姿を消した訳ではなく、現代にもその片鱗、誤った解釈が残されています。

「紙幣の肖像の背景(中央部)に描かれる円は、人間が潜在的に太陽であることを示唆」「太陽の光を浴びると元気になるのは、人間が潜在的に仲間である太陽の光を浴びたことでセロトニンが活性化するから」などは典型的な人間太陽説の論説で、誤った知識として文部科学省やファクトチェック機関によって注意喚起がなされています。

一方で、物理学的な意味を帯びる以前の女性太陽説は、宗教的意味合いの文脈で主流な論調として現代でも残されています。

世の中には真偽不明の様々な情報が溢れています。
人間太陽説のように突飛もない風説に左右されると、思わぬパニックやトラブルに繋がります。
信頼できる情報やソースをもとに行動する風習を身につけていきたいですね。

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