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ホテル デイドリーム

電話が鳴る。

『もう着くよ』

『分かった。待ってるよ』

梅雨が明けたばかりだというのに、夜でも暑い。

金曜午後9時。

賑わう街と、夏の匂い。

数分後、白いセダンがコンビニの前で停まった。

ナンバーは彼の誕生日。

その数字ですら愛おしい。

高まる気持ちを抑えながら、いつものように助手席のドアを開ける。

「おつかれ」

「おつかれ」

いつもの挨拶を交わす。

私がシートベルトを締めると、車は静かに発進した。

「どこ行きたい?」

「どこか遠いところ」

「どこだよ、それ(笑)」

ふたりを乗せた車は南へ向かって走る。

私が知らない、どこか遠いところまで。

好きな人の好きな曲を聴きながら、ぼんやりと街灯を眺めていた。

何よりも美しい街の灯り。

誰よりも愛おしい人の香り。

今、一番近くで息づかいを感じている。

まるで夢のようなシチュエーションに酔ってしまいそうだった。

「ほら、海だよ」

いつのまにか海辺を走っていたらしい。

夜の海は穏やかで、どこかかなしかった。

「綺麗……」

「綺麗だね」

海辺の道を抜けて大通りに出た。

人や車の往来はほとんどないのに、信号ばかりが無駄にある。

仰々しいコンビニの明かりと、闇に包まれた公園のコントラストが胸をざわつかせた。

信号が赤に変わり、私たちは手を繋ぐ。

まるで心を許し合った恋人同士のように、あくまでも自然に。

「ここらへん、コンビニと公園しかないじゃん」

「うん。この辺りに自衛隊の基地があるからね」

「そうなんだ、知らなかった」

「知らないことばかりだな」

クスっと笑いながら、視線をこちらに向ける。

「なに?」

「いや、可愛いなと思って」

何か言わなきゃ、と考えているうちに信号が変わり、車はまた大通りを走り出した。

繋いだ手がもどかしい。

手汗かいてるって思われてないかな。

もっと強く握るべきなのかな。

突然、沈黙が怖くなった。

分からない。何を考えているのか。

どんな声で「好き」と言うのか。


「この道知ってる」

市街へ向かう道だった。

「そろそろ帰らなきゃ。俺明日早いし」

「そうだね」

「さみしいの?」

「うん」

「そっか」

またクスっと笑う。「そっか」ってなんだよ。

携帯を取り出し、メッセージを送る。

『今から会える?』


車窓から見える景色は徐々に明るくなり、賑やかな街並みの真ん中で車が停まった。

「気をつけて帰ってね」

「ありがとう。またね」

そう言ってドアを閉める。

コンビニの前で足を止めると、電話が鳴った。

『もう着くよ』

『分かった。待ってるよ』

しばらくして車が来た。

深緑のSUVだ。

「好きな人と上手くいかなかった?」

まだ何も言っていないのに、何故この男は私の気持ちを見透かすのだろう。

「上手くいかなかったわけじゃないよ。でもさみしくなっちゃって」

「分かるよ」

車はまた南へ向かう。

数十分前よりも少し高いところから眺める海は荒く、まるで物々しいオブジェのようだった。

「少し行ったところに、新しくできたホテルがあるんだ」

普段よりも柔らかい声で男が言う。

「自衛隊の近く?」

「うん。誰かと行ったの?」


公園を通り過ぎて細い路地に入ると、「ホテル デイドリーム」と書かれた小さな看板が見えた。

男は慣れた手つきで狭い駐車場に車を停め、迷わずエントランスに入って行った。

一番安い部屋のボタンを押し鍵を受け取ると、私の存在など微塵も気に留めない様子でエレベーターへ向かう。


心地良かった。

私に対して何の躊躇もなく向けられる鋭い欲望が。

何度も髪を撫でるその無意味さが。

強張ったオブジェは十分に温められ、潮の満ち引きに身を委ねる。

隕石が地面を擦り、辺りに火花が散る。

その火花はやがてマグマとなり、私の体を溶かしていく。

私を惑わせる甘い言葉も、春の陽気のように柔らかな眼差しも、全てマグマの中に放り込んで溶かしてしまえばいい。

淡い恋心など、ただの幻想に過ぎないのだから。


ホテル デイドリーム

脆く儚い白昼夢

かなしく愚かな幻想


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