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人文学院生の就活

「人文学を大学院で研究するメリットってあるんですか」
就職活動において、この手の質問に遭遇することは多い。

背後には「役に立たない人文学を大学院で学んでもビジネスに還元されないだろう」という考えがあるのだと推察できる。是非はひとまず措いておくとして、このような考えを持ったビジネスパーソンは多いのだろう。

「率直な感想としてですが…書類を見ただけでは、気難しそうという印象を受けました。全然違いますね」と言われたこともある。理由を聞いたら、文系の大学院生にはそのようなイメージがあるという返答を得た。

要するに、文系大学院生というラベルが個人の印象を決定づけてしまうほど、イメージが先行してしまうということだ。

学部卒と比較して待遇が多少上がることを鑑みれば、学部卒とは異なる質問を投げることは妥当なのであろうが(?)、それにしても文系院生というステレオタイプの押し付けに辟易しているのは事実である。浮世離れしていて、話が通じない。暗黙の了解を守らない。そんなイメージを前提に質問されるから、閉口してしまう。いわゆるアンコンシャスバイアスというのか。そうしたものを目撃するたびに、企業の人権意識に疑念を持たざるを得ない。まぁ、そんな会社選ばなければいいだけの話だが、放置するわけにはいかないだろう。わたし個人というよりは、文系院生に対する問題なのだから。


なお、冒頭の問いについては、わたしはこう答える。

端的にいえば、俯瞰して思考できること、中長期的な目線からの思考が可能になること、そして消費者の視点ではなく、作り手の側から言葉の意味を考え、その意図を見抜けるようになること。相手の承諾を得ることができたら、その具体例を話すようにしている。

それでも、反応は芳しいものではない。「それがどう実利に結びつくの?」と納得がいかないようである。確かに、人文学の研究を通して得られれ能力は実用性とは乖離しており、短期間で成果につながるようなものではないだろう。ミネルヴァの梟は夕刻にならないと旅立たない。ただし、俯瞰した視点で物事を捉えられる人物がいなければ、これからのVUCA時代に適応することは難しいだろう。刻々と変化する数字だけを追っていては見えない要素も大きい。

そして、最初から意図した通りに動くことはまずない。PDCAを無思考で回すことは危うい。システムそのもののあり方を捉えること。日本の企業においてはマーケティングに特化した部署が存在しないケースも多々あり、それぞれの部門が商品を作り、売り、報告書を作りなどしているケースが多いようだ。人類学者のジリアン・テットが『サイロ・エフェクト』という著書で指摘するように、タコツボ型の組織運営では重大な問題を見落としてしまう。テットは高度な専門性を有するサイロ自体を否定するわけではない。こうした横断的な視座が組織において重要であると強調する。

社会のリソース不足、社会的情勢などの要因から、全社的な取り組みをする体力を有さない組織も多いかもしれない。しかし、VUCA時代においてレジリエンスを確保するためには、目先のゴールだけではなく中長期的な視座から物事を捉えられる人材が求められるのではないか。こと人文学の学生は、既存の枠組みを更新することを目的として研究を重ねた経験があるため、変革期の組織において大きな力を発揮するのではないか、と思う。

社会に出たことのない「温室育ち」の大学院生の戯言として一蹴されるかもしれない。経験による裏付けはないし、理想に傾きすぎているかもしれない。
ただ、それでも「役に立たない学問」で学位を取得した厄介な人材というイメージは正しいわけではないことを、示したい。

知り合いの先生に、人文学知を社会に還元しようと注力している方がいる。人文学のバックグラウンドを持つ人材のプレゼンスをあげようと、社会連携に熱心な方だ。人文学が役に立たないと言われてきたのは、こちらから社会に働きかける機会が少なかったことにも起因する。人文学の側にも責任はある。こちらから人文学の研究で培える視座を発信することで、社会の枠組みが変わるのかもしれない、と聞いた。

文学部不要論の反論として、しばしば人生を豊かにするものとしての文学部論が展開される。わたしはこのような論に賛同する。目下の就職活動の心の支えは人文学だ。しかし、このような主張は、ともすれば人文学が消費されてしかるべきものとして認識されかねない。というのも、個人的な次元で人文学が寄与するものと社会的な文脈で人文学が寄与するものは、分けて考えねばならないが、往々にして二つの観点は混同されてきた。だからこそ、コロナ禍による自粛期間時に人文学が持て囃され、生活を豊かにするものとして称揚されてきた。

人文学研究が趣味として捉えられるのは、このような文学部論の延長上にあると思う。もちろん、研究対象になる小説が人生を豊かにしてくれるのはそうだ。でも、人文学が個人に作用する役割を取り上げられることで、文学部の学びが私的な領域に収まるものとして理解されることは、大きな懸念である。事実、私が就職活動において、学びや研究をビジネスにどう応用するのか頻繁に問われるのは、人文学を専攻する院生であるという理由にほかならない。

就職の指南本に、人文学に対する罵詈雑言が掲載されていて、驚いてしまった。人文学に触れたことのないビジネス人間のステレオタイプはこんなもんかと勉強になったが、人文学を学んだ就活生がますます萎縮し、学問に対して語ることができなくなってしまうことは問題である。それゆえ、人文学を学び、研究した人間が発信する必要性を痛感し、この文を駆られるようにして書いているのである。

どの学問にも限界がある。人文学が万能だと主張するつもりはない。しかし、実利を伴わないという理由で軽視され、就職活動の場面で不当な質問をされるならば、こちら側から働きかける必要があるのではないかと思う。

わたしは博士論文も書いていない、ただの修士の学生に過ぎない。何者でもない。人文学という学問全体を語るにはあまりにもお粗末な文章だということも自覚している。ただ、わたしが大学院で研究したことの社会的意義、研究で培ったスキルを社会人としてどう活かしたいのか?という仮説をここで述べた。そう、あくまでも仮説に過ぎないのである。指導教員をはじめとした大学教員との対話の中で考えたこと、書籍から得た知見を根拠にしているものの、まだ働いていないがゆえに検証されていないのである。

どうして仮説をインターネットに投げるのか?それは就活のプラットフォームの制約が大きいからだ。エントリーシートで学問について語るにしても字数制限があるし、面接の時間制限はタイトだ。結論ファーストで端的に話さなければならない。そして、学問を語ることの目的は、採用してもらうことだ。
自明なことだが、個人の話に収斂されてしまい、一向に文系院生へのステレオタイプはステレオタイプとして存在し続けるのである。そうではなく、もっと開かれた場所で意見を述べられないか。そう思ってこの文章を書いた。

最後に一つ。人文学のキーワードとして「俯瞰」という言葉を挙げたが、俯瞰する立場はある種の特権を示唆するものであることにも気を配らなければならない。私の研究がマクロな視点から論じるタイプの研究であることから、キーワードとして「メタ」だとか「俯瞰」とか、マクロな視点から意義を示すことが多い。でも、それは個別性を蔑ろにしてしまう可能性もある。「地に足がついていない」と言われてしまう。人文学をビジネスの文脈で語る場合、ボトルネックとなるのはこの観点だと思う。俯瞰して組織や事業を考えたい、と提唱したところで、現場を考えているのか?カンパニーごとの利益は無視するのか?という反論が予想される。

しかし、わたしは鳥の目で見ることだけが正解とは全く考えていない。マクロとミクロを行ったり来たりして物事を捉えることが重要なのではないかと思う。多角的に物事を考えるとは、そういうことなのだ。パースペクティブは複数あっていい。単一の視点から語ることは危うい。議論を活性化するためには、引いた視点から語れる人材も必要なのである。

繰り返すようだが、わたしは人文学だけが素晴らしくて価値のある学問だとは思っていない。ただ、人文学が浮世離れしていて全く社会に役に立たない学問と見なされることが悲しくて仕方ないのだ。就職活動において学問を語るとき、どうしてもマイナスの角度から質問されてしまうのが、悲しかった。文系院生は「マイノリティ」なのに、なぜ進学したのか、とか言われることもある。思い込みをもとに質問を投げ込まれないでくれて思うも、その人がどう、というより社会的にある程度の合意を得たイメージであることは否定できない。だから、わたしは揚げ足を取るのではなく、わたしが真に意図していたこと、すなわち就職活動では語り得なかったことをここに述べた。

最後になるが、わたしは別に社会が憎いとか、就職活動が憎いとか、恨み言を言うつもりはないし、可哀想な自分を救った欲しいと言う気もない。役に立たないと言われる人文学の修士号を取ろうとしていることで、ステレオタイプに基づいた問いが投げられることも、予想通りである。ただ、こちらの考えを投げるスペースがあまりにも狭いことに気づいたのである。

一学生に過ぎないわたしの文が、人文学と社会を架橋するきっかけの一つになるよう祈りながら、この文を結ぶことにする。

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