見出し画像

心象日記0202 ラララ都会讃歌

都会は怖い。
疲れてふらふら歩いていたところ、「ぼやぼやすんな!」と叱責されてしまった。続けて何か言っていたが、こちらは爆音でシティポップを聴いていたので聴こえなかった。メンタルヘルス。知らん人の暴言こそ、真のシティポップかもしれない。まぁ、よく言われたことだけど、シティポップは都会を美化しすぎている。ゆらめくシティライト、摩天楼は残業の光で構成されている。都会の喧騒から逃れるためにシティポップを爆音で聴くなんて、皮肉なことである。

シティライト・摩天楼の高速・ディスコのフロア、みたいな言葉を羅列すれば必然的にシティポップになってしまう。AIは容易くシティポップの歌詞を書いてしまうだろう。これやっとけばいいっしょ、みたいなやっつけなシティポップは好きになれない。でもシティポップは好きだ。シティポップというラベリングはよくない。でも、それを総称するうまい言い方がない。だからシティポップと呼ぶ。

と、シティポップの愛憎まじる感情をつらつらと書き述べてきたのは、都会に疲れたからであろう。慣れないパンプスを履き、2月の寒気にはとても耐えきれない薄っぺらのスーツを着て、企業の説明会に出向いた。小心者なので、マナーには従っとく。インターネットを検索すると、「パンツスーツよりスカートスーツの方が好ましい」「ストラップ付きのパンプスはカジュアルに見える」「ヒールなしのパンプスはふさわしくない」というマナー講師のありがたい言葉が出てきた。誰だよ、こんなルールで幸せになるの。就活が本格化する春先は、まだ寒い。パンツスーツの方があったかいだろうし、ストラップがついていた方が安心だろう。ヒールの靴に慣れない人もいるだろう。

目の前を歩いていた女子学生がロクな防寒具をつけずに震えていたのは、この就活ルールに基づくのだろうか。ダウンコートはカジュアルすぎるからNG、みたいな。TPOに合わせるなら、寒空の広がる日は分厚いコートだって着てもいいと思う。大切にすべきは、自分よ!と私は内心、声をかけてしまった。

多分、誰も悪くない。けれど、世の中には不文律があって、なんとなく従ってしまう。就職活動では、採用担当の意図はともかくとして、評価される側はとにかく無難にやりすごしたくなってしまう。ちょっと規範に逸れたから、という理由で落ちたくはない。大学では、「暗黙の了解」とされるものを明らかにする研究をしているけれど、実生活を生きる者としては従わざるを得ない部分がある。それほど余裕があるわけではないのに、スーツを新調したのは規範への強迫観念じみた思いだろう。どう頑張ったとて、こっちは選ばれる側なので、変なミスはしたくない。

バランスをとりたいから、就職活動のカバンにいつも、研究に関わる本を忍ばせている。就活の色に染まり切りたくない、というか近眼的になりたくないから、俯瞰して世の中を見ている人の言葉が欲しくなる。就職活動をしているときは特に。ちゃんと職を得たいから、ハウトゥー系の書籍を読みたくなってしまうが、それだとあまりにも就活のコードのようなものが内面化されてしまう。

私が就活のアカウントを持たなかった理由は、これである。就活アカウントでは、必然的に企業に合格通知をもらうことが至上の価値となってしまう。それが怖くて、戦略的に「周りを見ない」就活を実施している。

就活エージェントの宣伝文句に辟易する。
「ライバルに勝つ」、だなんて。また競争を煽って〜!って。地に足つけて自己を内省するためには、他人と比較する視座を排除した方がいい。
もちろん、competitiveな人はいるし、それがやりがいだと感じる人はいるだろうが、全体にかけるべき言葉ではないことは明らかだろう。

事実、わたしは院進のために2年就職を遅くしたことで、自己内省がかなりできたと思う。孤独は私にとってよい栄養となったのだろう。孤独は、時としていい気づきをくれる。タロットカードの隠者がそう言ってくるようである。

就活全般の批判はさておき、私はとにかく私として生きる方法を諦めたくなくて、就活をしている。個と個の境界がなくなってしまうほど、集団にのめりたくない。たぶん、むかしから梨木香歩さんの「群れと個」の議論を読んできたからだと思うし、中学の部活の、暗澹たる記憶があるからだと思う。私が私の人生を生きるために、地に足つけて職を求めたい。

KIRINJIのグッデイ・グッバイを聴きながら歩くのは心地よい。逍遥するのにちょうどよいBPMで作られている音楽である。たしか、フラれた人を目撃しちゃう曲だっけ。ちょっとだけセンチメンタルな雰囲気。でも、ちゃんと手拍子が入っている。はいはい、とりあえず歩こう!って言ってるみたいで。
どうにかなるよ、別れとか、そういうことも。

孤独が栄養になるように、別れもある種のカタリストとなる。たぶん、私たちは別れによって、未来を開拓していくように思う。何らかの変化がなければ、前に行こうとは思わない。文章が捗るのは、なんらかの外圧が働くからで、不幸なときこそ言葉がたくさん出てくるのは当然のことである。

出会いにはすでに喪失が内包されていて…みたいなことを言ったのって、宇多田ヒカルだったっけ?
これと同列に扱っていいのかわからないけれど、太宰治も、夏は秋を内包してやってくるみたいのことを言っていた。

今の状況を、喪失の予感と捉えるのはやや早計な気がするが、どうしても喪失を読み取ってしまう。春が近いし。というわけで、私も心象日記をはじめてみた。これが心のセイフティーネットになることを信じて。心の起伏を描出するために、とりとめのない書き物をしている。もちろん、構成はしない。思いついたことを、思いついた順に書き出していく。
これはカウンセリングのようなものかもしれない。

どうしてもTwitterだと字数が限られるし、ツリーにすると読みにくい。だから、インターネットの長文プラットフォームに書くしかないんだよ!!!!と
熱弁しておりますが、それでもインターネットの特性上、拡散性から切り離すことは不可能である。どうしても、インターネットでの書き物には制約がつきものである(厳密に言えば、どの媒体でも制約はあるにはあるが)。

というわけで、唐突ですが、これからZINEを作ろうと思う。インターネットエッセイよりも自己で完結させるものだが、まぁ、完結させたてはつまんないので、いずれインターネットに載せるね。私が愛してやまない水面のこと、森林のこと、本のこととかを思いっきり語るね。

人に見せる気はないけど、就活にあたって「私という人間」ZINEも作っている…究極の内省人間なので、これもまた楽しい。たぶん私は私なりに、大変な課題を乗り越えることが大事なんだな、と思った。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?