沖縄は傷だらけ

10月下旬。東京時代から親交のある脚本家が娘さんを連れてきた。
娘さんは、沖縄に住む人々から直接「平和」についてお話を伺いたいという。

辺野古について。

佐敷教会の牧師さんからQABのドキュメント番組のビデオを見せていただくまで、正直、ぼくの中ではピンと来ない出来事でした。抵抗運動が、新左翼的だという風にも思っておりましたし。抵抗運動をしている方々と自分との間に距離を感じていました。

しかし、この番組は、防衛施設局(国)の数知れぬ非人道的な対応を映しこそすれ、抵抗運動を続ける方々の「過激さ」は伝えてはいなかった。今まで「過激だ」と思っていたことも、この番組を見ると「やむにやまれぬ、人間としてのぎりぎりの抵抗」という風に感じます。ぼくに決定的に、この距離を縮めさせたのは、「非暴力・不服従」の抵抗運動を続け、キャンプシュワブ内の文化財調査を強行しようとした教育委員会に対して、車を止めようとし、はねられた上に公務執行妨害で逮捕されてしまった平良夏芽さんの言葉でした。

たまたま佐敷教会でお話を伺っているところ、別件で平良さんがおいでになられました。平良さんも牧師様です。どうしてここまでこだわるのか、その行動の原点は何なのでしょう? とぼくは問いました。平良さんは、以下、このようにおっしゃいました。


子どもの頃、首里の長屋に住んでいたんです。玄関がひとつ、中に入るとそれぞれの世帯に分かれている。ぼくら家族が住んでいた部屋の隣にはアメリカ人のお兄さんが住んでいました。とてもやさしくていつもニコニコしていた方です。

時代は、ベトナム戦争に突入していました。戦争を嫌う母は徹底していて、おもちゃにも、戦争に結びつくようなものは与えませんでした。ある誕生日の日、友だちがおもちゃのピストルをプレゼントにくれたんです。母の反応はわかっていましたので、箪笥に隠していたんです。でも、箪笥ですからね、誰が一番箪笥を使うかといえば母です。すぐに見つかってしまいました。
「これをくれた友だちに返してきなさい」
と言われたんです。やだ、と初めは抵抗するんですけどね、母は感情的にではなく、懇々とどうして人を殺すような道具をおもちゃにして遊んで楽しいか、それはとても悲しいことだと言うんです。ぼくはまだ幼稚園くらいの年ですから、意味はわからないんです。でも、とんでもなく悪いことをしてしまった、ということだけはわかるんです。
「返すよ、でも母ちゃんが返してきて」
「だめ。自分がもらってきたのだから、理由を説明して自分で返してきなさい」
そんな押し問答が続いて、結局自分で返しに行ったわけですけれども。本当に母は徹底していました。

長屋には電話がひとつありました。玄関口にひとつ。電話のベルが鳴ると我先にと受話器をとるのは子どもの役目でした。楽しかったんですね。「誰それさーん、電話だよー」ってやるんです。英語のときはお隣のお兄さんですね。その日も英語の電話がかかってきたんです。「お兄さん電話だよ」って渡しました。受話器をとったアメリカ人のお兄さんの顔からみるみる表情がなくなっていくのがわかりました。心持ち体が小刻みに震えていることもわかりました。楽しく受話器を渡したつもりなのに、お兄さんはものすごく何かに怯えている様子で、渡したぼくも気が逸りました。
「お兄さんは戦争でベトナムにいくことになったんだ」
と母が教えてくれました。極東の最前線から、誰に惜しまれることもなく、戦地へと赴かなければならないお兄さんのために、母は心づくしの料理を振舞いました。いつもは食べたことのないような料理です。でも、ずっと場は沈んでいました。美味しいと感じないのです。お兄さんは「もう帰ってこれないかもしれない」と言い、ぼくに戦闘機のプラモデルをくれました。ぼくは母の顔色を伺いました。母は、いただきなさい、と言いました。このお兄さんの生きた証をもらいなさい、と。生きて残していこうとしているものなんだというんです。ぼくはそのとき、人間をこのように追い込んでしまう戦争を心底憎みました。いつも笑顔だった優しいお兄さんが死ぬかもしれない。死ぬかもしれないだけでなく、人を殺さねばならないということが、もうどうにも許せなかったんです。ぼくの行動の原点はここにあります。理屈ではないんです。思いなんです。イデオロギーでもない。イデオロギーだったらどれだけ楽かと思います。でも、ぼくのこの幼児体験は一生拭えません。逮捕されても、貫きたいことはあるのです。


このお話を伺って、この方は信用できる、と思いました。

「ぼくはすごい思い違いをしていたところがあります。沖縄は反米で、反日だと思っていました。辺野古の運動の背景にはそういうものがあるのだと思っていたんです。でも、違いますね」

「はい、違います。少なくとも反米ではない。沖縄はアメリカが好きですよ。一面ではアメリカは軍部日本からの解放者だったんですから」
「そうですね。平良さんの行動は全部肌感覚だということがよくわかりました」

ぼくは答えました。

「あのお兄さんと同じような思いを誰にもさせたくないんです」
「よくわかります。ぼく自身、沖縄との出会いは灰谷健次郎の<太陽の子>でした。小学生の頃です。はじめて沖縄戦の悲劇を知った。あまりに不条理な苦しみを沖縄の人々が受けてきた。苦しんだ分、幸せになるべきだ。ずっと少年時代からそう感じてきていました。そのような思いはやがて沖縄への憧れとなりました。そしていま沖縄にいます。渡ったきっかけは重度のうつをわずらったことにあります。東京と沖縄を安直に分けるわけではないのですが、東京では傷が見つかると、傷口を手当てするといって傷があることを思いっきり意識させるんです。この傷口を私は知っていると。知っている私の言うことを聞きなさいというような感じですね。これ、親切心かもしれないんですが、ものすごくつらいんです。親切心の名を借りた、自己優越性のアピールのように見えてしまうんです。沖縄に渡るきっかけとなったのは、沖縄では、こんな感じじゃなかったんです。あ、そーね。だから? 傷ついていようがいまいが、ニラカナさんはニラカナさんだし、といった感じですね。放っておくというのともまた違うんです。傷口があったらそっと包んでかさぶたになってくれるような存在。そのおかげでぼくの病状は本当に快復していきました。恩人の国です」
「日本では戦争が終わって60年たっていますけれども、沖縄ではまだ戦争が終わっていません。沖縄は傷だらけなんです。だから、傷を負った人が沖縄を訪れたら、居心地がよくて、救われるということにもなるのだろうと思います。みな傷だらけの中で生きていますから」。

かつて読んだ灰谷健次郎のエッセイにこんな一節がありました。
「あれだけ深い悲しみを負った沖縄の人たちが、底抜けに明るく、そして人に親切にしている。これは不思議なことだ」
と。その答えは、平良さんの言葉の中にありました。
「沖縄は傷だらけ。だからこそ、人を癒す」。

このような精神的指導者を不当に逮捕し、非人道的な手続きを繰り返しながら、住民を欺き続ける日本政府が、戦時中の日本とどれだけ変わったのか、ぼくにはその違いがよくわからない。傷だらけの沖縄に住み、傷だらけの牧師様方お二人を前にして、傷を負ったぼくが何ができるのか、「平和」という2字を前にして、自分はいかに行くべきか、深く考えさせられたひとときでした。

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