病気を語る。

去年の冬だったろうか。国道58号線から見える海岸(恩納村)にむかってシャッターを切るぼくに、工場長は「写真に撮るほど?」と訊ねてきたことがあった。どうして? この美しい海に撃ち抜かれない? と逆にぼくは問いただした。あれから半年以上は経っている。毎日180度視界が開けた海を眺めて暮らしていると、たしかに、あのときの工場長がそうリアクションしたことも理解できる。「当たり前」になっているのだ。美しい空も海も星もいまでは「当たり前」。もちろん、美しいと感じるし、陽の光の射し具合で変わる海の色はいくら観ていても飽きない。でも、「いつでも見ることができるし」という思いがどこかにある。

我が工房は、ホテル日航アリビラから歩いてこれる距離にある。自然、アリビラからのお客さんも多い。そのうちのあるお客さんは、こう言った。
「ここは仕事をバリバリするようなところではないでしょう? 皆、最後はこの風景を眺められるような生活をしたいと仕事をしているのに。それを果たしてしまったらそこが職場として成り立つわけがない」
--たしかに。最高の環境である。「仕事をしている」という意識もぼくの中では薄い。月末月初(ちょうど今の時期)の煩雑な事務仕事に辟易することはあっても、東京でしていたことに比べたら相当に軽い。クジラが見えれば、みな仕事の手を休めてクジラを見に行くような感じだし、美しい夕日を眺めに外に出ることもしばしばだ。仕事が終われば海に出てひと泳ぎ、とは、そうそうあるような環境ではないと思う。


また、昨日、アリビラから4名の若者が工房に訪ねてきた。一人は沖縄に6度ほど来たことがあるというが他の子たちは初めてだという。22歳から24歳。その子たちから、「お父さん」と呼ばれることにやや抵抗はあったものの、しかし、とても慕ってくれているのを感じ、話が弾んだ。面白かったのは、この子たちがオリジナルの「旅のしおり」を作っていたことだ。拝見させてもらったが、内容がよかった。いわゆる行程表ではなく、沖縄滞在中にしたいことが書かれていた。そのなかに「沖縄の人たちと仲良くなる」というのがあった。主にこのしおりを作ったのは新宿2丁目で働く元花屋の男の子だという。
「沖縄の人たちと仲良くなった?」
とぼくは訊ねた。機会がなくて、とその子たちは口を揃えて答えた。そうか、ぼくでよければ、これから昼ごはんを食べに行くところだし、よかったら一緒に食事をしない? と誘ってみた。「ぜひ! 大衆食堂みたいなところに行きたいです!」というので、行きつけの「おいシーサー」に行くことにした。


3年ほど沖縄と東京を往復して沖縄に住むことになったんだ、とぼくは話した。この小さな食堂である「おいシーサー」はぼくにとって、とても忘れられない場所にもなっている。

それは、ぼくが沖縄に来て間もない頃。夕ご飯を食べに「おいシーサー」を初めて訪れたとき、思いがけずそこのネーネーと話が弾んだ。話が弾んでいる間に、注文した料理の倍は食事が出て、いわゆる「ちゃーかめー攻撃」を受けた。灰谷健次郎譲り(?)の「沖縄万歳」なぼくの話は、ネーネーとの距離をどんどん狭くしていった。「弟を呼ぼう」、「友だちを呼ぼう」と閉店したあとも人がどんどん増えていき、ゆんたくに花を咲かせることになった。当時野宿していたぼくの暮らしぶりを聞いて心配したネーネーが、「うちの店の鍵を預けるから、店の座敷で寝ればいーさー。布団も用意するから!」と初対面にもかかわらずとてもありがたい申し出をしてくださった。当時ともに「野宿」をしていたアーキーをおいて一人座敷で寝るわけにもいかなかったので、それをお断りすると、「せめて明日の朝食でも持って行って!」とお弁当を詰めてくださった。「沖縄の人たちと仲良くなろう」という若者たちに、ぜひこのネーネーに会ってもらいたい、そんな思いがあった。


「そもそもどうして沖縄に来ようと思ったんですか?」
と訊ねられ、
「あまりに多忙すぎて自分は何のために生きているのかわからなくなり、やがて病んだ。医者から自宅療養を命じられて、自宅に篭っていても余計どうにかなりそうだったものだから、以前から行きたいと思った沖縄に来たんだ。小学生の頃から灰谷健次郎を読んで沖縄には強い憧れがあったし、その後も沖縄出身の人たちと知りあうにつけ、沖縄にはぜひ行きたいと思っていた。はじめは1ヶ月のつもりだったが、やがて半年になり、それから何度か東京と往復していた。往復しなければならなかったのは、当時東京に彼女を残したままだったから。でも、最終的にはその彼女とも別れ、沖縄に移住することになった。移住は勢いとタイミング。あまり先のことは考えなかったなあ」
と答えた。彼らが食いついてきたのは、ぼくの「病んだ」という一言だった。
「いまは治りましたか?」
「自覚的には治った、と思っている。でも強い抗うつ剤は今でも飲んでいるし、睡眠薬も飲んでいるよ」
「治ったと思ったのは、どういうことからですか?」
「本当に偶然だったけれども、野宿が効いたと思う。仕切りのない生活。風を受けながら自然を感じ、星を見上げながら眠りにつくような生活。不自由さがもたらした自由というか。それと、頑張らなくても自分は自分でいいんだ、という扱いを受けてきたことかな。待つやさしさに守ってもらったことも大きい。なんくるないさとてーげーとちむぐるさーを覚えて救われたなあ。言葉は文化だと思う。沖縄のそうした文化にとても助けられた」
彼らが「病んだ」という言葉に敏感に反応したのにはわけがあった。そのうちの一人の女の子のお姉さんがうつ病で苦しんでいるという。お姉さんも苦しいだろうが、うつ病患者を抱えた家族というのもまた苦しいと吐露した。また他の女の子は親友がうつ病にかかり死んだ、と涙ながらに話していた。さっきまで工房でビキニ姿になっていたような「キャピキャピ」(死語か?)の子がおいおい泣いている。
「そのことで自分を責める必要はまったくないからね。ぼくも中学生の頃からとても親しくしていたモノカキ仲間を同じ病で亡くした。本当に苦しかったし、それを自分のなかで消化できたかというと、今でも消化はできない。でも自分は生きているし、生きている者がその死の意味を見つけていかなければならないのではないかと思っている。全部無駄になることはないし、自分たちがどう元気に過ごしていくか、その死から学んでいくことが必要じゃないかな?」


深く知り合ったならば、沖縄に渡った経緯を話そうとするとき、ぼくの「病の話」は外せない。たまたま、お客さんとしてきた彼らに、「おいシーサー」でこのような話になったのも、何か深い縁を感じた。と同時に、この4人のうちの二人までもが身近にうつ病患者と接しているということに、この病は「時代のもの」とも感じた。本当に多くの偶然が重なって、ぼくは、自覚的には「治った」といえるようになるまでになった(沖縄に渡る前は常に「治りつつある」という表現を用いていた)。薬を援用はしていても、抑うつ状態になることは本当にこの7ヶ月あまり、ほとんどない。


海の景色が「当たり前」になってきているのと同じように、ぼくの調子のよさもだんだん「当たり前」になってきている。でも忘れてはならないのは、これは多くの人たちに支えられて「いま」があるということ。



後日談。

「おいシーサー」のネーネーに「ニラカナさんも隅におけないねー」と言われる。
「どうして?」
と訊ねたところ、「女の子泣かしてたでしょう?」と言う。
「あれは別れ話だったんでしょう?」
あはははは、とぼくは笑った。
人の噂はぼくの知らないところでこうして広がるのだな、と。

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