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君よ 自然であれ

どうすれば一瞬に一瞬に無条件の限りない愛を創造、表現できるのか?
全面的な大きな意味での愛とは自然なモノ、通常(ふつう、 世の中の常、常識)ではない。
自然とは物事の基本的な性格である。
自然な自分を愛すること、何かに惹かれる自分を愛してあげることから始まる。
全面的な愛とは、全面的な自由である。

人は自然な自己=思ったことを思ったように行動したい行動する自分、思ったことを思ったように言葉にしたい言葉にする自分は飼い慣らすものであり、
押さえ付け従属させるべきものとして信じてきた。

世の中の常識、普通という枠からはみ出る自分はいけないもの、避けなければいけないものとして。
現に自然なままの自分を見せることを罪だとしても扱っている。
裸になって外を歩くことや文化によって定められたルールなど

裸になって外を歩けと言っているんじゃなくて、自然な自分を見せることに対する罪の意識のことを指摘している。
例えば僕らは、自分の身体に恥ずかしさを持つよう教育され、互いの身体を見せ合うことに躊躇する。

例えば僕らは、身体の造形に優劣を持つよう教育され、自分の身体が劣っていると思い込むとそれがコンプレックスとなり、自分で自分を傷付けてしまう時がある。

逆に自分の身体が相手より優れていると思い込むと、相手のことを傷付けてしまう時がある。
自然なままの自分を愛せずにいるから、自然なままの相手を愛すことが出来ない。

生まれたままの姿が何よりも美しい。
美しいってのはただ綺麗であったり、顔や身体が整っていることを言っているのではない。
世間一般で言う美女や美男子の事を美しいと思っているのなら、勘違いだ。
それはただの流行であり、文字通り流れては消え去るもの。
あなたがあなたらしく、自然であること。
それが美しいの意味するところだ。

子供が生まれれば、その子にも自分達と同じような教育をしなければと思う。
自然なままでなく、不自然であるようにと。
自然な自分達を見せることなく、不自然な自分達を見せるようになる。

そうして子供の前ではスキンシップをしなくなったり、2人の愛を育む時間を避けてしまう。
「子供が見てるから」「子供が居るから」と。
それはいわゆる「普通」かもしれないが、「自然」なことではない。

子供の前でも自然な自分達を見せればいい。
それこそが親の教育だ。
親を見て子供は育つ、親が自然にスキンシップをしていれば、自分も大人になればそうなるんだと自然に理解する。
子供は何よりも自然な存在であり、自分達の自然な性に気付いているから。

自分の性に素直であるから恋をするし、誰かを愛することもある、それが愛であることを意識せずに。
ただただ自然に相手を愛する。それこそが子供の美点だ。子供には素晴らしく学べる機会が沢山ある。

子供をないがしろにしてはいけない。
子供に教育しつつ、自分も子供から教育を受ける。
そうなると教育の真の意味が分かってくる。
真の教育とは何かを教え込ませず、引き出す。
その人自らが気付く、気付かせること。
僕らは元から全てを携えてやって来ているのだから、本来は詰め込む事など何も無い。
ただ引き出すだけ、見守る気持ちで相手を信じる。
ありがとうございます。

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