なぜ昭和天皇に戦争責任がないのかを、左翼でも分かるように説明する
今、日本の左翼は岐路に立っている。それは、歴史認識があまりにも歪んでいるからだ。
こんな記事があった。
この記事を書いた人は、典型的な左翼だ。昭和天皇に太平洋戦争の責任が「ある」と認識している。そのことを、頭から信じて疑わない。そして、この記事を書いた人以外にも、「天皇には戦争責任があった」と信じている人はそれなりに多い。そういう左翼が多いのだ。
しかも、そうした左翼は、そう主張する割には歴史を知らない。その気になればすぐに分かるような事実さえ調べず、左翼史観を押し頂くようにして無条件に受け継いでいる。そうした中で、「天皇には戦争責任がある」と自信満々に叫んでいる。そして、「ない」という人たちを「歴史修正主義」だと糾弾している。
これは全くおかしな話だ。というのも、そもそも戦後、天皇は公的に責任を問われなかった。だからこそ、生き続けた。それは、処刑されたムッソリーニや攻撃される中で服毒自殺したヒトラーとは対照的だ。その意味で、歴史は間違いなく「昭和天皇に戦争責任がなかった」と判断している。だから、もしあったと主張するのなら、その方がよっぽど「歴史修正」的である。
しかし左翼は、それこそ歴史修正主義なのか、「戦後に天皇が戦争責任を問われなかったのは、ある種の陰謀だ」くらいに考えているようだ。日本の権力者(ファシシスト)がそれをごり押ししたとか、アメリカとの裏取引があって本当はあったのに無理やりなかったことにしてもらった……くらいに思っている。
ここでポイントとなるのは、くり返しになるが、こうした左翼の人たちが、実は歴史をほとんど知らないということだ。ぼくは、これまで数多くの左翼の人たちと話してきたが、彼らはびっくりするくらい、日本の近代史を知らなかった。
そうなのだ。彼らは歴史を知らないくせに、天皇に戦争責任があると言い、天皇に戦争責任がないと言う人たちを「歴史修正主義」と糾弾してしまっている。
だから、彼らの考えも、歴史を知れば大きく改善するはずだ。実際ぼくは、歴史を知ることで、自分の間違いを認め、考えをあらためた左翼の人たちを何人も見てきた。
そこでこの記事では、そんな歴史を知らない左翼の人たちにも分かるように、なるべく簡単に日本の近代史を説明したい。その上で、なぜ昭和天皇に戦争責任がないかということを説明してみたい。
まず、話は明治維新まで遡る。明治維新は、これまでの社会制度を根底からひっくり返すほどの大改革だったので、新たな(しかも大きな)旗印が必要だった。そこで、明治政府が掲げたのが天皇だった。日本国民を「天皇の子」と教化することで、国の在り方そのものを変えようとしたのだ。始めたのは明治政府、もっというと薩長だった。
そこから日本では、「天皇をトップと見せかけた薩長トップの時代」が始まる。そうした中で時は流れ、いろいろありつつも、時代は明治から大正に移る。
そこで、一つの象徴的な事件が起きる。1920年の「宮中某重大事件」だ。これは、簡単にいうと昭和天皇(当時皇太子だが、以降も昭和天皇で統一する)の結婚に、松下村塾出身で長州出身の大老、山県有朋が反対したのだ。ここで重要なのは、山県有朋はこのときまで、「自分の権力は天皇よりも上である」と思っていたことだ。だから、半ば公然と反対できたのだ。
しかし、ここで昭和天皇は反旗を翻した。山県有朋の反対を拒絶したのだ。しかも、この話が広まると、世間からは山県有朋に対する大バッシングが起きた。これは、山県有朋には予想外だった。世間は、予想以上に天皇への尊崇の気持ちを強めていた。これは、薩長の意図した以上のものだった。言い方はあれだが、鼻薬が効きすぎた。傀儡のつもりだったが、その傀儡が力を持ってしまった。
おかげで、山県有朋は意見を取り下げざるを得なくなる。しかもこれを契機に、薩長の力も弱まっていく。依然として隠然たる力は残っていたものの、「天皇を味方にできれば薩長を倒せるかもしれない」と考える人々が増えていく。
ところで、日本は「独裁国家」というのは不適当である。それよりも「クーデター国家」というのが相応しい。なぜなら、そもそも明治がクーデターで成立した政権だからだ。そのため、明治以降の政権は、何よりクーデターを恐れた。自分たちもそれで成立した分、され返しても文句が言えないところがあるからだ。
そのせいもあって、薩長を恨む者は、絶えずクーデターを狙うようになった。そして山県有朋の失脚を機に、世の中は一気にクーデター時代へと雪崩れ込む。実際にクーデターが頻発する世の中になるのだ。
その後、1926年に大正天皇が崩御し、世の中は昭和に移る。この頃から、日本では深刻な「不況」が問題となっていた。
不況の一番の理由は、第一次世界大戦にある。第一次世界大戦は、1914年から1918年にかけて起こった。日本は参加しなかったが、ヨーロッパでは数多くの工場が爆撃され、消失した。おかげで、日本は輸出で大儲けした。特に、生糸や繊維の輸出が大幅に延びた。
そこで戦後、東北の農家を中心に、多くの農家が養蚕に乗り出した。糸を作って輸出するためだ。その蚕の餌になる桑を植えるために、たくさんの東北の農家が銀行から多額の借金をした。銀行も、ほぼ無計画にじゃんじゃん貸し付けた。この構造は、後にバブルのときにもくり返される。
ところが、1920年代に入ると、戦禍から復興したヨーロッパの各工場が、日本よりも安く、日本よりも質の良い糸や繊維を作り始めた。そのため、日本の糸や繊維は急に売れなくなった。おかげで、養蚕業に乗り出した農家は大打撃を受ける。みんな借金で首が回らなくなったのだ。
これが深刻な不況を引き越し、後に「昭和不況」と呼ばれるようになる。そこに、悪いことは重なるもので、1929年に世界恐慌が起こってしまう。これで、日本は貧乏のどん底に突き落とされる。昭和不況が、いつの間にか「昭和恐慌」と呼ばれるようになっていた。おかげで、1930年代初頭は多くの人が路頭に迷った。
特に、東北の農家が路頭に迷った。豊作による米価の下落や、支配した朝鮮や中国から安い米が輸入されたことなども大きな打撃となった。何より、養蚕の借金がボディブローのように効いてきて、多くの人の首が回らなくなった。
そこで、東北の農家はどうしたか? 次男坊以下は兵隊にやり、娘は女郎屋へ売りに出した。他に売るものがなかったからだ。
一方この頃、陸海軍ではいよいよクーデターの気運が高まっていた。それは、不況もあったが、何より薩長出身以外の将校たちが、薩長閥に阻まれて出世できないという弊害があったからだ。特に戊辰戦争で負けた東北出身の将校は、どれだけ能力が高くても差別され、冷遇されていた。
そのため、東北出身の将校は上層部に憎しみを抱いていた。そんな雰囲気の中で、彼らは自分たちが指揮する部隊に戻ると、新しく入ってきた東北出身の二等兵と出会った。そこで、同郷のよしみで親しく話すうちに、彼らの不遇を知る。「姉や妹が女郎屋に売られた」「自分の軍隊の給料で、両親を養っている」。そういう話を聞くと、若い将校たちは憤った。そして、「それもこれも全部薩長が悪い」と考えるようになる。
ところで、この頃軍部、特に陸軍は、手当たり次第に人を雇っていた。それは政治的な思惑が強かった。
というのも、陸軍はこの頃、元陸軍の大権力者だった山県有朋の権威が失墜したため、薩長のみならず「陸軍自体が不遜だ」という空気が世の中に広まるようになっていた。だから、その汚名をすすぐ必要があった。その一環として、困窮した国民を助けるという名目で、兵隊を雇うだけ雇っていたのだ。
前述のように、この頃は不景気のどん底だったから、多くの若者に仕事がなかった。東北農家の次男坊以下も、困っている親や姉妹を助けたくても、肝心の働き場所がない。そんな中で、陸軍に入って給料がもらえることは、とてもありがたいことだったのだ。
おかげでこの頃、軍隊の人員は際限なく膨れ上がっていった。そのため、陸軍の人気も徐々に回復していった。
しかし一方で、当たり前のことだが兵隊を雇うにはお金が必要だった。当時、国庫は不況の折、逼迫していた。だから、政治家の間にはやがて「陸軍を縮小しよう」という気運が高まってきた。陸軍の膨れ上がった予算を削ろうと考え始めたのだ。
しかし、それは陸軍としては絶対に避けなければならなかった。なんとしても兵隊を雇い、世論の支持を得続ける必要があったからだ。特に、東北の農家の支持を得たいという気持ちが強かった。もちろん、そこには「東北の農家を助けたい」という善意もあった。だから、予算だけは絶対に確保する必要があった。
それでも、戦争もないのに兵隊を雇うのはさすがに無理があった。そこで、一部のエリートが、自分たちで戦争をでっち上げることを考えた。そうすれば、大手を振って兵隊を雇える。これも、政治に対する一種のクーデターだった。
そうして起きたのが満州事変である。起こしたのは、石原莞爾と板垣征四郎。ちなみに石原は山形出身で、天才中の天才。板垣は、岩手県出身で、石原の上司であったが、その才能を高く評価していた。こちらも、マネジメントにかけては天才であった。いずれも天才だったが、いずれも東北出身だった。
そんな2人が起こした満州事変に、日本では東北の農家のみならず、国民全体が大喜びした。なにしろ、「戦争に勝つ」というのは明るいニュースだったからだ。これで経済が潤えば、もう餓死しなくて済む。ほとんどの日本人が、そんなふうに考えた。
しかし、その満州事変が、新たな火種を呼ぶ。ご存じリットン調査団である。リットンが、満州事変は怪しいと考えた国連の依頼で、満州や日本へ調査にやってきた。そして、かなり穏便な口調ではありながらも、これを日本の陰謀と結論づけた。満州は、日本に盗まれたと国連へ報告したのだ。
それを受け、国連は日本に満州からの撤退を勧告した。しかし、日本はこれを聞き入れなかった。なにしろ、あれだけ国民が喜んだものだから、後には引けなかったというわけだ。それで、松岡全権大使が、1933年に国連で「やめてやる!」と啖呵を切り、脱退を宣言した。これに国民は、拍手喝采で応えた。
さて、そんな中で軍部の若手将校たちは、いよいよクーデター計画を本格化させる。というのも、山形の権威が失墜したとはいえ、依然として薩長は、大老などの高い地位に就き、国を牛耳っていた。そこで、敵の本丸をこの大老に見すえ、彼らを失脚させようと考えた。その上で、昭和天皇を頂に、新たな政府を作ろうとしたのだ。
そうしてまず、1932年に五・一五事件が起きる。これは海軍の将校が起こしたクーデターだ。これは失敗に終わるのだが、このできごとを受け、今度は陸軍内部で将校同士の内紛が激化する。一方は、海軍を見習って軍事クーデターを起こそうとする勢力。これを「皇道派」という。もう一方は、非軍事的に権力を獲得しようとする勢力。これを「統制派」という。
この両者は激しく争っていたが、そんな中で、皇道派の若手が、統制派のトップだった永田鉄山を暗殺するという事件が起こる。1935年のことだ。これも、陸軍内部で起きたクーデターの一種である。
この永田は「永田の前に永田なし。永田の後に永田なし」と言われた天才中の天才であった。ただし、出身は長野県諏訪で、東北ではない。ちなみに、石原とは天才同士だが、ライバル的で、それほど仲が良くなかったといわれる。
この永田が死んだことで、逆に統制派が勢いづく。「暗殺された被害者」という立場を利用し、逆に皇道派を追い詰めていくのだ。
追い詰められた皇道派は、ついにほとんど破れかぶれの二・二六事件というクーデターを、1936年に起こす。これは昭和天皇を激怒させる結果となり、やっぱり失敗に終わる。
この失敗によって、いよいよ陸軍は統制派が牛耳るようになった。そして、1940年くらいまでには、陸軍はもちろん、国そのものを影で牛耳るようになっていた。つまり、静かなクーデターが成功したのだ。
その統制派の中心メンバーの一人だったのが、東條英機である。彼も岩手県出身で、長州閥には強い憎しみを抱いていた。
そんな彼は、やがて陸軍大臣を務める中で首相だった近衛文麿と親しくなり、これを大いに助ける。そんな中で、日本の困窮はいよいよ極まってきた。アメリカが、日本の国連脱退後、経済封鎖を本格的にしてきたからだ。特に石油の輸出を制限した。おかげで、日本は燃料不足に困ることになる。
この頃、新聞は連日のようにアメリカの横暴を喧伝した。アメリカ憎しの心を国民に植えつけた。そうして民衆の間では、「アメリカとの開戦」を待望する声が大勢を占めるようになった。今の貧乏は、全部アメリカのせいだと思うようになっていたのだ。
そういう声が高まる中で、追い詰められた近衛首相は、なんと首相を辞任してしまう。理由は、国民の「アメリカと戦争をしろ」という声に反対ではあるものの、それを反対するとクーデターで殺されかねないからだった。この頃、戦争に及び腰の近衛に対して、世間からは強い憎しみの声が公然と囁かれていた。
しかし一方で、近衛は「戦争をすればひどい負け方をする」とも分かっていた。だから、戦争に賛成も反対もせず、結論を先延ばしにしたのだ。そういう、無責任な人物ではあった。
そして、その後を継いで首相に就任したのが東條英機だった。この就任には、昭和天皇が深く関わっていたという。というのも、昭和天皇はもともと太平洋戦争に反対だった。一方で、東條は権力者の中でも最も昭和天皇に対する忠誠心が高く、最も言うことを聞いてくれる部下だった。だから、東條なら自分の意を汲んで、たとえ命を賭けることになってでも(たとえクーデターで殺されようとも)戦争に反対してくれると考えたからだ。
ところが、首相に就任した東條は、そこで初めて国民の声の大きさ(その圧の強さ)を知る。近衛が受けていた重圧の大きさを知るのだ。そこで彼は、どうしたか? なんと、国民の声に抗しきれず、「開戦を止めてほしい」と願った昭和天皇を裏切る形で、とうとう太平洋戦争を始めることを承認してしまうのだ。
そんなふうに、近衛は無責任な男だったが、東條は臆病な男だった。昭和天皇を信奉する気持ちは本物だが、それ以上に国民が怖かった。クーデターが怖かった。殺されることが怖かった。それほど、国民の声は強かったのだ。
一方で、東條の根底には「東北の農家を助けたい」という気持ちもあった。それが天皇への裏切りを後押しした。
というのも、東條も東北出身。東北の農家の苦しみは誰よりも知っている。そして、長州への恨みも誰よりも持っている。そんな彼の恨み思想が、このとき「戦争で困窮した状況を一気に打開する」という危険な策に走らせる要因になってしまったのかもしれない。
そうして戦争が始まった。始まってみるとそれはアンストッパブルで、あれよあれよという間に拡大した。そして、最初は日本が攻勢をかけたが、次第に国力に勝るアメリカに押し返された。
そんな中で、1945年に入ってからアメリカの攻撃が苛烈さを増し、とうとう国民の間にも厭戦気分が生まれ始めた。
しかし、そこで最後まで引けなかったのが陸軍だった。なにしろ、天皇を裏切ってまで戦争を始めた責任があるし、東北の農家も助けなければならない。何より、今負けを認めたら、これまで死んだ兵士たちが犬死にだったことを認めることになる。これだけは避けたかった。
このとき、陸軍のトップは、薩長でも東北でもない、大分県出身の阿南惟幾が務めていた。阿南は、皇道派でも統制派でもない、中立的なポジションだった。
しかし、そんな阿南でさえ、「戦争を止めるわけにはいかない」と思っていた。なぜなら、理由は3つあった。
1つ目は、前述したこれまで死んでいった兵隊たちや、その家族に顔向けできないということ。
2つ目は、戦争を継続しようという若手将校の声を抑えきれないこと。もし戦争をやめると言ったら、自分が暗殺される可能性が高かった。
3つ目は、天皇のことである。東條が天皇を裏切って始めたこの戦争で、天皇が責任を負うようなことになったら、死んでも死にきれないと思ったのだ。
しかしながら、広島と長崎に原爆が落とされるに至って、ついに阿南も戦争終結を認めないわけにはいかなかった。これは何より、昭和天皇がまず言い出したことだった。昭和天皇が自ら戦争終結を決意し、これを阿南にも伝えた。そして阿南も、このときばかりはさすがに昭和天皇には逆らえなかった。
ただし、阿南が戦争終結を認める上で、絶対に譲れなかった条件が一つあった。それが、「天皇の戦争責任回避」である。昭和天皇は、自分で戦争をやめると決めたからには、もちろん死ぬ覚悟なのだろう。それは阿南にも十分分かっていた。しかし阿南は、陸軍のエリートだったがゆえ、また頭が良く、中立の立場だったがゆえ、これまでの経緯は全て分かっていた。
そんな彼は、戦争を始めた責任は昭和天皇には「全くない」と思っていた。戦争が起きたのは、何より東條と、それを動かした国民の声、さらにはその背後にある長かった薩長支配、そして東北の貧乏と、日本のクーデター文化が理由なのである。薩長を静かなクーデターで打倒した石原・板垣・永田・東條ら、統制派の責任も大きい。もちろん、無責任な近衛にも責任がある。
しかし、「一番の責任は自分にある」と阿南は思った。自分がふがいないから、昭和天皇に迷惑をかける格好になった。これ以上昭和天皇に迷惑をかけたなら、自分は死んでも死にきれないと思った。
だから、誰が何と言おうと、それこそ昭和天皇が反対しようと、「昭和天皇の戦争責任回避」を条件に付けなければ、陸軍大臣として無条件降伏には賛同しないと決めた。だから、実は無条件降伏ではなく、降伏にははじめから昭和天皇の責任回避が条件として盛り込まれていたのだ。それ以外を無条件にするということにしたのである。
そして、他の閣僚もこれを了承したため、日本はポツダム宣言を受諾した。負けを認めたのだ。
そして、アメリカもこれを承諾した。というのも、この頃までにアメリカは、「日本は本当に玉砕しかねない」と思っていたからだ。アメリカとしても、さすがにこれ以上人を殺すのは嫌だった。それに比べると、昭和天皇の責任回避は軽い問題だった。それに、これを承諾した方が、戦後の統治もしやすくなるという考えもあった。
アメリカは、インドのイギリスからの独立戦争などを見て、人は武力では押さえつけられないというのを身に染みて分かっていた。だから、日本の武装を解かせる上でも、天皇の責任回避は、日本の世論を味方につける絶好のカードになると考えたのだ。
さて、そうしてとうとう戦争は終わった。ただし、8月15日に戦争を終わらせまいとした陸軍の将校が、またもやクーデターを起こした。彼らは、玉音放送が録音されたレコードを盗もうとして、皇居に襲いかかったのだ。世に言う宮城事件である。そんなふうに、日本は最後までクーデター文化であった。
それも失敗に終わったため、戦争はなんとか終わった。さて、昭和天皇の責任回避を最後まで主張した阿南惟幾は、その後どうなったか? なんと彼は、8月15日の玉音放送すら聞くことなく、その日の早朝に割腹自殺する。いわゆる切腹だ。
阿南は切腹して、自分の責任を果たそうとした。そして、昭和天皇に責任がないことをみんなに伝えようとした。自分たち陸軍に責任があると、世界の人々に分かってもらおうとした。だから、陸軍のトップとして腹を切ったのだ。
こうして、昭和天皇の責任は回避された。それは、歴史的な事実である。そして、肝心の「なぜ回避されたか」ということだが、ここまでたくさん述べてきたが、一番は「天皇は戦争に反対だったが、日本の世論(クーデター文化)に恐れをなした東條が、これを裏切ったから」である。その意味で、一番の責任は東條だろう。二番目となると、開戦を声高に主張した日本の民衆。そして三番目はクーデター文化にあるといえる。そこに、昭和天皇の責任はほとんどない。その権力にしても、東條に簡単に裏切られるくらい、弱いものだった。
実際、近衛も東條も、天皇よりもむしろ「戦争をしろ」という国民の方を向いていた。そうして昭和天皇を裏切り、戦争を始めた。
そもそもときどきの天皇は、明治政府ができたときからさんざんときの政府に利用されてきた。特に明治維新の重鎮たちは、天皇を都合の良いコマくらいにしか考えていなかった。
しかしながら、明治・大正・昭和と移り変わっていく中で、天皇の存在は国民の間で信じられないくらいに巨大化していた。それは、天皇を教祖とした新興宗教のような感じだった。そうして、明治政府の重鎮も天皇を無下にはできなくなった。しかし一方で、天皇を利用するという慣習は残っていた。だから、天皇の実際的な権力が強まることはなかった。
そんな中で、昭和天皇も選択を間違えたということはあっただろう。強権を発動できる立場にいるのだから、それを発動し、戦争を止めることもできた。
しかし、それをしなかった。そこには、やはり国民の声があったからだ。国民が戦争を望んでいる。戦争を望むくらい困窮している。娘を女郎屋に売り、次男と三男を陸軍に出して、しかも戦死してしまったケースも少なくない。そんな東北の農民たちの気持ちは、いったいどんなものだったろうか。
そのことを考えると、彼らの声を無下にはできなかった。だから、戦争に勝ち、八紘一宇の世界を実現しようと夢に抱いた。
そんなふうに明治維新後の天皇という地位は、日本が近代化を推し進める上で都合良く設けられたものだった。開戦時は、その制度がスタートしてからたかだか70年しか経っていない。だから、昭和天皇が実質的に強権を持つことは、やはりどうしても難しかったといえよう。
天皇という制度は、もともと時代という大海原を、なるべく潮流に逆らわずに泳いでいく……そういう文化が強かった。そして、19世紀の後半から20世紀の前半にかけては、その海が近代化、不況、そして世界大戦という大嵐だったのだ。こうして見てみると、実は昭和天皇ほど権力という言葉から縁遠い者もいないし、独裁とはかけ離れた存在もいない。ムッソリーニともヒットラーとも、成り立ちもありようも実際にとった行動も、全てがあまりにも違う。その上、あらためて言うまでもないが戦後の、歴史的な扱いも全く違う。
ムッソリーニは、1945年に処刑された。ヒトラーは、1945年に服毒自殺した。しかし昭和天皇は、1989年まで長寿を全うした。それは、彼に戦争責任がなかったからだ。それを、阿南惟幾だけではなく、勝者である連合国も認めたからである。
それを同列に並べ、「昭和天皇に戦争責任がある」などと軽々しく言えてしまうのは、日本の左翼くらいである。この説明で分からないようであれば、日本の左翼はいよいよ救いようがない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?