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覚悟を問う。

『空中庭園』(LINE通話でワイワイしゃべるオンラインの場)は、あらかじめ話すことを決めていないので、そのときどきで毎回話題が変わるのが面白い。

昨日はなぜだか「覚悟を問われる場面」についての話になっていった。

誰かが誰かに「その覚悟はあるか」と問う。
漫画なんかではよく見かける場面だけど、実際そうされるとなかなか暑苦しいものであるようだ。

自分自身そんなことをしたことがあっただろうかと振り返ってみたけれど、思い出せなかった。都合の悪い記憶は消してしまっているのかもしれないが、「覚悟を問う人ってなにを思っているのだろう」ということに関心が湧いた。

漫画なんかだと例えば奥義を伝授する時「覚悟はあるか」と問われる。「ある」と答えると、かなり厳しい試練が待っているというのがお決まりのパターンだ。この場合、覚悟がないと死んでしまうので「覚悟はあるか」と問うのはなんというか親切なことのように思われる。

でも日常で覚悟を問う場合には、ちょっと違うようだ。問う側が相手から熱意、本気、コミットを引き出したい、という趣旨のことが多そう。

ただ、つねづね思っていたことだけれど、コミットって人から言われて出るものじゃないと思う。「はい、コミットしています」と口で言ったところで、心や体がついてきていないことはいくらだってあるし。

覚悟も同じだ。言葉で「はい、あります」と言えるものでもないし、相手にわかるように表現するのも難しい。まして相手は「覚悟がない」と思っているから問うているわけなので、その印象を覆すのは至難の業といっていい。

相手によっては、熱血風のキャラクターを演じれば、答えたことになるのかもしれない。でもその場合、熱意を演じた自分の心が死ぬ。それは他ならぬ自分にはよくわかることなのだけれど、人によってはそのわかっている自分すらころしていることもある。そうすることで、相手や社会に適応した何者かになろうとする。

と、昨日の『空中庭園』を振り返りながら書いていたら「これって、就職活動の話じゃないか」と気が付いた。

「御社に入りたいです!」と熱意を表現するとき、まさにその瞬間に人は死んでいるのだと思う。だって大学生の立場からすれば、どこかの会社に心から入りたいなんて思うわけねーもん。(いや、ごく稀にはいるかもしれないが)

少なくとも僕はそうだった。大学3年生くらいの時に就職しなくてはいけないからという理由で熱意の方を捏造したおぼえがある。(でも結局、嘘っこの熱意は伝わらず、本当に好きだったディズニーランドの話をして採用されたので、それはそれでよかった。)

だから覚悟を問うなんてこと、しない方がいいんだよなと思う。

ただ、それでも、人生において覚悟を問われる場面がないわけではない。
僕の場合、結婚生活がそうだった。

それはもっぱら人からではなく「人生」から覚悟を問われる。
で、覚悟がないまま突進して、ズタボロになって、ようやく覚悟が芽生えるのよね。

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