Sketches.
ぐだぐだしていた。
夜の児童館だ。
一人、二人と子供が帰り、あとには家に帰りたくない子供たちが残った。
帰りたくない事情は様々だ。
大抵、親とうまくいっていない。
学校が嫌いだと言い、友達がいないと言い、児童相談所は役に立たないと言い、鳥のおなかが膨れてもうすぐ出産だといい、プリンのカラメルはこう作るんだと言い、シェアハウスっていいなと言った。
受験はどうしようと言い、部活が大変だと言い、朝ごはんがないと言い、30年後の未来はどうなってるんだろうと言い、人類なんて滅びればいいと言い、スタッフの家にいっしょに住みたいと言った。
本当のこととどうでもいいことがごちゃ混ぜになっていた。
僕は気が向いたときに相づちを入れるくらいで、聞くともなくその話を聞いていた。
話している内容は悪態に満ちているし、共感的に聞いているわけでもないが、笑いが次々に起きた。全員が不思議と親しい気持ちを共有している気がした。
「人生に疲れた」とある子が軽口みたいに言った。
「あんたにゃそれを言う権利がある」と冗談めかして僕は言った。
真面目になったら、なんだかこの空気がなくなってしまう気がした。
彼らの置かれた環境はシビアだ。
それはまったく彼らのせいじゃない。
けれど、それを生きていくしかない。
そういうときに大事なことは、問題を解決できるなにかではなく、笑い飛ばせるユーモアだ。
いま、ひととき、笑えれば。
僕たちはいいんだか悪いんだかよく分からないような、とりたてて面白くもない話を延々していた。それでよかった。
僕はといえば、その日は寝不足で、ちょうどシャツのボタンを一つずらしで止めてしまったみたいに、一日が微妙にうまくいっていなかった。
iPhone をなくしたり、ささいなことで誤解されたり、パソコンがこわれたり、どうかと思うような支援者に出会ったり、郵便番号がわからなかったり。
世界のどこかでは使い道のないお金があまり、またどこかではボランティアで働く人がいた。世界のどこかでは大量の食品が廃棄され、またどこかでは朝ごはんがなかった。
この日、僕たちが共有していたのは「あーあ」という気持ちだったのかもしれない。真面目になってしまったらはち切れてしまいそうな、そんな気持ち。
児童館は19時に閉まる。
ちぇっという顔をして、彼らは出ていった。
あてもなく、ひとりぼっちのどこかに。
僕はずいぶん寒くなったので手袋をして、なかなか来ないバスを待った。
帰ってきて、YouTube で漫才をずっと観ていた。
このところずっと、漫才を観ている。
ミキ、霜降り明星、おぎやはぎ、サンドイッチマン、ウーマンラッシュアワー、中川家、爆笑問題、博多華丸・大吉。
すごいものだと思いながら、僕もまた心のなにかを流している気がした。
いま、ひととき、笑えれば。
なんの解決にもならなくても、あのほかほかした場所にいられたら、それでいい。つかの間、明るい笑いに包まれたら、それでいい。
それはささやかで健気な光だった。
この世には、こんなにふつうの、なんてことのない光があるのだと思った。
記事を読んでくださって、ありがとうございます。 いただいたサポートは、ミルクやおむつなど、赤ちゃんの子育てに使わせていただきます。 気に入っていただけたら、❤️マークも押していただけたら、とっても励みになります。コメント、引用も大歓迎です :-)