大人になること_

勇気をもって大人になること。

岸見一郎さんと古賀史健さんによる『幸せになる勇気』を再読した。

アドラー心理学を世に広めたベストセラー『嫌われる勇気』の続編。
青年と哲人の対話形式で、読んでいてぐいぐい引き込まれる。

中でも、哲人が青年に突きつけるこの一言は、僕にも刺さった。

あなたはまだ、ほんとうの意味での自立を成しえていない。
あなたはまだ、「誰かの子ども」としてのライフスタイルにとどまっている。

子どもとしてのライフスタイルとは「愛されるため」に生きることを指す。

生まれたての子どもは、弱さゆえ泣いて、周囲の大人をコントロールしなければ命が危うい。過剰なまでに自己中心的になり、注目を集めて「世界の中心」に自らおかなければ生きていけない。

生きていくためには、親から愛される必要がある。
このことを悟った子どもはそれぞれに、親の注目を集め、愛されるためのライフスタイルを選択する。

このあたりの説明が、実に見事だと思った。
児童館に来る子どもたちが、なぜあんなに注目を集めたがるのかがわかるような気がした。そして、年齢的には成人して、大人とみなされている僕や僕たちもいまだにそれをしていることに気づく。

ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。

また他方ではあつかましくも他人の後見人と僭称したがる人々も跡を経たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。

これは、カントの『啓蒙とはなにか』の一節。
カントもアドラーも、そこから脱するには「決意と勇気」が必要と言っている。

なにに対して、決意と勇気を行使するのか。

愛することだ。

われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。
(岸見一郎・古賀史健『幸せになる勇気』P272)

このときの「愛すること」は、ただ人を好きになったり、恋に落ちたりすることではない。

愛するとは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。

(略)

愛することとはたんなる激しい感情ではない。
それは決意であり、決断であり、約束である。

と、エーリッヒ・フロムが言った意味でのものだ。
愛という言葉の美しさとは裏腹に、とても厳しく困難なものだとアドラーはいう。

以前読んだときには独身だったが、結婚生活をしているいまは、この言葉の意味が少しだけわかる気がする。

「わたし」ではなく「わたしたち」の幸せを考えること。
それは、うっとりした響きをもつが、実際には大変なことだ。
うまくいかないことも多いし、疲弊することだってしばしば。

でも、その苦労によって築かれるものがある。
まだまだ未熟だが、結婚生活によって僕はかなり変わった。

アドラーは教育の目的を「子どもの自立を援助すること」と語る。
でも、それは大人が自立していなければ、愛することに取り組んでいなければ、できようもない。

愛されようとするのではなく、愛すること。
その上で子どもたちに「そんなことをしなくても、君は君でいいんだよ」と伝えること。

そんな集団が、共同体が、社会ができていったならば、どんなにかいいだろうかと想像する。

それをつくることが、大人の仕事なのだと思う。

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