職場に、スプーン一杯の「たのしみ」を。
コーヒーに砂糖は、いくつ入れますか。
って、ぼく、コーヒー飲まないんですけどね。
なんでこんなことを書いたかというと、仕事や職場がブラックコーヒーみたいに苦〜いものに見えているから。
ぼくは40才をこえ、職場で「年上のおにいさん」や「おじさん」役をやることが増えた。
若輩ながらその立場から申し上げますと、「年上のひと」の役割って、若いひとたちの心に「すき間」を空けることにあると思う。
仕事に初めてふれる新人たちに「そこまで肩の力を入れなくてもだいじょうぶだよ」と伝える。「これはやっちゃいけないのかな」と遠慮している向こう岸で「ほうら、平気平気。好きにやりなー」とぴょんぴょん跳ねて見せる。
そんなふうにして、萎縮して固くなっている若いハートに、スプーン一杯の角砂糖のような「たのしみ」が入るすき間をあける。
ぼくの人生には、数人だけれどそういう先輩がいて、おかげでずいぶん息がしやすくなった。
先輩たちのことを思い出すと、いまでもニンマリしてしまう。
オフィスで『エースをねらえ!』を暗誦しはじめたとか、「事件は現場で起きてるんだ!」と『踊る大捜査線』ごっこをしたとか、あんなエピソード、こんな武勇伝。
先輩たちは、めちゃくちゃ破天荒だった。そして、彼らが与えてくれたすき間から、ぼくはじわじわと「自由」の範囲を広げていった。
そうではない「年上のひと」たちにもいっぱい遭った。数としては、そっちの方が多かったと思う。
彼らは理由のはっきりしない「まじめさ」だとか「堅さ」を大事にしていて、年下にそれを強いた。言葉で強制しないにしても、若いひとたちが自分たちと同じ「堅さ」に適応するよう、明に暗に“教育”を施した。
そうした“教育”は若いひとたちを萎縮させ、いろんなことにビクビクする大人をつくりあげた。彼らは、なんの危険もないところを怖がるようになり、ついでにその「堅さ」を下に伝えるようになった。
ぼくは結構な臆病者だけれど、いつ、いかなるときであれ「たのしみ」を多く必要とする。だから、そういう人たちは天敵みたいなもので、逃げたり対決したりしながら生きてきた。
コーヒーに砂糖を入れるように、職場にもスプーン一杯の「たのしみ」がほしい。ほんとうは一杯じゃ足りなくて、腹がよじれるくらい破茶滅茶なことが起きてほしい。
そうしたぼくの好みがまわりから理解されたり、評価されたりすることは少なかった。みんなブラックの方が好きだったのかもしれないけれど、ぼくには苦かった。
幸い、いま勤めている児童館は「はたらく」場所なのに「あそぶ」が多いし「まなぶ」もたくさんある。そして、誰からもなにかを強いられることがない。
そんなふうに「あそぶ」「まなぶ」「はたらく」が一体になると「いきてるなあ!」という喜びがはっきり感じられる。それは、好きなひとに「好き!」ってすぐに言えちゃう感じで、とても心が軽い。
こないだ、後輩がした仕事がすごくよくて「なんかうれしいなあ」とホクホクして帰った。そんな職場にいられていることがすごくラッキーだと思って「おれもそんなふうに思うようになったのか」と驚いた。
ここでは、ぼく自身が「年上のひと」なので、若いひとたちの心にすき間をあける仕事がしたいと(こっそり)思っている。いつかの先輩たちみたいに、破天荒にはできないかもしれないけれど。
くり返すと、人生にはスプーン一杯以上の「たのしみ」がいると思う。
そして「年上のひと」の役割は、若いひとたちに「たのしみ」を感じやすくするようなすき間を与えることだと思っている。そうでなくちゃ、つまんない。
必要以上にブラックな職場に、スプーン一杯の「たのしみ」を。
そういう「年上のひと」が増えてくれたら、仕事はうんと面白く、いきいきとすると思う。
そしてそれは「はたらく」ことに限らず、「まなぶ」ことも「くらす」ことも、きっと同じなんだと思う。
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