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リモートが増えるとはどういうことか。

コロナウィルスが現れて「リモート」という言葉がすっかり普通になった。
そんな中、SNSでよくシェアされていた京大総長・山極寿一先生のインタビューを腰を据えて読んだ。

五感の中の触覚や嗅覚、味覚という「共有できないはずの感覚」が信頼関係をつくると言いました。

たとえば、触覚は触れると同時に触れられてもいますから、非常に共有が難しい。だから、母子もカップルも、肌の触れ合いを長くすればするほど信頼が高まります。

それは、「触覚」という本来「共有できない感覚」を一緒に経験しているからなんですよ。
チームワークを強める、つまり共感を向ける相手をつくるには、視覚や聴覚ではなく、嗅覚や味覚、触覚をつかって信頼をかたちづくる必要があります。
人間は言葉や文字をつくり、現代ではインターネットやスマートフォンなど、身体は離れていても脳でつながる装置をたくさんつくってしまった。

だから、安易に「つながった」と錯覚するけれど、実際には信頼関係は担保できているわけではないという状況が生まれています。

信頼にまつわるすごく面白い記事。まさに「いま」を捉えた感じがするけれど、掲載されたのは2017年の9月。

この記事では「リモート」とは真逆の価値観が提示されている。
以前こんな記事を書いたけれど、

「リモート」の違和感を観察する人は他にもいるようで、こんな記事も面白く読んだ。

人と人のあいだの「息」や「空気」が失われたリモート空間の中で、笑いをつくるための「間」も失われていく。視覚や聴覚は共有できるけれど、皮膚感覚や嗅覚、味覚といった「共有できないはずの感覚」は実際に共有できない。

そんな働き方が、主流になる。

すると、どうなるか。
楽観する人も悲観する人もいるけれど、僕は先のインタビューの中の

人間の場合は、たとえ自らが不利益を被っても、時には自らの生命が危険にさらされても、チームを優先しようとすることがあります。脳でつくった目的やプロセスに身体をつなげてしまうんです。

戦争なんかも言ってしまえばチームワークなんだろうけど……、あんなバカなことはないですね。

という傾向が強くなってしまうのではないかとすこし危惧している。

身体で感じる信頼感がないまま、脳がつくった物語に身体をつなげてしまう。身体の訴えや声が聞こえないまま、粛々と目的を遂行するようになってしまう。そういう「働き方」が増えていくと、人は苦しくなるような気がする。

リモートになっていなくても、そういう状態の人は少なくないのに、もっと増えたらどうなってしまうんだろう。

僕はいま、『声で逢いましょう』『空中庭園』といった電話でつなぐグループを実験的にひらいているけれど、

ビデオミーティングよりは身体がらくな気がする。そして「声だけ」の方が相手に「ふれる」感覚を得やすい気も。これは一つの光明になるのだろうか。

とはいえ、やっぱりそこには「息」や「空気」の共有はない。
どうしていくんだろうね。どうしていこうね。

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