座の文芸。
「ほぼ日の学校長だより」というメールマガジンで「歌仙を巻く」という遊びが紹介されていた。
一人が、5・7・5の俳句(発句)を詠み、次の人が、7・7を詠む。
以下、5・7・5、そして、7・7と次々に詠んで、みんなで一つの歌をつくっていくというものだ。
松尾芭蕉は、俳句よりもこの歌仙を重んじたそうだ。
おくのほそ道も、仲間と歌仙を巻きながら旅をしたらしい。
記事には、こんなくだりがあった。
俳句や歌仙を「座の文芸」と呼ぶことがある。
この「座の文芸」の正しい意味は、複数の人が一堂に会して共同作業で俳句や歌仙を作るということではない。
歌仙の場合、参加する連衆が「私」を捨て去って、次々に別の人物を演じる。そこに仮面をかぶったさまざまな人物、動植物、物体による祝祭の空間「宴」が出現することをいうのだ。
日本人がヨーロッパから学んだ近代文学が「私」に固執する文学であるなら、連衆が「私」を捨てて別の人になりきる歌仙は(そして歌仙から生まれた俳句も)その対極にある文学ということになるだろう。
「私」たちの共同作業ではなく「私」を捨て去っていくことで「宴」が出現する「座の文芸」。
歌仙に参加したことのある友人は、こんな感想を聞かせてくれた。
「歌仙を巻き終えると、やり遂げた大満足感に一座は包まれます。」
似たようなことを「IPPONグランプリ」を観ながら思った。
芸人さん十人による大喜利バトル。
思いっきり「私」と「私」のぶつかり合いのはずなのだけれど、この番組の場合、勝敗には、前の回答やそれまでの流れといった「私」ではない要素が大きく影響する。
実際、「私」が強く出ていた霜降り明星・粗品さんの回答は、チェアマン役の松本(人志)さんから「お笑いIQが高すぎる」と判定されていた。個人としては飛ぶ鳥を落とす勢いでも、ここでは全体の空気を読んで、時に「私」を捨てていくような芸が求められる。
最初から最後までずっと、見応えのある勝負だった。
誰が勝ったということよりも、全体としてとても面白い「宴」になっていた。
まさに「やり遂げた大満足感に一座は包まれる」だ。
撮り終えた後、いいお酒が飲めただろうなと思った。
そして今日、こんな動画を見つけた。
音楽家、バジル・クリッツァーさんによるピアニストへのレッスン。
ここでは「私」は、こんなふうに説明されていた。
いま醸し出した雰囲気がね、罰ゲームに近かったです(笑)。
音楽家がやりたいことは、エンターテイナーなのね。なので、ホスト役なの。なんかMCの人が、笑顔振りまいて、挨拶してつなげていくじゃない。それを演奏する本人がやるのが、演奏者の仕事なんですね。
(略)
内側での緊張や不安はもちろんあるけど、それが共有したいものじゃないので。ちょっとさっきの登場のしかたは、それを振りまいてました。
それの逆でやっぱりよくないのが、自信を振りまいて演奏する人いるじゃん。ケッと思うじゃん(笑)。おんなじなのね、結局やってることは。
なにを聴きに来たかっていうと「曲」なので。
エンターテイナーとは「座」を「宴」にしていく人なのだと思う。
集まってくれた人たちの「私」を少しずつ薄くしていきながら、「私」と「私」ではなく「曲」で出会うことを可能にする、というような。
そう思うと、ますますホスト役の重要性が際立ってくる。
先のメルマガでは、歌仙のホスト役である宗匠について、こう説明されている。
和気藹々(わきあいあい)とした場の雰囲気を活かしながら、各人の最良の部分を引き出し、より高次な作品へと導いていく技量、度量、センス、社交性を求められるのが宗匠です。
芭蕉は「発句は門人のうち予に劣らぬ句する人多し。俳諧においては老翁が骨髄」と述べたという。
「最初の一句なら自分に劣らない句をつくる門人はいくらでもいるけれど、俳諧(歌仙)をさばくことにかけては、わしが一番じゃ。」
そのぐらい宗匠は、力のいる仕事だったのだろう。
そして「IPPONグランプリ」でダウンタウンの松ちゃんに与えられているチェアマンという謎の役割もこの宗匠にあたるものだろうし、彼はそのほか多くのお笑い番組においてホスト役を担っている。
「場」や「座」は、誰がひらくかによって、中身を大きく変えてゆく。
「宴」になるか「罰ゲーム」になるかは、ホスト役のあり方が担っていると言ってもいい。
そう思うと、これは俳句やお笑いや音楽にかぎることではなく、あらゆる場に言えることかもしれない。司会進行、議長、ファシリテーター、MC、社長、座長、なんであれ、その人の影響力って大きいんだなあ。
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