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文章が書けない

いつからだろうか。
自分が書いた文章に満足できなくなった。

「伝えたいことで溢れすぎて読むに耐えない」「これは要らない要素を孕みすぎている」

こだわらずに上げて仕舞えば良いのだろうけれど、自分がその文章に愛を持てないから、放置するようになった。

そうして積み上げられた「下書き」は数えることも嫌になるほど増えてきた。

「思考能力」と「表現力」、その二つが足並みをそろえて成長しないがために、こういうことが起こっているのではないかと思っている。

自分で言えたものではないが、ここ数年、特に大学に入ってから僕の思考能力はグンと伸びていったと思う。
1人悩み続け、誰に相談すれば良いかわからず、自分の中で咀嚼していくうちに大抵のことを自己代謝できるくらいには成長した。

しかし、それに引き換え文章を読まず、作品を見ず、人の表現に密接に関わってこなかったがためにどうやって自分の意思を表現すれば良いかが分からなくなってきた。
最近それに気づいた。

そうすると、自ずと自分が伝えたいことがわからなくなってくる。
言語化が難しいのである。
頭の中ではイメージが出来ているのに、伝えられない。
英会話に似ているかもしれない。
伝えたいことは考えられるし、断片的な単語は思い浮かぶけど、うまく言葉にならない。そんな感じだ。

だから今日は、納得行かない文章でも良いから、とりあえず書いて、とりあえず投稿してみようと思う。


最近、映像制作を学び始めた。
これまでやってきた、平面的なデザインと比べて、3次元的に、そして感情や思いをより深く伝えることができる映像表現という分野は、なんとも奥深く、そしてとても難しい。

それだけに、凄く楽しい。

映像では、まず「撮る」スキルがいる。そして、「編集」も必要になってくる。
だが、何より大切なのは、「何を伝えたいか」に尽きると思う。

これは最近気づいたことである。

どんな分野においても、何で伝えるか。どうやって伝えるか。そんなことは後回しで良くて、最も大切なのは「何を伝えたいか」なのだ。

当たり前のことなのだろうけれど、3年間デザインを学んでいて、やっと真意を理解できたような気がしている。

だからこそ、映像であっても、デザインであっても、そして、文章であっても、伝えたいことを理解することが必要だと感じる。

そのために僕は、また書くことを選んだ。

今言語化したいことはいくつかある。
「僕にとっての学ぶということ」
「人と人について」
「映像を学んで感じること」

あとは、今撮影を行っていることに関係することで、
「寺社仏閣について」「神事について」なども、文献やサイトなどを通じてインプットして、自分の言葉に置き換えてアウトプットしていきたいと思っている。

今日は久しぶりに1,000文字以上の文章が書けた。
納得行かない部分ばかりだけれど、とりあえずこれで投稿してみる。

また、書きたいことについて書いていきたい。
何度でも、納得行くまで。

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