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ちょっと待って!そのお金、賞与?それとも一時金?(賞与・一時金の歴史について 前編)
ATMの前に立つと聞こえてきそうなフレーズ(ちょっと待って!その振り込み的な)のタイトルですが、今月或いは先月、あなたの口座に振り込まれた「まとまったお金」。それは賞与ですか?それとも一時金ですか?
「そんなものは無かった(或いは既に無いのだから無かったも同然)」という方もいれば、「そんなのどうでもよくない?とりあえず金だ!金だ、金だ、金だー!!!」という方もいらっしゃるかもしれません。
実際私も、底を突きかけていた口座に干天の慈雨のごとく振り込まれたお金を前に、呼び名などどうでもよいと思ってしまうのですが、調べてみると以下のような理由で呼び分けられることがあるようです。(人事以外の職種の方は「ボーナス」と呼ぶことのほうが圧倒的に多いかもしれません。)
(賞与について)賃金後払説をとる労働者側は特に、賞与という名称が「賞め与える」という経営者側の人事管理機能強化を意味するところから、「一時金」という名称を用いることがある。#賞与・一時金の歴史
— メーカー人参🥕@ど田舎 (@ninjinjibu) July 15, 2021
さて、この、日本企業において一般的*である賞与・一時金(以下、賞与)について、どのような経緯を経て定着することになったのか、ざっくりと見ていきたいと思う。
*(厚労省 平成29年就労条件総合調査 賃金制度より賞与制度を導入している企業割合は1,000人以上規模96.8%、30〜99人規模88.1%)
「賞与の起源は遡ること江戸時代。当時の...」という、わりとよく聞く話からはじめてみよう
「賞与の起源は遡ること江戸時代。当時の...」という、まぁまぁ有名な話をどや顔で書くのもあれなのですが、起源は以下の説が有力です。
江戸時代の商家では、年の暮に、番頭・手代たちに、「餅代」と称して主人から何がしかの包み金が渡される習慣があった。これを年末賞与の期限とみるのが定説となっている。
— メーカー人参🥕@ど田舎 (@ninjinjibu) June 9, 2021
鍵山 整充(1984)「賞与と成果配分」白桃書房#賞与・一時金の歴史
で、ここで「なるほどー!」となっては相手の思うツボです!(いや誰と戦ってるの?)
「あぁ、そうですよね。それはそうとして、今回振り込まれたのは夏季賞与なんですよ。今おっしゃたのは冬季賞与の起源ですよね?伝え方が悪かったのかもしれませんが、私としては夏季賞与の起源についてお聞かせ頂ければと思いお伺いしたのですが、そちらについては如何でしょうか?」という性格悪めな絡み方をするのがおすすめです。(誰に?)
(江戸時代)盆の藪入りに、住込みの丁稚・手代に「小遣い」と「おしきせ」が支給された。支給対象は若年層で、年功も浅く、額も「餅代」に比べ、少額のものであったろう。彼らは支給された新調のおしきせを着て、親許に帰り、休日を過ごす。これが夏季賞与の起源と考えられる。#賞与・一時金の歴史
— メーカー人参🥕@ど田舎 (@ninjinjibu) June 9, 2021
このように支給されるようになっていったそうですが、その名称はさることながら現在の賞与とは内容も随分と違います。名称については、明治に入ると一部では「賞与」と呼ばれるような賃金もでてきました。
明治時代前期においては、官庁・官営工場・軍工廠・銀行・民間企業の賃金体系が決められ、「賞与」という言葉も出てくるようになる。しかし、まだ世間相場として幾ら、というような定着はなかったとみられる。#賞与・一時金の歴史
— メーカー人参🥕@ど田舎 (@ninjinjibu) June 13, 2021
明治前期の賞与が現在と全く違う点は、その支給対象が職員層のみであって、各企業の工員層には全く支給されなかったということである。なお、後期以降、職工の定着率低下の足止めのためにも先進大企業や高級工場などでは、工員層にも賞与的な給付が行われるようになった。#賞与・一時金の歴史
— メーカー人参🥕@ど田舎 (@ninjinjibu) June 14, 2021
ただし、まだまだ一般的なものではなかった。また、賞与の位置付けも現在のいわゆる賞与の4つの性格(社会慣習説、功労報奨説、賃金後払い説、収益分配説)とは異なっていたようです。
明治後期以降、職工の定着率低下の足止めのためにも先進大企業や高級工場等では工員層にも賞与が支給されるようになった。しかし、その位置付けは「満期特別恩給賞」という退職一時金に近いものや、精皆勤手当のようなものであった。#賞与・一時金の歴史
— メーカー人参🥕@ど田舎 (@ninjinjibu) June 16, 2021
では、いつ頃、人口に膾炙するようになったのかというと、それは大正時代に入ってから。
大正期においては工員への賞与支給がしだいに拡がり、慣例化されるに至る。ただし、職員との支給額の格差は相当な開きがあった。河田蜂郎氏調査によると、社員の場合は年平均7.8ヶ月相当に対し、工員層は1.0ヶ月相当。#賞与・一時金の歴史
— メーカー人参🥕@ど田舎 (@ninjinjibu) June 17, 2021
大正時代においては、賞与も賃金の一部として定着し、会社規程のなかに、きわめて概括的な表現であるとしても明文化されてきた。#賞与・一時金の歴史
— メーカー人参🥕@ど田舎 (@ninjinjibu) June 20, 2021
また、この頃にはすでに、現在の賞与制度でも一般的である月給の額に応じて賞与額を決めることや、業績や査定が反映されるような制度を導入している企業もあったようです。
大正期には、三井、三菱、住友などの財閥系企業で賞与は出勤日数と月給の額に応じて決まる普通賞与と企業業績・査定が反映される特別賞与で構成されていた。(昭和同人会 1960)#賞与・一時金の歴史
— メーカー人参🥕@ど田舎 (@ninjinjibu) June 28, 2021
起源として記した江戸時代のことを考えると、随分と現在の賞与に近づいたように思えますが、上記 河田蜂郎氏調査にあるように、いわゆるホワイトカラーとブルーカラーでは支給水準に大きな差があること等、まだまだ現在の一般的な賞与制度とは違いがあります。
前編を終えるにあたり
「現在とは異なる大正時代の賞与が、現在の形になるには、実はこのような驚くべき事態が!!」というようなドラマティックな展開は賞与制度という地味な題材故に当然期待できません。
あ、”地味な”と書きましたが、「年間17ヵ月賃金」とも言われるように、企業差はあれ平均的に4〜5ヶ月分程支給(人事院 民間給与の実態より令和2年4.46ヵ月)される賞与は年収の3割にあたるわけで、そのインパクトは決して地味とは言えないものです。私も新卒の時にそんなことも知らず入社した企業で痛い目を見ました...(一昨年度の年間支給月数がパンフレットに載っていたのは、そういうことだったのかー!!!)
とまぁ、そんなことはさておき。このように地味だけど地味じゃない賞与制度について、後編では、昭和以降について書いてみようと思います。
【参考文献】
・鍵山 整充(1984)「賞与と成果配分」白桃書房
・金子 良事(2013) 「日本の賃金を歴史から考える」旬報社
・大湾 秀雄・須田 敏子(2009)「なぜ退職金や賞与制度はあるのか」『日本労働研究雑誌』No.585
・荻野 登(2020)「企業業績と賃金決定」『日本労働研究雑誌』No.723
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