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両親 18.母逝去

 2007年6月・・・・
 
 父は92歳、母は85歳、二人は横浜の老人ホームにいる。父は、足がきかず、車椅子での生活であり、加齢によるボケも進んでいる。耳も殆ど聞こえないようで、会話はあまり出来ない。母は、肺癌が相当進行しており、先は長くない。それでも、年も年、生きているだけで立派なものではあろう。

 母には殆ど毎日電話しているのだが、夜熱が出るという。いわゆる、腫瘍熱で、長くないのだが、本人は風邪を引いたくらいに思っている。

 昨日、新潟から日帰りで監視人(妻)とともに、行って来た。母の部屋に入ると、喜んではいたが、食欲もあまりなく、咳もしていて勢いがない。それでも、父がうるさいとか、介護の人が直ぐ来ないとか、長唄の友達が来るので疲れるとか、相変わらずなにやかにやと、文句を言う、死ぬまで変らないらしい。

 父は部屋におらず、食堂にいるというので、そっちに行くと、顔を見て、にこにこし、俺の手を両手で握って離さない。なんだか、親子が逆だが、年とともに子どもに戻ると言うので、暫くそのままにしておいた。


 2007年8月・・・・
 
 母は8月13日の朝、85歳で、亡くなった。昨年3月に大腸 癌で手術したのだが、既に肺に転移しており、手の施しようがなく、余命は、半年から1年程度とのこと、本人には告知していない。

 暫く、姉と当家の監視人(妻)が交代で横浜の家に泊り込み、面倒を見ていたのだが、2人に申し訳ないとのことで、昨年10月に、近くの老人ホームに入居した。私は、いつも、3年後に(転勤して)新潟から戻るから、それまで、元気でいてくれと言っていた。今回のお盆は、13日に一族集合する予定で、準備万端、2人とも楽しみにしていた。

 私は、毎晩、新潟から母に電話していたのだが、1週間ほど前から、様子がおかしい。姉に聞くと、血液の酸素濃度が低下しているとかで、吸入を始めたという。いよいよ肺が機能しなくなったということで、末期症状だ。計画していた箱根旅行を取りやめ、11日に新潟から直接、両親のいる横浜のホームに向った。母を一目見て、これはだめだ、と思った。

 体を動かすこともままならず、寝返りもうてない。色々喋るが、何を言っているのかよくわからない。何も食べられないので、脱水にもなっているようだ。ホームの看護士と相談して、病院に連れて行ったが、肺全体が癌で真っ白、いつ逝ってもおかしくない、脱水症状のようなので、入院して点滴しますとのこと。病院よりホームの方が多少は居心地がいいだろうと、入院を強引に断ってホームにつれて帰り、看護士さんに点滴を続行してもらった。私は一先ず、横浜の自宅に戻る。

 あくる12日行ってみると、点滴の効果があったのか、話すことがおおよそわかる。背中をさすってくれとか、右を向かせてくれとか言うが、合間、合間にうとうととして、鼾をかく。具合はどうだと聞くと、今までで一番悪いと言う。よく分っているとは思ったが、そうかそうかとしか言えない。夕方、明日又来る、と言うと、「遠くへいきなさんな」と一言。それが、最後に聞いた母の言葉だった。

 翌、13日の朝、8時に連絡があり、急変だとのこと。直ぐ駆けつけると、既に医師が、確認作業をしており、今、亡くなりましたと言う。隣の部屋にいる父を連れてきて、手を握らせ、お母さんは亡くなったと告げると、声を出して泣いたので、理解したのであろうが、暫くすると何も言わず、目立った表情がない。

 昼の一族集合は、追悼の食事会となってしまった。全員で黙って静かに会席料理を食べる。直ぐに葬儀屋を呼び、姉と二人でその後の詳細を決めた。
 
 夜、21時、最後にホームを離れる時、 裏玄関に、介護をしてくれた人たちや、親しかった入居者たち、10人位が、集まってくれる。母を葬儀社手配の車に乗せるとき、車椅子の父の手を取って、「お母さんとはこれで、最後だからね。もう会えないよ。」と、何度も何度も言ったのだが・・・わかっているのか、わからないのか、黙って、俺を見ていた。見送りの人たちにお礼を言って、実家に向った。

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