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世の中の役に立たないこと。#7

湯船に浸かりながら、スマホのホーム画面をスクロールしていると「今日は〇〇さんの誕生日です」と表示されていた。

〇〇さんとは、私のいとこの兄のことである。正確な年齢はわからないが、生きていればもうアラフォーになっていることは間違いない。いとこは30代前半に病気をして、数年闘病をした末、最後は意識が戻らないまま亡くなった。残暑が続く9月のことだった。

兄が亡くなる数週間前、私は、兄が住む田舎に帰省した。どうして帰省したのかは覚えていない。社会人になったらなかなか帰省できなくなるからという理由だったのかもしれないし、祖父の法事があったのかもしれない。とにかく、コンビニに行くのにも車で5分以上かかってしまうような何もない田舎で、ほんの数日ではあったが、兄と最後の夏をのんびり過ごした。

兄の誕生日に気づく前の夕方、たまたまぼんやりと考えていたことがある。それは、生き死に関係なく、たとえ誰かと別れがきたとしても、別れ手間もない頃は悲嘆に暮れる毎日を過ごすかもしれないが、いずれはまた元どおりの毎日を送れるようになるのだと。元どおりになることは人の心の機能としては正常なのかもしれないが、それでも、心の機能が正常に機能してしまうことにどこか寂しさと葛藤を覚えた。だったら、人と深く関わること自体になんだか少し恐怖を感じた。

だって、心が正常に機能したら「大切な人がいなくても平気」ってことになってしまうような気がするから。いつまでも「別れ」から立ち直れない場合は、それはそれで治療なりカウンセリングの対象になってしまうが、それでも、その人がいない今を生きながら、その人と過ごした過去をどう扱っていいか、そして、その人が亡き今、その人のことを自分の中でどのように捉えたら良いのか、恥ずかしながら自分はまだわからない。

年末になると、両親は喪中葉書を見ては「だんだん喪中葉書が増えてきた」と嘆く。確かに歳を重ねれば、亡くなる人が増えてくるのは自然なことかもしれない。けれど、親戚だったり、友人だったり、先生を誰かしら亡くすという経験は四半世紀も生きていれば一度や二度は経験することだと思う。

私は、兄だけではなく、学生時代を毎日過ごした友人も亡くしている。兄は今でも兄だし、友人は今でも友人だ。だけど、「別れ」をきっかけに、今まで通りに行かなくなったことは間違いない。あんなに毎日一緒に1日のほとんどの時間を一緒に過ごし、ふざけたり、時には喧嘩もして、大学を卒業してからも、毎日LINEをするような関係であったにも関わらず、今はその友人は頭の片隅のどこかへ行ってしまっている。寂しがりやで、放っておくと、すぐ拗ねる人だったから、拗ねてないだろうかと時々心配になる。兄と友人から「いつまでも引きずってんじゃない!」と叱られそうだが、それでもまた、遊びに行きたいし、LINEもしたい。時々、もう二度と使われることのないLINEやSNSのアカウントを見かけると切なくなる。

高齢者の死には、心から「お疲れ様」と言ってあげられるのに、どうして若い人の死には、それが言ってあげられないのだろう。死に上も下もないはずなのに。これは、私自身にある差別心であり、執着だ。兄だって、何年もつらい治療を続けてきたのだから、本当は心からの「お疲れ様」を言ってあげたい。もしくは、「病気に殺されてんじゃねーぞ、バーカ!」くらい言いたい。だけど、実際に私が言ったのは、心からの「お疲れ様」じゃなくて、頭の中から捻り出した「お疲れ様」だった。「お疲れ様」って言えた、はい、OK、というような、相手を思いやっているようで、実は自分よがりな乱暴な言葉をかけていたのかもしれない。

相手の生き死に関係なく、これからも別れの場面はあるだろう。むしろ、今後、増えていくことに違いない。相手が生きているのか、死んでいるのかで、多少捉え方が違ってくるかもしれないが、それでも、私はまだ失うことに慣れてない。だから、執着する。

兄と最後に過ごした夏、田舎ではお菓子を食べながらテレビで甲子園観戦と墓参りくらいしかやることがない。甲子園にもう飽き飽きとして、体育座りをしてうとうとしていたら、兄が指先でぽんぽんと撫でてくれた感触が忘れられない。

別の友人の結婚式のスライドショーで、友人の写真が映された時には涙が出た。友人はここに来ることができなかった。一緒に祝うことができないのだとわかったから。

そんな彼らのことを思うと、生きていようが死んでいようが、誰かとお別れをすることが怖くて仕方がない。また別の新しい出会いがあることもわかっている。けれど、今関わりがある人とは、1日でも長く関係を続けていたいと思う。

個人的には、このコロナ禍で、今まで以上に疎遠になることは簡単になったと思うし、反対に新しく人と出会うことに難しさを感じている。幸いにも、私の周りではコロナウイルス の感染者はいない。けれど、私も含めて命を落とす可能性がゼロではない今(元々、明日死ぬ可能性はゼロじゃなかったが)、失う怖さを感じつつ、それでも深く人と関われるような、そんな矛盾ごと丸抱えできるようなコミュニケーションの取り方を模索していく必要があるのではないかと考えている。とはいえ、言うは易し行うは難しだ。誰も失いたくはないけれど、それも受け入れていかないといけないな。

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