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年末年始が嫌いだ。

子どもの頃から年末年始が嫌い。

年の瀬の、あの終わりゆく感じも、お正月のゆったり時間が流れる感じも。お正月は家族と過ごすものだと、勝手に決まっているような気がするし、その雰囲気をぶち破れないわたしが嫌だし、かといって、行き場もない。いつも行くカフェや本屋やショッピングセンターはいつもより閉店が早く、開店が遅い。「正月くらい、下に降りてらっしゃい」と、リビングにいるように促されるけれど、正直、家族と何を話したらいいかわからない。沈黙を埋めるように、テレビを観ても、お正月特番のノリについていけない。

わたしが住んでいる街はベッドタウンで、ほとんどの人がよそ者だから、正月やお盆は一気に人が減る。同じ景色を見ているはずなのに、人通りも閑散として、まるで、わたしだけがそこに取り残されてしまったかのように寂しくなる。

またすぐに会えるに決まっているのに、「よいお年を」は「さよなら」「またね」とは違う、遠い別れをしているように思ってしまう。

「あけましておめでとう」よりも、いつも通り「おはよう」や「こんにちは」と言いたい。みんな心から新しい年になったことをめでたく思っているのだろうか。どこか、「一応言っとくか」みたいに言っているような気がする。少なくとも、わたしがまさにそれなのだけれど、「あけましておめでとう」と言う世間に抗えないから、結局、違和感を残したまま来年も「あけましておめでとう」と言うのだろう。

おせち料理も、子どもの頃から嫌いで、今もどうにも好きになれない。好きでもないものを、ありがたがって食べなければならなかったあの感覚が、今もどうにも抜けずにいる。年齢を重ねて、食の趣向が変わって、おせちはお酒に合うような気がするけれど、おせちとは対極にあるグラタンとか、格安チェーンの牛丼とか、そういうものが食べたいような気もする。好きなものを食べさせろ。

子どもの頃はよく、1月の2日か3日くらいに親戚の家に集まって、1泊して帰るのも恒例行事だった。祖母の弟の家に集まると言う、わたしからすれば祖母の弟は何と呼んでいいかわからない関係だったけれど、祖母の弟一家と、祖母と、いとこ一家と我が家というまあまあ大所帯なお正月を過ごしていたと思う。祖母の弟の家に行くと、いつもカニが振舞われていたような気がする。カニをばくばく食べるいとこを横目に、親戚とはいえ、わたしの感覚では遠い親戚の家でわたしがお腹いっぱいばくばく食べてはいけない気がした。全然気持ちが休まらなかったし、お年玉がもらえたとしても、本当は来たくなかったといつも思っていた。

そんな、ローテンションでどこか緊張しているわたしに対して、親戚は「〇〇(いとこ)に比べて物静かやなぁ」といつも言った。元気で明るい子がいいみたいな、そんな風に言われているような気がした。そりゃ、肩身がせまい思いしてるんだから、元気が出るはずないだろうと思ったけれど、そんなことを言えるはずもなく「ははは」みたいに笑って曖昧にごまかしていた気がする。

ここ3年くらいは、アルバイトをしていた福祉施設にわざと年末年始に働いていたので、何だかいい感じに気が紛れていた。気がまぎれる上に、時給も上がるので本当に最高だった。けれども、今年は年末年始のアルバイトもない。今から使い慣れない即日バイトを見つけるアプリを使う気にもなれない。

やることが全くないわけではないけれど、今年の年末年始をどう過ごそうか迷い中。できれば、穏やかに過ごしたいなあと思っている。

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