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#10 半端な理解で「訂正可能性の哲学」を語る/ #Z4 今の中学生は坂本龍一「async」を勉強するらしい【ポッドキャスト更新】

こんにちは、人間のニンゲンです。
「ワンとニンゲンの文学ラジオ」第10回と第Z4回、公開中です。
師走の買い出しのお供にどうぞお聴きください。

毎週 火・木 に最新話アップと宣言してましたが、ここ数週間、木曜のアップが遅れがちで大変申し訳ないです。僕の生活サイクル的に火・土がベストだと結論が出ました。
今後は「毎週 火・土 更新」とさせてください。

さて、今回も軽く内容に触れたいと思います。


■ 第10回 半端な理解で「訂正可能性の哲学」を語るのを許してください。

今最もホットな哲学書、東浩紀「訂正可能性の哲学」を取り上げます。

文体は柔らかく可読性が非常に(異様に?)高いのですが、書き表されている思索は当然のことながら深く、複雑です。ワンさんが珍しく尻込みをしています。

したがってぼくは、なにかについて断片的な情報しか入手できないまま、友にもならず敵にもならず「中途半端」にコミットする価値を、あらためて肯定する必要があると考えた。(中略)そのような肯定がなければ、現代人はまともに政治に向きあうことができない。ぼくたちはどうせすべての問題に中途半端にしか関わることができないのだから、まずはその限界をきちんと認め、そのうえで新たな社会思想を立ち上げなければならないのだ。

東浩紀「訂正可能性の哲学」ゲンロン叢書 p82

僕は何よりもこのくだりにとても大きな勇気をもらいました。
「現代はあらゆるものごとが政治化し、論争の対象になっているけど、全てに対して専門家的に詳しくなるのは無理だから、半端で断片的な情報しか持ってなくても口を出す価値を認めようよ」。ここで言う「政治」の範囲をどう捉えるかは難しいところです。ですからもしかしたら拡大解釈になってしまうかもしれないですが、この価値観というのは、文学やその他芸術にも当てはまるのではないか。

むしろ、芸術分野というのは本来的に「中途半端さ」を受け入れるべき土俵であり、「訂正可能性」を地で行く領域だと僕は考えています。一方で、昨今は作品の周辺情報にばかり注目が集まっている印象があります。
平たく言えば「この画に隠された謎」とか「この登場人物のモデル」とかですね。つまり、作品ではなく「作品にまつわる事実」のみがありがたがられる傾向があるように思います。

無論、研究ではそういうことも大事です。しかしこの傾向が行き過ぎると、鑑賞者の感動が封じ込められてしまう危険性が大いにある。受け手の感情の動きは、「作品にまつわる事実」とはほとんど関係がなく、そういう意味で常に「中途半端な情報」にならざるを得ないからです。

「文学ラジオ」は、作品から受けた印象や感情、思考をできるだけそのまま語るということを大事にしています。そして語り合いの中で、自身の読みを少しずつ訂正してゆく。その訂正の作業の中で、ファクトはときに大きな役割を果たしてくれることもあります。しかしファクトはあくまで作品を読む上での補助的な役割でしかありません。

中途半端であることを理解した上で作品を語り合うこと。そういう実践を「訂正可能性の哲学」は肯定してくれているような気がして、嬉しくなりました。

■ 第Z4回 今の中学生は坂本龍一の難解アルバム「async」を勉強するらしい。

タイトルの通りなんですが、すごくないですか!?
僕が坂本龍一の「async」が好きであることは以前noteに書いたとおりですが、

このアルバム、めちゃめちゃ前衛的なので、義務教育の音楽の授業で扱う交響曲や合唱曲のようなわかりやすさがありません(主題は凄まじく美しいですが)。
大抵の中学生はこれを聴いて即「いいね!」とは、まあなかなかならない気がします。

これを中学生で聴いたら、たぶんクラスの10人くらいは「良いのか悪いのかよくわかんないけどなんだかひっかかる、もやもやする」みたいな煮えきらない感情を掻き立てられてその日一日は頭から離れなくなり、クラスの1、2人は「async」に取り憑かれて狂ったようにヘビロテし始め、その後の音楽観が一変するんじゃないでしょうか。
そんな感じのアルバムです。僕も中学生で聴いてみたかった。


それでは引き続き文学ラジオをよろしくお願い致します。

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