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にんふぇあ、宿場町を歩く(「はじめに」編)

はじめに

宿場町を見てみたいな、と思った。

全然くわしくはないけど、日本には東海道やら中山道やら古くから多くの旅人が利用した街道があり、街道沿いには多くの宿場町が存在していたらしい。

旅行が好きな人として、かつて旅人が休息に使った町の痕跡を見てみるのも面白そうだし、奈良井宿や大内宿みたいに古い町並みを大々的に売りだしている場所以外にも、行ったら行ったで何か面白いものがあるはずだ。

そう思って、有名な観光ガイドブックにはあまり載らないけどかつての宿場町の痕跡が残っている場所を、少しずつ訪ねてみることにした。

これはその時のことをまとめたものだ。今回は「はじめに」編ということで関宿を訪ねる前の話までにするけど、不定期で他の宿場町を訪ねた時のことも書いていきたい。

三重県・関宿(に行く前の寄り道)

そのように意気込んでみたものの、果たしてどこまで楽しむことができるのかという懸念もあったので、まずはそれなりに名が知られている宿場町を訪ねて見ることにした。

三重県の関宿は前述の奈良井宿や大内宿のように目立ってはいないものの、観光ガイドで掲載されることも少なくない。ここなら当時の面影が何もないということはないだろう。

今さらだけど、今回関宿に行くことになって下調べした時に、私の中の関のイメージがごっちゃになっていることに気がついた。

今回行くのは三重県の関だけど、世間で有名なのはどちらかというと刃物で有名な岐阜県の関だろう。

三重と岐阜ということで県がとなりあっていることもあって、関宿と聞いた時私は「刃物で有名な関って宿場町だったんだ」と勘違いしてしまったのであった。

下調べにより勘違いを解消した私は、カーシェアのクルマで三重県の関を目指した。知らなかったら岐阜県に行ってしまっていたので危ないところだった。

関宿だけ行ってもよかったのだけど、せっかくなので少し寄り道して亀山城に行くことにした。

三重県の亀山城は伊勢亀山藩の城主の居城として使われており、歴史的に重要ではあるものの、事前に調べた限りでは観光スポットとして大きく紹介されたり、行ったという人の話はあまり出てこなかった。そこまで観光地で見栄えはしないのだろうということが予想できる。

亀山城近くの、城の観光客向けだか近くの公園利用者向けだか分からない駐車場でクルマをとめる。今でこそ櫓(やぐら)しか残っていない亀山城だけど、当時は天守があったというだけあって小高い丘のような場所だった。

公園には家族連れがちらほらいたし、中学校の方からは野球の試合のような声が聞こえる。観光地ではなく、地元の人の憩いの場っぽい印象だ。

クルマをおりたところにあった亀山神社を軽くのぞく。古びていて誰もいなかったけど、落ちた葉や枝が石垣の上にはいてまとめられており、さっきまで神社の人が掃除をしていたようだった。天満宮と書かれた旗がある。子どもの集まる場所にはふさわしい神社だ。

神社の外には木の門があった。瓦屋根が乗っていて頑丈そうな観音開きの扉もついており、小さいながらも立派な作りだ。奥には何か建物があった。神社に付属した道場のようなもののようだ。

この門は亀山城鎮守社・南崎権現社の神官である大久保家邸宅のものであり、亀山小学校の裏門として使われたあとまた移築されたものだという。

もとは亀山城鎮守社の神官の家のものなので、小学校を経て亀山城を守るような位置にもどってきたことになる。意図的にそうしたのかもしれない。

門は古びてはいるものの、瓦や壁に痛みや割れはない。木の部分も塗られたようになっているので、修復しながら使われていることが分かる。

素人・よそ者目線で見た時この門がどこまで重要なものなのか分からないけど、大事なものなのであれば修復や移設が不可能になるまで使われ続けるだろうし、時間の流れで周りの人々の「これをなくしてはいけない」という気持ちが揮発していき、いつかは処分されてしまうのかもしれない。

例えるなら、履けなくなった靴を捨てるに捨てられず、一旦靴箱に保管しておくような感覚だ。

今は愛着があるので捨てられないけど、一度靴箱に保管して使わずにいる期間を設けることで、まあ捨ててもいいかと思えるような、そういったものの途上にある門なのかもしれないとも思った。

現地の方々の想いやこの門を残すため奔走し移設にこぎつけた時の苦労など知るよしもなく勝手な想像をしながら、亀山城の櫓の方へ向かう。

櫓は石垣の上にあった。石垣に設けられた階段を経由して入れるようになっている。櫓は白い蔵のような見た目で、壁が白く真新しいように見えた。見あげるような高さの石垣のわりには質素で、まさに櫓という感じだ。防御施設である櫓がもろいはずはないので、頑丈な蔵に似ていると感じるのも当然かもしれない。

石垣のふもとには、木の枠で覆われた砂場のようなものがあった。これは与助井戸と呼ばれ、かつて城の本丸にあったそうだ。

与助は亀山城築城に伴い移動した民家の人の名前だという。築城という大事業にまきこまれた結果、一介の民が歴史に名前を残していることに面白さを感じた。

さっき登場した神官の大久保家にもいえる話だけど、こういう日本史には登場しないし日本の歴史にもほぼ影響を与えていない、でも現地では名が知られている歴史上に存在した人物の痕跡を見つけるのは結構好きだ。

この与助井戸には城外に抜ける道があったといわれているそうだけど、すでに井戸は埋められているし、亀山城サイドも掘り起こして調べることまではしないと思われるので、これはありがちな伝説として永遠に確かめられないまま終わるのだろう。

亀山城の櫓の中は木の床に土壁で、やはり蔵のような作りになっていた。1644年〜1647年の間に建てられたそうだけど、近年修復されたのかそこまで古びていない。資料館のように説明パネルが何枚かかけられていて、櫓の壁の構造サンプルのようなものがおかれていた。

立派な石垣の上に蔵のような櫓が建てられているのには理由があり、元々はここに天守があったらしい。

だけど、松江藩主の堀尾忠晴が一国一城令に伴って丹波亀山城を破却するよう命令された時、間違って伊勢亀山城を破却してしまったため、失われてしまったそうだ。

近年は仕事でオンライン会議やメールが一般的になり、顔を合わせての打ち合わせや会議が減ったことによって十分なコミュニケーションが取れなくなっている(と会社のおじいちゃん世代は思っている)けど、この時代だともっとコミュニケーションが困難そうだ。

対面以外の素早いコミュニケーション手段が「手紙を書いて馬や足が速い人に持っていってもらう」しかないし、仮に対面できたとしても、この時代の偉い人(君主や幕府や朝廷)はたぶん現代の一般的な会社の偉い人よりも怖いのであまり細かい確認はできない。

現代の会社であれば部長の手が空いたところを見計らってデスクに近寄り、「あのっサーセン部長、念のため、あくまで念のための確認なんスけど、このぶっ壊していい亀山城って伊勢の方ッスよねーーあっ、丹波の方? いや、念のため聞いただけなんで、丹波亀山城の方ぶっ壊すってことで了解ッス!」という10秒の確認で防ぐことができたはずだ。

どういう経緯で知ったかは不明だけど、うっかり違う城を破壊してしまったと気づいた堀尾忠晴の気持ちを想像するといたたまれない気持ちになるし、他人ごととは思えない。

ちなみに彼は翌年亡くなった。いろいろまいってしまったのかもしれない。

江戸時代に存在した他人ごととは思えない人物の逸話に思いをめぐらせながら、私は関宿を目指す。

※宿場町にすら到着していないのでたぶんまた続きを書きます

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