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知人が超多い友達のBirthday Partyで。

先日、ある友達の60歳の誕生日ディナーに招待された。

彼女とはもう10年以上前、子供たちが公文に通っていた時、その待合室で出会った。彼女は編み物をしていて、その毛糸がそれはそれは美しい色だった。手染めの毛糸を見たのはそれが初めてかもしれない。

Madeline Tosh

大学時代に編み物の経験があった私は、その毛糸の美しさに呆然となり、それから編み物を始めた。

さて。
双子の息子がいる彼女には友人知人が多い。双子はうちのムスコの三つ下。ムスコの大ファンで、それから家族でつき合いが始まり、料理上手な彼女の家によく招待された。

少人数でも大人数でもパーティとなると、ホストはゲストの一人一人と小さな会話は交わすけれど、じっくり話すなんてことは不可能だ。友達がどんどん増えていった彼女とは、なかなか二人で会う機会をもてなくなっていった。

誕生会ディナーは、近くのレストランで。15人ほど集まっただろうか。その中には、以前彼女の家で会ったことのある人たちもいて、初めて会う人たちも含めて、私は心地よく過ごすことができた。

彼女がパートタイムで勤めている先の歯科矯正医(兼隣人)も来ていて、スピーチをした。彼女にはたくさんたくさん友人がいて、その中でこのディナーに招待された私たちは彼女にとって特別な存在であること。彼女が温かい大きな心の持ち主であること。

それに異論はない。

が。私は友人とは心の奥に触れるような深いつき合いがしたい。近況報告だけの表面的なつき合いは時間のムダだと感じる。

数ヶ月に一度、思い出したように彼女からテキストが入る。そして一緒にランチしようとか家に遊びに来い、という話になるのだが、いざ日程を決めようとすると、彼女の都合がつかずなかなか決まらない。何度か約束したけれど、直前にキャンセルということが続き、私はもう自分から声をかけるのをやめた。彼女は、家でのパーティや家族だけの夕食に私とムスメを呼ぶことで補おうとし、それは素直に受けている。

それはそれでいいのだが、やっぱり二人きりで会うからこそできる会話ができない。

あんなに友人が多かったら、一人一人とどこまで深いつき合いができるのだろう。できるわけがない。でもそれは彼女のスタイル。彼女が私と一対一の会話を求めていないのなら、それはそれと受け止めるしかない。

私は自分で友達が多い方だとは思っていない。が、正確には、知り合いは多くないけれど、友達は多いのかもしれない。その時代時代で知り合った友人を私は大事にするから、つき合いはずーっと続くことが多い。途中、音沙汰がなくなっても、お互いにとって大事な相手だったから、何かのきっかけでスルッと復縁できてしまう。

大事な友達なのだけど「親友」とは言い切れない。私はそれぞれの良さを認識しつつ我慢できない部分もあって、誰ともある一定の距離を置いて完全に心許すとこまではいかない。が、誠実につき合うから、相手もそれを感じて返してくれていると思うことが多い。

最近、離婚するかしないかっていう友人が数人いる。私が見事な離婚を成し遂げたので、「実は」と相談してきた感じ。

そのうちの一人は、離婚したいけれど、彼女個人の銀行口座すら持たせてもらえず、彼の庇護にいる限り経済的な心配は一切ないけれど、彼女の心が離れている事実に彼はまるで気づいていないというケース。私は家政婦でしかない、と彼女はいう。でも下の子が大学に進学するまでにあと2年あるから今は何もできないと言い、自分は揉め事から逃げるタイプだからと言う。おそらく今の状態が変わる(彼女が変えようとする)ことはないだろうと私は思う。

でも、それは彼女の人生だ。その選択は間違ってるとか、私だったら我慢できないとか言ったとしても、まるで意味がない。

あの日。嫉妬したO君が怒って「お前、電車で帰れ。俺はバスで帰る」と踵を返した日。よくそこまで譲歩できるね、と皆に言われたけれど、一人だけ「そんなに好きなのね」と私を見つめて、会いに行きなよと背中を押してくれた友人がいた。彼の下宿に向かいながら、こうすべきとかああすべきっていうアドバイスばかりじゃなくて、本人がやりたいと密かに思ってることを見抜いて支えてあげるのも友達なんだって、私は思った。

深いつき合いをしないと、相手がそういう友達かどうかはわからない。

(続)


ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。